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一瞬、罠かと警戒したロジリアだったが、しかし、案内人はカナンの指示通り、きちんと客室まで通してから、一礼までして去って行った。
心底、拍子抜けである。
城砦の人間は、究極のお人好しなのか?
「太陽の匂いがする。ちゃんと掃除の行き届いた部屋だね」
ミッシェルが寝台の位置を手探りで確認して、上半身から飛び込んだ。
(寝台、壊れないわね……)
さすが王子様のいらっしゃる城だ。
安宿だったら、間違いなく壊れるし、良くても、みしっと変な音がする。
居室と寝室が続いていて、寝台は当然のように二つ用意されていた。
庶民の感覚だと、この広さは部屋というより、住まいそのものだった。
「今まで泊まったどの宿よりも、高そうだね。姉さん?」
しかし、ロジリアは、まだ全面的に信用できない。
机の引き出し、棚の中、露台、寝台の下までくまなく目を通した。
「姉さん。そこまで疑わなくても」
「おかしいわね。何もないわ」
こんな得体の知れない連中を、城の客室にまで案内するだろうか?
(聖女と名乗っても、信用なんてしていなかったくせに。……どうして?)
そこまでサフォリアは、暢気な国なのだろうか?
「ともかく、姉さんは長旅で疲れているんだ。少しの間でも休まなくちゃ……」
「だから、私は大丈夫だって」
「でも、声が少し掠れてる。熱が高い証拠だ。このままじゃ倒れるよ」
「大丈夫よ」
強く念押しながらも……。
(……そうかもしれない)
絶対倒れないという自信は、ロジリアにもなかった。
「僕たち、一応はサフォリアの国内にいるってことなんだよね?」
ミッシェルが壁を伝いながら、広い露台に出て行った。
「……まあ、そういうことになるわね」
ロジリアは、そんな弟の後ろ姿を、眩しく見守っていた。
ミッシェルの前に広がる青空は、同じ空のはずなのに、どうしてかミガリヤとサフォリアとでは色が違うような気がした。
ミガリヤの空は、もっと灰色のような気がした。
それは、ロジリアがミガリヤを思い浮かべた時、暗い過去ばかり思い出すせいかもしれない。
「神の国、サファリアって呼ばれているらしいよ。レムリヤ教が深く浸透しているサフォリアでは争ってはいけないっていう聖典の言葉通り、長いこと戦争が起きてないんだって」
「ああ。……だから、王子様も平和ボケしているんでしょうね」
「やっぱり、この国の何処かに『聖杯』なんてものがあるのかな?」
「ミッシェル……」
意外にも、ミッシェルは『聖杯』の存在を信じているようだった。
弟の無邪気さを、ロジリアは微笑ましく受け止めるしかない。
「……馬鹿ねえ。そんな得体の知れない物が本当に実在しているのなら、とっくの昔に世界平和を達成しているわよ。ミガリヤも安泰。私の病だって『聖杯』に治してもらえるわよ」
「そう……だよね。もしも、実在しているのなら、こんなことになってはないよね」
「そうよ」
無意識に口走っていた言葉だが、そのとおりだ。
そんな便利な代物があったのなら、少なくとも故郷のミガリヤは、もう少しマシになっているはずだ。
ミガリヤの王位継承を巡る争いは、ロジリアが生まれた頃から続いている。
元々は、サフォリアもミガリヤも同じ国だった。人種も公用語も一緒。
……それなのに、今はこんなにも、サフォリアとミガリヤは違う。
ミガリヤでは貧富の差が激しく、富める者は破滅を恐れるがために、更に金を貯める。
ロジリアとミッシェルの両親は、そういう人たちだった。
そして、ロジリアは難しい病気に罹ってしまった。
もっと早く治療を始めていれば、ここまで悪化はしなかったかもしれない……と医者に言われたことがあったが、それも今更な話である。
(後悔したところで、どうなるものでもないわ……)
ロジリアが自嘲していると、ミッシェルが尋ねてきた。
「それで、分かるの? 姉さん。……その」
