始まらない初夜の話
連載の息抜きに書きました。
溺愛に気付かない無表情令嬢と、初恋を実らせた?その年下夫の話です。
よろしくお願いします。
リーン、ゴーン、リーン、ゴーン…………
繰り返される鐘の音は、おめでとう!という祝福というよりも、ご愁傷様!という弔辞のように聞こえてならない。本日の主役である花嫁、エミリエンヌは花嫁らしからぬ無の表情を極めていた。
にこやかに微笑む夫になった者に対して、頬を赤らめるでもなく、青褪めるでもない。
(どうしてわたし、この人の隣に立ってるのかしら。)
おめでたい結婚式だというのに、エミリエンヌは全く嬉しくない。まあ、元より表情の変わらぬ性分であるため、誰が見ても通常運転であると思われていることだろう。
フラワーシャワーの小花が頭に乗ろうと鼻頭に乗ろうと動じない様はまるで彫像が歩いているようにも見える。なるほど、石像処女の異名を持つだけあると参列者は一様に感じていることだろう。
「おめでとう、エミリ!もうウチの姓を名乗んなよ!」
最低最悪の弟が花を撒きながら満面の笑みを浮かべている。姉を姉とも思わない、傍若無人な跡取りドラ息子が実家を継ぐのかと思うとエミリエンヌは頭が痛くなる。
「安心して、クロード。エミリには金輪際、僕の姓以外は名乗らせないから。」
「ジャン!そこんとこよろしく頼むよ!絶対だぞ!いやぁ〜、今日はいい日だなぁ!」
エミリエンヌは侯爵家の娘だ。それが、随分と格下の男爵家へと嫁ぐことになった。しかも、年の少し離れた弟の友人の元へ。
エミリエンヌをエスコートする花婿、ジャン=ジャックは商家の息子。有り余る富を有するバロー商会は国難、大規模な食糧難であった、に寄与したことで叙爵したばかりの成金貴族だった。
その割にはジャン=ジャックの振る舞いは立派な貴族令息だ。高位貴族にも劣らぬ礼儀作法と、見目の麗しさで、下位貴族のみならず高位貴族の令嬢までもを虜にしていた。
エミリエンヌ自身は、己のことをしがない侯爵令嬢だと思っている。いや、侯爵家の娘として、装いなどが余りにも地味過ぎるきらいがあるが、容姿はそこそこ、成績良好、マナーも幼い頃から叩き込まれて悪くない。他家の高位貴族に嫁いでも何らおかしくはない。実際に、そういった婚約相手がいた時期もある。残念ながら破談になってしまっただけだ。瑕疵令嬢と冷やかされることもあるが、国の要職に就く父親のお陰で、陰で言われているだけなので本人は全く気にしていない。そもそも耳にも入っていない。
エミリエンヌには、ただ表情筋が仕事をしないという欠点があるのみだ。それは本人も自覚するところであった。
「エミリエンヌ、いや、エミリ。僕の女神。貴女の夫になれた僕は世界で一番の果報者だ。」
そんなエミリエンヌに事あるごとに甘い台詞を吐く夫は頭がおかしいんじゃないかと思っている。殿方というものは、小動物のように愛くるしく、表情が豊かで、華やかな女性を好むもの。元婚約者もそういう少女に入れ込んで、婚約破棄となった。エミリエンヌは元婚約者に対して別段思い入れもなかったので、婚約破棄の運びとなっても相貌を崩すことはなかった。それもまた、元婚約者が苛立つ原因だった。社交界でエミリエンヌについてあることないこと吹聴しているのは元婚約者とその恋人だ。
彼らの言葉を鵜呑みにする者はいなかったが、ゴシップに飢えている貴族たちの格好のネタにされていた。しかし、常に新しい噂のタネを探している飽きっぽい貴族たちのゴシップの消費期限は短い。注目が既に別の話題に移っているのに、未だエミリエンヌのことばかり話す元婚約者とその恋人は、最近では社交界で空気の読めない者たちとして爪弾きにされている。
社交が苦手、というより、ほとんど社交らしい社交の経験がないエミリエンヌはそんな話も知らずにいる。
