嵐の前の静けさ
翌朝、カイトはまた葵の家の前に立っていた。来るつもりはなかったのに、気づけば足がここへ向かっていた。昨日の不安な気持ちは消えず、疲れ切った様子の葵の母親を見て、もう無視できなくなっていた。
家の中は静かだった。不気味なほどに。カーテンは閉められたままで、生活の気配がない。カイトはためらいながらも、一歩前に出てインターホンを押した。
**ピンポーン。**
返事はない。
数秒待って、もう一度押した。
やはり、反応はない。
喉が詰まるような感覚がした。
「…葵?」
呼びかけても、答えが返ってくるはずがないとわかっていた。
カイトは踵を返そうとした——その時だった。
微かな音が聞こえた。
それは玄関からではなく、家の横の方、二階の方からだった。
彼は葵の部屋の窓に目を向けた。カーテンがわずかに揺れた。まるで誰かがその後ろで動いたかのように。
カイトは一瞬ためらったが、すぐに決断した。
家の横へと回り込む。雑草が生い茂った小さな庭があり、その先に古びた木製の柵があった。カイトは慎重にそれに足をかけ、一階のバルコニーの縁に手を伸ばす。
危険な行為だとわかっていたが、今はそれどころではなかった。
体を引き上げ、冷たい手すりに指をかける。鼓動が早くなるのを感じながら、そっとバルコニーの向こうを覗いた。
そして——
彼は彼女を見た。
葵は部屋の床に座り込んでいた。膝を抱え、壁をぼんやりと見つめている。長く美しい黒髪は乱れ、何日も梳かしていないようだった。オーバーサイズのセーターを着て、裸足の足を折り曲げている。
彼女の肌は異様に青白かった。
そして——目が、虚ろだった。
カイトは息をのんだ。
「…葵。」
彼女は動かない。
彼女は反応しない。
まるで彼の存在すら感じていないようだった。
カイトはどうすればいいのかわからなかった。もう一度呼びかけようとしたが、今の彼女に言葉は届かないような気がした。
彼は慎重にバルコニーの手すりを乗り越え、そっと着地した。そして、ガラスの扉を軽くノックする。
**コン、コン。**
それでも、反応はない。
カイトの胸が締め付けられた。
かつて憧れていた女の子——あんなに輝いていた彼女が、まるで抜け殻のようになっていた。
一体、何があったのか。
カイトは拳を握りしめた。
何があったのかはわからない。だが、一つだけ確信していた。
**自分が何かをしなければならない。**
たとえ彼女が自分を見なくても、たとえ彼女が自分の気持ちを知らなくても——
**このまま、見ているだけなんてできない。**
深呼吸をして、彼はそっとバルコニーのドアの取っ手に手をかけた。
**鍵は、かかっていなかった。**
静かに扉を引く。
冷たい風がカーテンを揺らす。
「…葵。」
彼は優しく声をかけながら、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
彼女はまだ動かない。
カイトは彼女の前に膝をついた。胸の鼓動が早くなる。
「なあ…」
躊躇いながら、そっと彼女の手に触れた。
**冷たい——氷のように。**
葵の体がピクリと震えた。
それが、彼女の最初の反応だった。
虚ろな瞳が、ゆっくりと彼の方を向く。
その瞬間——
彼女の体が震え始めた。
涙が、虚ろな瞳に浮かぶ。
唇がわずかに開くが、言葉は出てこない。
カイトは喉の奥が詰まるのを感じながら、それでも強く思った。
「…葵。」
その声には、痛みと決意が滲んでいた。
**この気持ちは、もう憧れなんかじゃない。**
**俺は、彼女を救いたい。**
**どんなことをしてでも。**