蜘蛛の我からみたら主は相思相愛だと思うのだが如何だろう?
吾輩は蜘蛛である。
名前はまだない。
…いや、あるにはあるのだが実に不名誉な名なのだ。
ふと視線を感じて仰ぎ見る。
「おはよースパイダー。今日も朝からよく動くね。」
足元近くに偶々居合わせた我を見つけると、この部屋の主がへらりとその名で呼んだ。
なんということだ、今日も今日とて吾輩を横文字なるもので呼ぶとは。
不名誉極まりない!と地団駄を踏もうとするが、いかんせん我の節足ではモキャモキャと交互に前足を動かすのみである。
一般的に人間は家の中に昆虫がいることを嫌うものだが、吾輩は蜘蛛である、益虫なのである。主はそれを知ってか知らずか我のことを追い出そうとはせず、そのまま共に住むことに抵抗がない。故に我にとっては非常にありがたい存在なのである。雨風を凌ぐ駄賃として我も積極的に家の中に入ってこようとする魑魅魍魎どもを駆逐しているので、我と主は言わば協力関係にあると勝手に思っている。テレビ的に言うなら『うぃん-うぃん』ではなかろうか。
吾輩の胸の内など素知らぬ顔で今日も吾輩をスパイダーと呼ぶこの家の主は腹をポリポリと掻きながら水場へ向かった。
「うーん、今日は曇りかぁ。洗濯物くらいは乾くかな。」
着ていた服を洗濯機なるものに放り込みながら主が独言る。
うむ、良い心がけぞ、我は綺麗好きなのだ。
良い匂いがするものは我も好きなので前足を組みながら大きく頷いてみせる。
当然ながら主の反応はない。
ゆっくりしている主を見る限り、今日は家にいるようだ。
ほとんど毎日のようにビシッとした服を着てどこかへ出かける主。
キメた服に似つかわしくない朝食のパンくずを毎回指摘しようにも、遅刻するー!と慌てている主の視界に我は入らぬ故伝えられた試しはない。
出来ないことに執着しないことも蜘蛛人生において大切なのである。
摩りガラスの向こう側で湯を浴びた主が、鼻歌を歌いながら上機嫌で身体を拭いている。
うむ、今日も実に平和である。
突然、我の嫌いな電子音が鳴った。
慌てた様子で主が小さな機械を耳に当てる。
「洋平おはよ、どうした?うん、今日暇だけど。あぁ…うん、それなら家来る?」
しばらく機械を耳に当てながら話したあと、じゃ、後でなーと機械をプツッと切った主は、何故か周囲の空気をお花畑にして一層大きな鼻歌を歌いながらスキップでもしそうな勢いで髪に温風を当てに行った。
主よ、パンツ履け。先にぶらぶらしているモノをしまえ。
「よぉ、久しぶり。酒買ってきた。」
ルンルンしながら洋平なる者を迎える準備をする主の行動は、実に見事な早業であった。
隅々まで掃除をし、水回りに至るまでピカピカにする。
外出をしたかと思えば、しばらくすると袋いっぱいに菓子や良い匂いのする惣菜を提げて帰ってきた。
「うーん、何もないとは分かってるけど期待しちゃうよなー。」
何故かもう一度湯を浴びにいくかでウンウン考え込む主へ言いたい、あまり湯を浴びるのは脂分を取ってしまう故あまり勧められぬぞ。
吾輩の意見が通った試しはないか一応心の中で忠告しておく。
それよりも!我は主の食べるものは食べられぬが良い匂いは好きなのだ。
調理場へよじよじ登ると深呼吸して肺いっぱいに思い切り惣菜の匂いを充満させる。
うむ、幸せよの。
主も考え込むなどやめてこの匂いを堪能すれば良いものを。
主が悩んでいる間に玄関から人の気配がすると同時にピンポーンと間抜けな電子音が鳴った。
「お前が好きなのは分かるけどさ、ホラーはないだろ。アベンジャーズシリーズとか好きじゃん?それにしようぜ。」
「やだね、俺は今これを観たい気分。」
「えーここ俺ん家なんですけどー、ホラー観ると夜眠れなくなるんですけどー、寝れなかったらどうしてくれるんだよー。」
若干泣きそうな声で洋平に抗議する主の姿は情けないやら恥ずかしいやら。
どうやら主は怖いものが嫌いなようだ。一番怖いのは同族だろうというのが吾輩の見解なのだが、主にとっては目に見えないものに恐怖するようだ。そして洋平は若干それを面白がっている節がある。
吾輩がテレビなるモノで美醜を判別する限り、主はそれなりに整っていると思っている。
顔も小さく目鼻立ちも左右対象でしっかり陰影もついている。日差しが得意でないのかテレビに写っている女子らのように肌も白く肌のキメも細かい。以前、髭を生やしたいと呟いた主に「生えないものを生やそうと足掻くのは良くないぞ」とピシャリと宣った洋平に我は陰ながら賛辞を送ったことがあるが、体毛は少なくツルリとしているのは主にとって沽券に関わることなのだろう。背はもちろん我よりも俄然大きいが、よく家にやってくる洋平と比べると吾輩17匹分ほど、人間で言うところの拳一つ分くらいは小さい。まだ成長期だ!と本人は諦めてはおらぬが…まぁ希望を持つことは良いことよの。
怖いものを観ることに耐えられぬ主がプルプル震えながら洋平にしがみ付いて懇願している様は、見ていて情けなく感じると同時に大変庇護欲を擽られる姿なのである。
ホラーを観ると意気込んでいた洋平も、頬を紅潮させ瞳をうるわせながら上目遣いする顔にピキリと身体を硬直させて主を凝視している。若干目が血走っている気がするが、息災か?
「…夜眠れないなら泊まってやる。」
「え、いいの?!………泊まったら、えっとゴニョゴニョ…」
「で?ホラー観ていいか?」
「う、うん… ほんとに泊まってくれるか?布団ないから一緒に寝ることになるけど。」
「ははっ、お前の寝相が悪くなきゃ良いよ。」
「へへ、洋平がウチ泊まるの初めてだな、嬉しい」
「…っく!大丈夫か俺…夜まで持つか…?」
俯いて恥ずかしそうに顔を赤らめる主と胸を抑えて主を見ながらブツブツ何かと闘う洋平。
ふん、面白くない。
部屋の空気がどピンクではないか。
この場にいる吾輩の居た堪れなさよ!
曇りなのが丁度良いと軽快に窓からちょんと躍り出る。
部屋のお花畑から背を向けて、今日の獲物を狩るため気合いを入れ直す吾輩であった。
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