そういうわけで、親族や派閥など家のつながり以外の招待客がいないエミリエンヌとジャン=ジャックの結婚式は、貴族の結婚式としてはこじんまりとしているものだった。下位貴族同士の結婚式でももう少し賑わっている。
美貌の夫に蕩けるような視線で見つめられても、相変わらずの無表情を貫くエミリエンヌは、この瞬間においても何故自分が花嫁衣装を着て、ジャン=ジャックに導かれているのか分からない。
「必ず、幸せにすると誓うよ。愛している、エミリ。早く夜になればいいのに。二人きりになりたいよ。」
ふと視線を落とせば、足元が見えないほど盛り上がった胸部が視界に入る。殿方というものは、女性の胸部や臀部を愛でるものと聞いた。特により大きいものが好まれるのだという。どんな体型でも人の身体であることに変わりはないのにとエミリエンヌは思うのだが、殿方のそれぞれの琴線に触れる身体的特徴というものがあって、それは千差万別ではあるが、胸部派が多数だということだった。
人によってはカモシカのように細い脚を好んだり、反対に枕のように柔らかな腹を好む者もいるそうだが、大多数の殿方は細い腰にたわわな胸部を好むもの、と友人の夫が言っていた。
(彼はわたしのカラダ目当てなのね。)
エミリエンヌはなるほど合点がいったとばかりに頷いた。きっとジャン=ジャックは多数派なのだろう。エミリエンヌの体型は多数派がいかにも好みそうな体型をしている。そういうことなら話は早い。気にはしていないが経歴に傷のある令嬢としてまともな結婚はないだろうと考えていたので、むしろこの結婚は有難いものであった。それと同時に、そんな傷物を掴まされたジャン=ジャックに申し訳なさが募る。
(少しでも前向きな方がいいものね。ジャンの言葉を疑っていたけれど、彼は嘘偽りなくわたしを愛しているんだわ。わたしのやたら発育の良い胸を。)
ジャン=ジャックは爵位や地位、名誉、それに付随するものが目当てで、エミリエンヌそのものには本当は関心がないと考えていたので、僅かな事でも夫に自分自身が好かれていると思えば自信も出てくるというもの。
(今宵は頑張りましょう。閨教育では、夫に従い、身を任せ、慣れたら望みに応えて差し上げなさいと教わったわ。わたしの胸を愛しているジャンがどのような望みを持っているかは分からないけれど、一日でも早く応えられるようにならなければ。)
エミリエンヌ自身はジャン=ジャックを愛しているわけではないが、貴族の結婚などそんなものだ。少なくとも、元婚約者と違って、ジャン=ジャックはエミリエンヌ(の胸)のことを愛しているのだから、酷い扱いはされないはずだ。そのことに安堵して、侍女にされるがまま、初夜の身支度を済ませた。
扇情的な夜着を身に纏うわけでもなく、至って普通の夜着を着てベッドに腰掛け、これから人生を共にする夫、ジャン=ジャックを待つ。
社交以外の大概のことはうまくやってきた。閨については詳しくないので女性に教えられる基本的な事しか教師から教わってないが、ジャン=ジャックの愛する胸部があれば不興を買うことはない。子もそのうち授かるだろう。理想は男児二人に女児一人の三人だが、せめて跡取りとなる男児を産めれば、貴族の妻としての義務も果たせる。
エミリエンヌは子どもが好きなので、孤児院へ慰問に訪れたりもしていたが、泣かれたり逃げられたり時には怯えて粗相をする子もいるので、今では寄附を行うに留めていた。どうやらエミリエンヌは子どもに好かれる質ではないらしい。その事に寂しさを覚えたが、我が子ならばきっとエミリエンヌを受け入れてくれるだろう。そんな期待もあった。
「お待たせ。」
ジャン=ジャックもシンプルな夜着を身につけている。美しい者は何を着ていても美しいらしい。光源を落とした部屋で浮かび上がる彼の姿は、人の美醜でなかなか心を動かされないエミリエンヌから見ても美しい。