「分かるわ」
ロジリアは、胸に手を当て、目を閉じた。
とくん、とくんと、脈打つ心音。
二つの心臓の音だ。
交わらない鼓動は、一方がロジリアのもとで、もう一方はアイツのものだ。
この鼓動が重なった時、ロジリアと敵の魔物は、対峙していることだろう。
アレと会うために、ロジリアは半年近く月日を費やしているのだ。
「絶対にサフォリアにいる。まさか、国を跨ぐことになるとは思わなかったけど」
「…………そうだね。姉さんと二人。ここまでくるのに色々あったね」
行き当たりばったりではあったが、二人でいる時間はかけがえのないものだった。
途中で、国王が用意した従者兼お目付け役を撒いてきた時は、痛快でさえあった。
「ねえ、ミッシェル。貴方、画材は持ってきたんでしょ?」
「一応……はね。でも……僕は」
どうせ、画材を持っていたところで、何一つ描けやしない。
ミッシェルは、暗い表情をしているが、だけど……。
「大丈夫よ」
ロジリアは明るい声音で、弟を慰めた。
「あと少しの辛抱だから。私が貴方の目を見えるようにしてあげるわよ。それで、貴方は私がいなくなったら、ミガリヤの王都から遠く離れた場所で生きていくのよ。何度も言っているけど、間違っても、ミガリヤの国王には見つからないようにね」
「だから、姉さん。僕は……」
「ミッシェル……。私、少しだけここで休むことに決めたわ」
「本当に?」
ミッシェが、ぱっと相好を崩した。
(可愛いな……)
この弟は、心底ロジリアを憂いているのだ。
「それで、ちょっと喉が渇いたから、外の人間に水をもらってくるわ。すぐに戻るから、ミッシェルは先に休んでなさい」
「水を?」
「水差しのは、ちょっと怖いじゃない? ちゃんと井戸の水で、毒がないものがいいから。汲んでいるとこれを確認するの」
「まあ、警戒する気持ちは分かるけどさ……。姉さん一人で?」
「なぜ? こんなことで、二人一緒に行く必要もないでしょう? 私だって、そのくらいの体力は残っているわ」
つっけんどんに言い返すと、ミッシェルがおもいっきり眉間に皺を寄せていた。
「まさか……姉さん、ここからは一人で行こうなんて、企んでないよね?」
「はっ? 馬鹿ね。何言っているのよ。正直、動くのもしんどいのに、そんな余裕ないわよ」
「それなら、いいけど。水を飲んだら、本当にしっかり休むんだよ。いいね?」
「しつこいわね。分かってるわよ」
不機嫌なふりをして、ロジリアは素早く部屋から出て行った。
扉の前には、一人だけ衛兵が立っていたが、手洗いに行くと告げると、すんなり道を譲ってくれた。
やっぱりこの国の人間は、人が好すぎるようだ。
(でも、あの変人城主が、すんなり入国の許可を出してくれるとも思えないのよね)
だったら、ここからロジリアが単独で抜け出す策を立てなければならない。
(とりあえず、サフォリアの市街地まで入ることが出来れば、どうにかなると思うんだけど)
時間がない。
聡いミッシェルのことだ。
すぐにロジリアを追いかけて来るはずだ。
もっとも、慣れない城内で、目が見えない不利な状況……。
(あの子が、私に追いつくことは出来ないだろうけど……)
ミッシェルの指摘通りだ。
ロジリアは、安全なサフォリアに入国したら、彼を置いて、一人で敵に挑むつもりでいた。
ミガリヤ国王から旅費として巻き上げたほとんどの金をミッシェルに託している。
(あの子は、大丈夫。近頃は目が見えなくても、色々と出来るようになったもの)
根はしっかりしていて、負けず嫌いな強い子だ。
ロジリアが目を治してあげることができたら、ミッシェルは無敵になる。
どこでだって、生きていくことが出来る。
だから、ここからは、ロジリア一人で挑まなければならない。
ミッシェルには、自分の分まで長生きしてほしいのだ。
「元気でね。ミッシェル」
ロジリアは息を大きく吸ってから、石造りの螺旋階段を一段ずつ降りて行った。