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◆◆◆
カナンは豪奢な棺の前で片足を折り、ロジリアに視線を向けた。
ここまで来いということらしい。
どちらにしても、ロジリアに引き返す選択肢はない。
「…………あの」
棺の前で、何と声をかければ良いのか分からなかった。
窓が締め切られているので、部屋の中は蒸し暑い。喉が渇いて、ロジリアの喉は、ひりひりした。
ミッシェルは、すでに外套を脱いで、黒のチュニック姿となっている。
「姉さん、それは?」
「知らないわよ。見た目、ちょっと派手な棺よね?」
小声で答える。
ミッシェルが恐々としながら、カナンに問いかけた。
「……カナンさん。こちらは死体……ですか?」
「………………それは」
押し黙ったカナンは、唇を噛みしめ、苦い表情をしていた。
(はじめて、人間らしさを見たわ)
死体という言い方に、カナンは気分を悪くしたのかもしれないが、それでも問わずにはいられなかった。
「つまり、城主様は、生きてらっしゃらないってことですか?」
「ちょっと、姉さん」
ミッシェルがカナンを気遣って、ロジリアの耳元で声を潜める。
「駄目だよ。そんな単刀直入に聞いちゃ。カナンさん、混乱しているんだよ。まだ城主さまの死を誰にも話してないんじゃないかな?」
「じゃあ、どうして私には話すのよ?」
思わず声を荒げてしまったロジリアは、はっとして己の口を覆った。
聖女にあるまじき、言葉遣いだ。
ミッシェルがロジリアをなだめるように、肩を軽く叩く。
「だからさ、もう自分でもどうしたら良いか分からないんだよ。姉さんは……ほら、一応聖女なんだし、せめて、祈りを捧げてあげても良いんじゃないかな?」
――と。
まるで、その言葉を待っていたかのように、聞き耳を立てていたらしいカナンが背筋を伸ばした。
「聖女さま。ぜひ、よろしくお願い致します」
「な……何?」
「ミガリヤは、サフォリア同様レムリヤ教に熱心な国だと聞いたことがあります。その国の聖女さまの聖句です。これを有難がらない人はいないでしょう」
「そんなことを、仰られ……ましても……ね?」
困ってしまった。
聖職者と聖女は、だいぶ違う。
聖女は祝福を与えることが出来るが、冠婚葬祭を取り仕切る権利は持っていないのだ。
一応、葬儀の聖句は知っているが、神父でもない、修道女でもない自分などが唱えて良いのか怪しいところだ。
けれど、棺を前にして知らん顔もできなかった。
「じゃあ、知っている一節だけ」
渋々、ロジリアは胸元の十字架の首飾りを握りしめた。
「汝は神の子。生の業を終え、今、神の御許に帰らん。肉体は塵になり 心は解放され」
――だが。
「…………おい」
「えっ?」
白い棺の中から、くぐもった声が聞こえた。
「死体が……喋った?」
ミッシェルがロジリアの背後に隠れた。
ロジリアは小首を傾げる。
「心は解放され」
「違う」
今度は、はっきり聞こえた。
だけど、何が違うのか、よく分からない。
しばらくの沈黙を経て、再びロジリアが聖句を唱えだす。
「心は解放され 汝は金の扉を開け放ち 聖ロメリオの御名において」
「だから! 心は解き放たれ 汝は黄金の扉を開け放たん……だ!」
棺の蓋が開き、その中に納まっていた男が血走った目で、ロジリアを睨んだ。
「ひっ!」
腰を抜かしそうになったロジリアの声を聞きつけて、ミッシェルが腰を支えた。
「姉さん、大丈夫?」
「…………大丈夫じゃない……ような」
一体、何が起こったのか?
まさか聖句を唱えただけで、死者を復活させてしまったのだろうか?
(私、そんな特殊能力、持ってないわよ)
実際、そんなはずがなかった。
「耳元でわさわさと、うるさいなー。私は、寝ていたんだぞ! カナン!」
怒鳴り声は、健康そのものだ。
……城主は、立派に生きていたのだ。
「申し訳ございません」
カナンが予想通りと言わんばかりに、そつなく頭を下げた。
「あまりにも、殿下が起きて下さらないので、少し刺激を与えてみようかと試みました」
「………………はっ?」
カナンが涼やかに、とんでもないことを口走る。
棺桶の中で、青年が大欠伸をしていた。
「あのなー、カナン。私とて、葬儀の聖句くらい聞いたことがあるし、暗記しているぞ!」
「聖女さま。貴方、葬儀の聖句を唱えたのですか? 私は一言も、死んだとは言っていなかったはずですが?」
「いや、でも……」
絶対に、わざとだ……。
カナンの取り澄ました表情が、逆にそれを示唆していた。
「最初に言ったはずですよ。この方は変なんです。私は途方に暮れていただけですって」
「貴方ね!」
「姉さん……」
苛立ちがロジリアの全身から、たちこめていたらしい。
ミッシェルが止めの態勢になっていた。
(いちいちそんなことを気にしていても、仕方ないって? ミッシェル?)
確かに、ここは大人の対応を貫く場面だ。
目の前にいるのは、きっとこの城砦の主で、サフォリアの王子だろう。
(そうね。悪ふざけなんかに、屈してなるものですか……)
ロジリアはひとまず大人になろうと、付け焼刃な笑顔を作って、その場に跪いた。
「えーっと、こちらは……貴国の……?」
「ああ。私はセツナ=アレリエル=ナクス……サフォリア国王の一子だが……?」
誰も頼んでもいないのに、王子自ら名乗ってくれた。
(この不遜な態度が、まさしく王族よね)
しかも、普通なら、直接口を利くのも難しい、とびきり偉い人だ。
そんな王族のお偉いさんが、どうして……。
「どうして? 棺に入るなんて、笑えない悪戯を、殿下はしたのですか?」
「姉さん……」
ミッシェルが青くなっている。
直情的に、尋ねてしまったのがいけなかったようだ。
セツナは不機嫌なまま、答えた。
「無礼な娘だな。棺は私の唯一無比の寝所なのだ」
「…………こんな狭いところで、酸欠にならないんですか?」
「大丈夫だ」
セツナは、しれっと答えた。
「この棺には無数の空気穴が開けてあってな。創意工夫が施された高性能の代物なのだ」
「棺桶に創意工夫って……」
頭痛を感じて、目線を下げると、棺の中から半身を起こしたセツナと目が合った。
眩いほどの金髪を緩く一つに結び、肌理の細かい白い肌に、中性的な整った顔立ち。年齢はカナンより上と思えたが、実際は分からなかった。
この世の者とは思えない、完璧な美貌を目の当たりにしている実感だけがあった。
(変人だけど、美人って……。一体、神様は何を考えてるのかしらね)
しかも、着衣は縦襟の礼装姿で、全身白である。袖口には銀色の刺繍が施されていて、きらきら光って目に痛い。
派手なのか、気障なのか分からない装いだったが、少なくとも寝間着には見えなかった。
ロジリアよりも、よほど聖女としての資質を持っている。
あくまで、黙っていればの話……だが。
「ああっ!」
――けれど、この青年は黙ってはいられないらしい。
空虚な広い空間に、甲高い叫声が轟いた。