「それほど待ってはいないわ。」
今日から夫になったジャン=ジャックだが、エミリエンヌとしては弟の友人という側面が強い。膝に置いている手にそっと手を重ねられて、優しく、だが意味ありげにスリスリと撫でられるものの、これから彼と男女の営みを行うというのに現実感がなかった。
「でも、手が冷えてる。ごめんね。寒くない?」
春も終わりの夜である。寒さはない。エミリエンヌは運動しないので元々体温が低い。それに加えて末端冷え性である。手が冷たいのはいつものことだ。
「大丈夫よ。いつもこんなものだもの。」
「そう?なら、これからは僕が毎日君を温めてあげるよ。」
眠る時には湯たんぽが欠かせないエミリエンヌなので有難い申し出だった。手の甲を撫でるジャン=ジャックの掌はとても熱い。これは期待出来るなとエミリエンヌは思った。
「ねえ、旦那様。」
「何?エミリ。あ、旦那様じゃなくて今まで通りにジャンと呼んで。エミリに名前を呼ばれなくなるのは悲しいよ。」
「分かったわ。あのね、ジャンの望みを教えて欲しいの。」
「望み?」
「そう。閨で、わたしにどんなことをして欲しい?」
「えっ!?」
ジャン=ジャックはエミリエンヌの質問に驚き、目をこれでもかというくらい見開いて、慄くように少し上体を仰け反らせた。
「な、なぜそんなことを聞くの?」
「夜に夫の望みを叶えると夫婦関係が上手く行くと聞いたから。」
「ああ、そういうこと。うーん、そうだな。毎日一緒に同じベッドで寝たい、かな。」
「それだけ?」
「え、いや、うん、まあ、他にも色々とあるけれど、まずは今夜が上手くいってからでないと。」
「今日、直ぐには無理なのかしら。」
「余りエミリに負担をかけたくないんだ。どうしたって痛いだろうし。」
「そうよね。破瓜の痛みは覚悟するようにと言われたわ。」
「そうだろう?だから、無理しないでいいんだよ。」
「でも、胸ならば痛くはならないでしょう?」
「胸?」
ジャン=ジャックはエミリエンヌの発言の意図が分からぬようで首を傾げている。彼の手はいつの間にかエミリエンヌの肩に移動していて抱き寄せられていた。反対の手で頬を撫でられるのが気持ちいい。しかし、思っていたのと違う反応だったので、エミリエンヌは少し不安になった。エミリエンヌの胸部を愛するジャン=ジャックなのでもっと食いついてくると思っていたがそうでもなく、エミリエンヌは一気に落胆した。
「だって、ジャンはわたしの胸を愛しているから結婚したのでしょう?なら、この胸でジャンを幸せに出来ないかと思ったのよ。」
「は!?え!?何!?胸!?僕が、エミリの胸を愛しているから結婚した!?違うよ!飛んだ思い違いだ!!」
「そうなの?大半の殿方は女性の大きな胸を好むと聞いたから、てっきりそうなのかと思って。わたしの胸は平均よりかなり大きいでしょう?殿方にとっては好ましいものだと思うの。」
ジャン=ジャックは、はぁー、と大きなため息をついて、頭をガシガシと掻いた。熱い掌が頬から離れて、身体が一気に冷えていくように感じた。
「何がどうしてそういう考えになったのかは分からないけど、僕はエミリの胸を愛してるんじゃなくて、エミリ自身を愛してるんだよ。」
「胸だって立派なわたし自身だわ。」
「そうなんだけど、そうじゃなくて……人柄とか、そういうことを言ってるんだ。」
「カラダ目当てではないの?」
「違うよ!」
「ならば、爵位?わたしは女だから侯爵家の継承権はないけど、娘婿としてお父様の人脈を使えるわよね。」
「確かに使うつもりではあるけどね、僕がエミリに求婚したのはそんな理由じゃないよ。」
ならば何故?エミリエンヌは小さな顎に手を当てて考え込み始めた。
