第12話 お人形のやりたいこと
「ごきげんよう、エリシェンさん。今日もよろしくお願いしますわ」
「……よう」
「ごきげんよう、レティシアさんにリュックくん」
講義室として充てられている、城の中庭に面した部屋に先に入っていたのはレティシアさんとリュックくんだった。ミスレア先生はまだ来ていないらしい。
講義室……こう書くと高校の教室とか、大きいところだと大学の講堂とかをイメージしそうだけど、ここは普通の石造りの部屋に、木製のテーブルとか椅子をいくつか置いているだけだ。一斉教授のシステムは前世では産業革命後の近代学校で採用されたものなので、確立した教育カリキュラムもない、大人数に教える必要がないこの世界では、前世の大学の研究室や寺子屋のような個別指導スタイルで十分なんだろう。
俺は特にやることがないので足をプラプラと……したらあとでアリシェさんに小言を言われるのでおとなしく両膝を突き合わせて待っている。
レティシアさんはこの間出された課題レポートと思しき、数枚の少し黄色っぽい紙を見直している。漂白された木材パルプ紙の登場はまだだろうから、きっと亜麻の屑とかが原料の紙じゃないかな。
「おい」
「えっ、何? いえ、何でしょうか?」
紙の原料について考えていたところ、気づけばリュックくんが隣に立っていた。アリシェさんの目つきが鋭くなる前にお嬢様らしい言葉に直さないと。
「あの、『モノが燃えるのを助ける空気元素』だ。どうすれば作れるか考えたことあるか?」
口調は相変わらずぶっきらぼうだったけど、先週のような威圧するような雰囲気は感じられなかった。
それにしても、これは酸素をどう作ればよいかってことかな。おそらく、ミスレア先生の宿題か何かだろうか。
「先生は緑魔法だって言ってたんだが、再現ができなくてな」
「魔法のことは、私はまだ……」
「いいんだよ、結局は仕組みを理解しなけりゃ使えないんだから。魔法ってそういうもんだろ」
いやそんなこと言われましても。俺が困っていると、溜息をついたレティシアさんが顔を上げてこちらに声をかけてくる。
「エリシェンさん。おそらく今日、ミスレア先生からお聞きになると思いますが、魔法というのは、イメージが大事なのですわ」
「イメージ?」
「そうですわ。起こしたい現象をイメージして、それを魔法神へ祈るのです。そのイメージが具体的であるほど、詳細であるほど、魔法の威力が増したり高度なことができるようになるのです」
「だから、仕組みがわかる必要があるんだ。モノを燃やすのを助ける空気よ出ろなんて祈っても、何も出てこなかったわけだ」
どうも、この世界の魔法というのは、俺のイメージするような――それこそ杖を構えて呪文を唱えるとか、怪しげな水薬を調合するようなものではないらしい。具体的に物理現象を理解する必要がある……と。
「緑魔法……植物……光合成?」
「何かわかるのか?」
リュックくんが俺の呟きに、食い気味に聞いてくる。えっと……確か生物の時に習ったっけ。水と二酸化炭素から酸素と水とグルコースが得られる反応と言えばいいのか。いや、もっとちゃんと、光が葉緑体のチラコイドの色素に当たって光化学反応で活性化クロロフィルができて……酸素ができるところだから、光化学系Ⅱか。あれだと、活性化クロロフィルに蓄えられたエネルギーで水から酸素と水素イオンができるんだったような――いや待て、まだ酸素もろくに発見されてない段階の理解でもなんとかなってるってことはそういうことじゃない?
仕方ない。ちょっと足りない説明になるけど、こうすれば伝わるかな。
「植物の呼吸のようなものの仕組みです。植物は葉などで日光を浴びることで、そのエネルギー……光の力を吸収して、水と……燃えない空気から、栄養と燃えるのを助ける空気を作り出しているのです」
「水と燃えない空気から栄養を作っている……ですか。なるほど、それでしたら植物がどこから実をつける力を得ているのか説明がつきますわね」
レティシアさんが顎に手を当てて考え込んでいる。
「その、材料となる燃えない空気ってのは、真なる空気元素とは違うのか?」
生成物の方に興味を持ったレティシアさんに対して、リュックくんは元となる物質に興味を持ったようだった。ミスレア先生の魔法の再現について聞きに来たんだから、入力の方を考えたいんだろう。それにしても――
「真なる空気元素?」
「ああ。四大元素のひとつと考えられていた空気元素はひとつじゃないという説だ。炭鉱でロウソクの火がつかなくなって、中にいた人間がいくら空気を吸っても息ができない空気があるという報告がある。普通の空気は火もつくし息もできるから、空気元素には複数種類があるという考えだ」
二酸化炭素か一酸化炭素かな。
「空気元素には、火がつき息ができる真なる空気元素と、火がつかない汚れた空気元素があるという説ですわね。空気元素に対する不純物で説明する説もありますわ」
「あとは、疲労空気だな。革鞣し水に息を吹き込んだときだけ白く濁るだろ。真なる空気元素では混ぜても濁らないから、呼吸することで真なる空気元素を取り入れて疲労空気を出していると説明されるな」
……用語が前世と違いすぎて混乱してきた。えっと、疲労空気も二酸化炭素だろう。革鞣し水はそれで白く濁るってことだから石灰水か。実験器具や実験法が未発達だけど、未発達なりにちゃんとした検証はできているんだ。
その後、緑礬油と金属で発生したという”燃素”に関する話――それ自体が燃える気体についてだったのでおそらく水素。緑礬油は何かの強酸だと思う――に移ったので、これが燃えると水になることを話す。
「確かに説明はつくか……」
俺の話を聞きながら、リュックくんは少し考え込んでいる。レティシアさんはレポートを書き終えたのか、それとももともと書いていてチェックだけだったのか、俺とリュックくんの様子を微笑ましそうに眺めていた。
「どうやって、それを思いついた?」
レティシアさんの方を見ていた俺に、リュックくんが尋ねてくる。えっと、この手の質問だとアリシェさんと相談してた答えを言えばいいから――
「『お父様』に訊きました」
「あー、でも、それだけはっきりわかってるってことは、どうやって確かめ――」
「いえ、『お父様』にお聞きしたので」
「……もういい」
さっきまで結構ぐいぐいきていたリュックくんが、急に俺から離れて机に向かっていった。
「へ?」
「お人形には興味がない」
え、何があったんだ? 急に会話が途切れたところでミスレア先生がやってきたので、俺は頭に疑問符を浮かべたまま、先生に遅いと詰め寄るアリシェさんを眺めるしかなかった。
緑礬油とは硫酸のこと。ここでは濃度の低い希硫酸であり、鉄などの金属と反応して水素が発生します(濃硫酸は不動態を作り反応しないことがあるので、この場合は希硫酸であることがわかる)。