ガラス越しの彼女
ここ数日、海翔の毎日は静かに過ぎていった。
毎朝、早く目を覚まし、散歩に出かけては、同じ空っぽの気持ちで家に帰ってくる。
壁に貼ったヒーロー協会のポスターも、もう見なくなった。それは、ただの紙切れに見えた。
――自分には決して届かない世界の夢。
夢は、心のどこかにはまだ残っていた。でも、それを追う意味があるのか分からなかった。
それとも、そもそも自分には追う資格がないのか――。
それでも、どんなに気持ちが沈んでも、ひとつだけ変わらないものがあった。
それは――**水城葵**の存在。
彼女の名前は、何度も頭の中に浮かんだ。
その笑顔、声、瞳。
歩く姿、少し揺れる通学カバン。
ほとんど話したこともないのに、彼女のすべてを覚えていた。
葵は、遠い星のようだった。
明るく、美しく、そして…手の届かない存在。
一方の海翔は、ただの「普通」だった。
それでも、彼女の存在だけは、海翔に前を向く理由を与えてくれていた。
たとえ彼女に見向きもされなくても、少しでも近づきたかった。
ほんの少しでも、同じ空の下で生きていると思いたかった。
――でも、最近、何かがおかしい。
葵の姿を見かけなくなったのだ。
いつもなら、母親と一緒にコンビニに行ったり、父親と買い物を手伝ったり、
時々は近所の人と楽しそうに話していたり。
でもここ一週間、彼女の姿はまったく見えなかった。
家の中も、ずっと暗いままだった。
カーテンは閉じっぱなし。
窓からの光すら感じられない。
そして今日で、**七日目**。
海翔は、また彼女の家の前で立ち止まった。
スマホを見るふりをしながら、こっそり彼女の部屋の窓を見上げた。
――やっぱり、何も変わっていない。
動きも音も、まるで生気のない家のようだった。
胸がざわざわする。
「風邪でもひいたのかな… それとも、試験勉強で忙しいのか…」
そう思ってみても、どこか心に引っかかるものがあった。
そのとき、玄関から一人の女性が出てきた。
――葵の母親だった。
彼女の顔は疲れきっていた。
肩は落ち、目の周りにはくま。
手には、薬の瓶がたくさん入ったビニール袋を持っていた。
ゆっくりと、足を引きずるように歩き出す。
海翔は思わず、一歩前に出た。
「…あの、すみません、水城さん。」
葵の母は驚いたように顔を上げた。
一瞬、誰かを確認するようにまばたきしたあと、海翔に気づいた。
「…海翔くん?」
海翔はすぐに頭を下げた。
「あっ…突然すみません。あの…最近、葵さんの姿を見かけなくて。少し心配になって…」
彼女の表情が固まった。
数秒、何も言わなかった。そして静かに、重たい声で言った。
「…葵は、今…休んでいます。…心配してくれて、ありがとうね、海翔くん。」
そう言って、彼女は小さく頭を下げ、歩き出そうとした。
その声は、どこか震えていた。
海翔は気づいた。
胸の奥が苦しくなった。
「…葵さん、大丈夫なんですか?」
そう聞いたが、返事はなかった。
ただ一度、うなずいて、薬の袋を握りしめたまま去っていった。
その夜、海翔は眠れなかった。
天井を見つめながら、何度も考えた。
――どうしてあの母親は、あんな顔をしていたんだろう。
――どうして家が、あんなにも静まり返っているんだろう。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
昔の記憶がふとよみがえる。
中学のとき、一度だけ、葵が泣いている姿を見たことがあった。
大切にしていたペットが亡くなったとき、学校の裏でひとり、涙をこぼしていた彼女。
それを偶然見てしまった。
――明るく見える人だって、誰よりも深く傷つくことがある。
そして今、彼女の家を見つめながら、その記憶が心を締めつけた。
海翔の手が、ぎゅっと拳を握った。
何かがおかしい。
証拠も理由もない。
でも――**直感が叫んでいた。彼女は…無事じゃない**。
そして、やがて彼は知ることになる。
すべてが変わるきっかけを――。
永遠に、戻れない現実を――。