弟の友人として実家に出入りしていたジャン=ジャックはエミリエンヌの容姿が十人並みなのを知っている。肌が弱いのと、皮膚感覚が過敏なのであれこれ塗りたくると違和感しかなく、すぐに荒れるので、エミリエンヌは化粧を好まない。
お洒落は嫌いではないが、夜会のゴテゴテとした動きづらいドレスを着るよりは、ちょっといい普段着の方が好きだ。ドレスを着ると、貴族の婦女子にありがちな厚化粧は避けられない。それも華美な装飾を好まない理由のひとつだった。
高位貴族の令嬢なのに社交も上手くこなせない。令嬢や貴婦人の好む話題に興味が湧かないから、何を話せばいいのか分からず、場をしらけさせてしまうか、いないものとして扱われる。空気を読むより空気になる方が得意だ。
そんな貴族の令嬢として欠陥だらけのエミリエンヌが人柄を好ましいと思われるなんて予想外だ。実家に遊びに来るたびに話しかけられて一人で過ごすエミリエンヌに構いたがると思っていたが、過去の会話を反芻してみても、大した返答をしていない。
「エミリが僕のことを男として見てないのは知ってるよ。でも、いくらなんでもあんまりだ。僕の気持ちは理解してくれていると思っていたのに。」
「ごめんなさい。」
頭を抱えて俯き、すっかり萎れてしまったジャン=ジャックのつむじ辺りを撫でると、身体がビクリと揺れた。頭を撫でられるのが嫌なのかと思って、次に背をさすると、ジャン=ジャックの身体はすっかり硬直してしまった。
「初夜、やめよう。」
「え?」
思いがけぬ発言に、エミリエンヌは困惑した。初夜を熟すのは貴族の義務だ。早急に子作りを始めたい。出来れば来年の今頃にはこの腕に我が子を抱いていたい。ジャン=ジャックに(胸部が)愛されている、初夜は必ず遂行されると思っていたので、エミリエンヌは少なからずショックを受けていた。
「そんな誤解をされたまま、エミリを抱きたくない。僕は愛されなくても、せめて僕に愛されている自覚を持って欲しい。それが我儘で自己満足なのは分かってるけど、叶わないと思っていた恋が成就して、折角夫婦になれたんだ。離婚は有り得ないから、時間はたっぷりある。貴族の義務は分かってるけど、君とこれからゆっくりと関係を深めていきたい。だから、今日は何もしない。」
下から上目遣いでそう真っ直ぐに見つめられると、何だか勘違いしていた自分が恥ずかしくなるし、同時に申し訳ないとも思う。
「ごめんなさい。わたしが思い違いをしていたものだから、貴方を嫌な気持ちにさせたわね。」
伏目がちに零すエミリエンヌに、ジャン=ジャックは慌てて訂正をした。
「そんなことないよ!僕の見込みが甘かったんだ。」
「けれど、……わたしは貴族の女として不足しているところが多いわ。しかも、瑕疵がある。そんなわたしを貰ってくれたのに、何だか申し訳なくて。」
「何を言ってるの?君には瑕疵なんかない!あれは相手が愚かだっただけだ!むしろ彼には感謝してるよ!だって、絶対に手に入れられないと思っていた君を妻にすることが出来たんだから!」
どこまでも自己評価の低いエミリエンヌに、ジャン=ジャックは心配になった。心から愛していると伝えても、エミリエンヌは全く信用する気配がない。エミリエンヌに愛されるための作戦は立ててきた。長期戦は元より覚悟の上だったが、己の発言とはいえ初夜まで遠のいたのはジャン=ジャックも残念だった。
けれど、愛の通わぬ交わりをするつもりはない。素晴らしい初夜のための下準備だと考えれば、なんてことはなかった。
ところで、エミリエンヌは産みの母の顔を知らない。第一子であるエミリエンヌが女児だったことで姑からネチネチと嫌味を言われ体調を崩し、父親は仕方なくエミリエンヌの母と離縁することにした。見事な政略結婚だったので、何の思い入れもなかったのだろう。契約を解除する。それくらいの考えでしかなかった。それ以降、産みの母はエミリエンヌの実家とは没交渉だ。未だ健在の姑が、エミリエンヌにとっては祖母だが、そんな人がいるのだ。祖母はエミリエンヌを厳しく躾け、役立たずだと罵った。せめて家の利になる然るべきところに嫁げと嫁入り先を探して来たのは祖母だった。僅か二歳にして、婚約者が決まった。
実家の中でエミリエンヌを守ってくれたのは義母だった。エミリエンヌが三歳になったばかりの頃に父親が連れて来た女性だ。子爵家の未亡人だったが、産んだ子が全て男児である経歴を祖母に買われて、子が成人するまで侯爵家が後見になり、高位貴族と同等の教育を施すことを条件に人身売買のように後妻に収まった。義母は当時、二十六歳。既に三人の子がいた。
義母は子を残して侯爵家に嫁ぐことを躊躇ったので、子連れで嫁いで来ることを許可され、子爵家を継ぐ長男以外は跡継ぎであるエミリエンヌの弟の補佐として仕込みをするのに雇われたようなものだった。エミリエンヌの実家はとても歪な家族だった。
義理の兄弟は兄弟とは呼べず従者のような者であったし、本来なら有り得ない無理難題を強いた侯爵家、特に祖母に対して恨みがあった。エミリエンヌを不憫に思いつつも、祖母の怒りが自分たちへ向くのが怖くて手を差し伸べることもなかった。義父である侯爵は理性的な人物だが愛情がなく、子どもたちから見ても誰も幸せにしない結婚のように見えていた。
それを変えてくれたのは他ならぬ義母だった。エミリエンヌに辛く当たる祖母に、それは児童虐待ですよお義母さま!犯罪にあたりますよお義母さま!然るべきところに報告しますよお義母さま!と笑顔で詰め寄る強心臓の持ち主。既に心を閉ざして笑えなくなっていたエミリエンヌだが、無理に笑顔を作らなくていいと言い、その代わりに自分が貴女のためにいっぱい笑ってあげる!と貴族の夫人とは思えない大笑いでエミリエンヌをたくさん抱き締めてくれた。
そんな義母が産んだ四つ下の跡継ぎの弟は、何故か祖母の影響を受けて、エミリエンヌのことを不良債権だと考えていた。そのような発言をするたびに義母は烈火の如く怒り狂い、最終的には夫である侯爵に直談判して、祖母を領地へ幽閉のような形で送り出すこととなった。エミリエンヌが十歳の頃の話だ。
弟は相変わらずの態度であったが、子爵家の方の兄たちとは上手くやっていた。半分だが血のつながった末の弟を兄たちは可愛がった。エミリエンヌは家庭での異物だったが、義母はエミリエンヌに寄り添ってくれた。
よく笑い、よく怒り、よく泣く義母のことを貴族らしくはないがエミリエンヌは尊敬しているし、愛していた。自分の代わりに感情を出してくれているのだと思い至って、そこからは表情筋を鍛えることを完全に放棄した。
ジャン=ジャックの実家はある年、エミリエンヌの実家の隣の領地を拝領した。不毛な土地ではあったが、鉱山を発見し、元々国一番の商会であったのに、瞬く間に更なる富を築き上げた。そんな男爵家との交流は利があると考えた侯爵は、度々ジャン=ジャック親子を領地へも王都の屋敷にも招き、折に触れ交流を図っていた。
弟のクロードとジャン=ジャックは同年なので、すぐに仲良くなった。無邪気なクロードと大人びたジャン=ジャック。水と油のように見えるが、何故か馬が合う。それが偏にジャン=ジャックの努力と気遣いによるものだと、クロード以外の誰もが気付いていた。
エミリエンヌは年下ながらもそのように振る舞えるジャン=ジャックを尊敬していた。一番目に尊敬しているのは義母だが、二番目に尊敬しているのはジャン=ジャックだ。だからこそそんなジャン=ジャックに、自分のような瑕疵物件を押し付けるのは申し訳ないと考えていた。ジャン=ジャックがくれる甘い言葉や高価な贈り物は、全て彼の気遣いから出ているものだと思っていた。
もしそれが間違いだとしたら?今までの言葉や行い全てが、ジャン=ジャックの本当の愛情だとしたら?
エミリエンヌは改めて自分が情けなくなった。こんな人の情に薄い自分が享受していいものではないと思った。
「きっと直ぐに嫌気が差すわ。同じ愛情を返せるとは思えないもの。いつでも離婚に応じるからね。」
エミリエンヌの後ろ向きな言葉にジャン=ジャックは涙目になって、強い力で彼女の両肩を掴み、瞳を見据えた。
「離婚は絶対にしない。絶対にだ。」
「そう?殿方の離婚はそこまで問題視されないわよ。貴方ならお相手の候補もたくさんいるだろうし。」
はぁー、とまた大きく息を吐いて、ジャン=ジャックは項垂れてしまった。ジャン=ジャックが女性に人気があるのはエミリエンヌでも知っている。義務的に参加していた夜会では元婚約者に放ったらかしにされがちだったエミリエンヌをエスコートするのはいつだってジャン=ジャックだ。その度にうら若い御令嬢たちが突っかかって来れば察せざるを得ない。ジャン=ジャックの婚活の支障になっていることは分かっていたが、さすがに侯爵家の令嬢がひとりで夜会をうろつく訳にはいかないので、ジャン=ジャックの善意に甘えていたのだ。出会いの芽を潰して、挙句に妻の座に収まった自分はさぞかし御令嬢たちに恨まれていることだろうとエミリエンヌは思う。
そういった御令嬢をあしらえるようにならなければダメなのよ、と片手で数えて尚余った指の数の方が多いほどしかいない友人、公爵家の跡取り娘で隣国の王子を婿を取った友人が言えば、もう一人の友人は、この国の王太子妃となったのだが、エミリエンヌには難しいわよ、わたしたちで守ってあげなければと言う。公爵夫人がそれを過保護だと言い、夫もエミリエンヌのことを心配している、これは王太子の意向でもある、と言う。夫婦揃って過保護過ぎると公爵夫人が言えば、のっぴきならない事情があるので致し方ないのだと言う。
王太子妃の言うのっぴきならない事情はよく分からないが、守られてばかりのエミリエンヌは不甲斐なく、茶会をしても発言出来ずに縮こまるようになった。
元婚約者は平民上がりの庶子であった御令嬢に入れ込み、冤罪をでっち上げてエミリエンヌを断罪するつもりだった。それを回避して相手の有責の婚約破棄にしてくれたのは他ならない王太子と王太子妃だ。
王太子妃の祖母はジャン=ジャックの祖父の姉でもある。二人ははとこだった。王太子妃の祖母はアルマニャックの女傑と呼ばれ、戦争好きな先代の王のせいで火の車だった国庫を救った。未だその借金を国は返済し続けている。ある意味、国一番の大物だ。
先般の食糧難の折も、女傑の口添えでジャン=ジャックの実家、つまりエミリエンヌの婚家がコネクションを利用して穀物を世界中から集めて来た。もはやこの国の誰もアルマニャックの女傑に頭が上がらない。エミリエンヌの父親が瑕疵があっても侯爵家ならば普通なら断るような格下の男爵家との婚姻を進めたのは、そういった背景から王太子妃の生家との縁を深めたいという考えがあったからだ。
確かに婚約の申し出はジャン=ジャックの家から来たものだが、エミリエンヌはこれが紛うことなき政略と幾許かの同情心から成ったものだと思っていた。
「ひどいよ、エミリ。僕にはエミリしかいないのに。」
ジャン=ジャックはとうとう泣き出した。どうしたらいいのか分からなくなったエミリエンヌは、そっとジャン=ジャックを抱きしめた。義母にしてもらったように、優しく、その身体を包み込んだ。
ジャン=ジャックにとってエミリエンヌは初恋の憧れの人だ。今の今まで、エミリエンヌ以外の女性に心が揺れたことなど一度もない。そんな想い人、しかも自分の妻になったばかりの女性からいつでも離婚に応じるなどと言われたら、さすがの彼もショックを受けた。
「エミリ、優しくしないで。酷いことをしたくなる。」
「でも、泣いているわ。ごめんなさい。わたしが傷付けてしまったのね。」
「そうだよ。エミリが僕を傷付けたんだ。僕はエミリの言葉にしか傷付かない。」
「どうして?」
「どうしてって……。」
エミリエンヌは本当に分からなかった。ジャン=ジャックの顔を覗き込めば、その瞳に射抜かれ、ドキリとした。
「愛してるから。愛してるから、僕の心と身体はエミリにしか反応しない。だから、エミリ以外の人とは結婚しない。エミリと離婚もしない。」
幼い頃から知っていて、いつの間にか低くなったジャン=ジャックの声に、エミリエンヌは初めて心を揺さぶられた。
エミリエンヌは愛が分からない。特に男女の愛はさっぱりだ。けれど、自分の言葉に震え泣くジャン=ジャックの身体に回した腕は外せないし、瞳も逸らせないでいた。湧き出るこの気持ちが何なのか、エミリエンヌには見当もつかなかった。分かったことは、ジャン=ジャックのエミリエンヌを決して手放すことはないという決意だけだった。それが、エミリエンヌの感情を動かした。
「分かったわ。わたしはずっと貴方の妻でいる。初夜の義務を行えないのは残念だけど、貴方の望みが、わたしが貴方の気持ちを理解するということなら、ちゃんと努力する。だから、今夜はもう寝ましょう?」
「……そうだね。困らせてごめん。今日は自分の部屋で寝るよ。」
「え?どうして?」
「どうしてって……。」
「だって、貴方さっき、毎日一緒に同じベッドで寝たいと言ったじゃない。」
「そうだけど……。」
「夫の望みを叶えたいわ。同じベッドで寝ることなら今のわたしでも出来るもの。」
出来ることの少ないエミリエンヌは、出来ることに関しては全力で取り組みたかった。お願い、と可愛い妻に何度も懇願され、ジャン=ジャックはとうとう折れた。欲望に負けたとも言う。
二人でベッドの中に潜り込めば、エミリエンヌはジャン=ジャックに身体を寄せた。驚いたジャン=ジャックがガバリと勢いよく起き上がったので、エミリエンヌは寒くなってぶるりと震えた。
「何でくっつくの!?」
「夫婦は寄り添って寝るものではないの?」
「それ、閨教育で教わったの?」
「マドレーヌとアンリ殿下が教えて下さったの。」
あの夫婦は……とジャン=ジャックは頭を抱えた。はとこである王太子妃マドレーヌは少し変わっているし、その夫のアンリ殿下は更に輪をかけて変わっている。王族らしからぬ恋愛結婚は、当時の社交界のみならず世界中で世紀のロマンスと話題になったものだ。
「お二人は毎日同じベッドで抱き合って眠っているんだそうよ。アンリ殿下はマドレーヌの胸は最高の枕だと仰っていたわ。わたしもジャンにそうしてあげたいの。」
愛する女性に穢れなきまなこでそう言われて、抗える男などいない。苦行だ……と呟きながら、ジャン=ジャックはエミリエンヌの胸に顔を埋めた。
結婚したらこれまで以上にドロドロに甘やかして溺愛して、エミリエンヌをジャン=ジャックがいなければ生きていけないようにしたかったのに、これでは自分ばかりが翻弄されるだけなのではないだろうか。
無自覚なジャン=ジャックの女神は、彼の予想通り散々に彼を振り回し翻弄するのだが、それはまた別のお話。
彼らの初夜は、いつになるのだろうか。それは誰にも分からない。
以前に投稿した、『転生令嬢は井戸に向かって不満を叫ぶ』という短編の主人公の友人の話でした。あちらの話にはこちらの主人公は微塵も出て来ません。タグの乙女ゲームはあちらの設定です。のっぴきならない事情のことです。こちらの主人公たちはそんなことを微塵も知りません。
↓よろしければ、併せてお読みください。
『転生伯爵令嬢は井戸に向かって不満を叫ぶ 〜王子様はエロガッパ〜』
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