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「ミッシェル!」
血相を変えて、駆け出したロジリアの袖を、カナンが掴んだ。
「だから、ロジリア嬢……。落ち着いて下さいと申し上げたはずです。この城の人間は、我々が選んだ優秀な人間ばかりです。とっくにエヴァン殿下の後は追っていますよ。報告を待ちましょう」
「待ってなんかいられ……」
「あ、お茶でもいかがです?」
暢気に、給仕に茶の手配を頼んでいるヨハンに、ロジリアの怒りは煮え滾っていた。
「あ、貴方ねえ!」
「お静かに……」
「はあ!?」
「この場で騒いで、疲労困憊の殿下を強制的に起こすのは、可哀相でしょう?」
「それは……」
ロジリアは、ちらりとセツナを視界の隅に入れた。
元々、白磁のような肌色をしていたが、今のセツナは透き通るように真っ白だ。
血の気がない。
これ以上、彼を振り回す訳にはいかない。
いつものロジリアであれば、カナンの手を振り払って走り出していただろうが、それが得策でないのは、明らかだった。
「一体、何なのよ……。どうして?」
「お嬢さん……。エヴァン殿下は、わざわざ、セツナ殿下が身動きできないことを見計らって、ここにやって来たのですよ。私は時間稼ぎに、客間で足止めをしていましたが、待ちきれなくなってしまったようです」
「いや、だから……どうして、貴方は愉しそうなんですか?」
「元々、私、こういう顔なんですよ」
嘘つけ……と、ロジリアはじと目で見遣るが、ヨハンからにっこりと見つめ返されてしまった。
やっぱり、生理的に無理だ。
「しかし、義父上。エヴァン殿下は、一体何をお考えなのか……?」
「カナン。もしかしたら、エヴァン殿下は直々に不届き者を処刑して下さるのかもしれないよ。手間が省けて良かったじゃないですか?」
「何てこと言うのよ!?」
「義父上……お戯れが過ぎますよ」
完全に面白がっているヨハンを、カナンが鋭い一言で制した。
彼は、いかにも厄介ごとを押し付けられたとばかりに、肩を落としながら、ロジリアと向かいあった。
「その点は、ご安心してください。ロジリア嬢」
「安心って……。エヴァン殿下の思惑なんて、みんな分からないじゃないですか?」
「いえ、あの御方の狙いは明らかかと」
「――えっ?」
――と言っているそばから、運ばれてきた白磁のポットとカップで、ヨハンは意気揚々と、花の香りがする橙色の茶を注ぎ始めていた。
手ずから渡されたカップを戸惑いながら、受け取ったカナンは、珍しく逡巡しながら口を開いた。
「ミガリヤ人の貴方にどこまで、話して良いのか分かりませんが、処刑はなさらないはずです。むしろ、ミッシェル君が一緒であれば、機転を利かせてその場で生き残る術を求めることも可能でしょう。エヴァン殿下の狙いは『聖杯』なのでしょうから」
「…………聖杯って、ミガリヤ国王と同じ」
「どういう意図で、ミガリヤ国王が聖杯を所望していのか、私にも分かりませんが、エヴァン殿下の方が深刻でしょう。セツナ殿下は、王位を継ぐつもりはないそうですが、それでも国王陛下直属の臣たちは、殿下にどうしても、次代の王を継いで欲しいと考えている者も多い。その者をエヴァン殿下が納得させるためには……」
「怪しい聖杯の一つも、重要だ……ということですねえ」
お茶を一気飲みしたヨハンが、満足げに頷いた。
「でも、そんなの……適当な杯を聖杯だって言い張れば済む話なんじゃ? こんな……回りくどい手を」
「ロジリア嬢。聖杯の詳細は、国王と、大教皇、そして次代の王しか知り得ないものだそうです。このままいけば放っておいてもセツナ殿下から王位は譲られるはずなのに、エヴァン殿下が焦っているのは、それをいまだに知らない自分が、本当の国王になれないかもしれないという焦りからでしょうね。……大体、何度刺客を放っても、セツナ殿下がご無事でいらっしゃっるので、もしかしたら、本当に奇跡の道具かもしれないと思い始めていらっしゃるのかもしれません」
「殿下が仰っていました。命を狙われるのは日常茶飯事だって、あれは、エヴァン殿下が?」
「うーん。エヴァン殿下だけなら、まだマシかしれませんがね。それこそ、四方八方からです。だから、この方は、そういう手合いには慣れているのです」
ここぞとばかりに、ヨハンが口を挟んでくる。
「まあ……エヴァン殿下は、聖杯の場所が知りたいだけで、殿下を殺すつもりはなかったのでしょうが、しかし、安易に王位を継げないよう、重傷くらいは負って欲しかったのかもしれません。私も、何度もエヴァン殿下を始末するよう、セツナ殿下には進言したんですけどね。殿下は首を縦に振ってくれなかった。……この度も、残念なことです」
「まるで、他人事ですよね」
緊張感の欠片なく、ぺらぺらと捲し立てるヨハンに、ロジリアは閉口した。穏やかに眠っているセツナを一瞥して、溜息が零れる。
「貴方が親だったら……。殿下が棺桶に逃げたくなる気持ちも分かるような気がしてきました」
「まあまあ、ロジリア嬢。得体の知れない義父上ですが、私はそれなりに、敬ってはいるのです」
「それなりってねえ」
「義父上、エヴァン殿下が、彼らを連れ去る理由が私には分かりません」
「カナン……。お前」
本当に分からないのかと、念を押した上で、ヨハンはこめかみを叩いて、薄らと目を細めた。
「お前も、まだまだですねえ。カナン。今回の件は、エヴァン殿下の単独犯だと思っているのですか?」
「………………あっ」
答えは、ロジリアもすぐに分かった。
「――ミガリヤ国王?」
「そう」
ヨハンは意味ありげに、にやりと笑った。
「エヴァン殿下とミガリヤ国王が繋がっていたとしたら? エヴァン殿下は再三、セツナ殿下を狙っていて、どんな手段を用いても、傷一つつけられないことを分かっている。そして、今回ミガリヤ国王を担ぎ出して、聖杯の在り処を探したものの、結局見つからなかった。そこで、今……セツナ殿下が、眠ったままであることを知ったのなら?」
「義父上、つまり、彼らは人質としてエヴァン殿下に連れ去られたと?」
「で、でも、みんなミガリヤ人ですよ。殿下をおびき寄せることの出来るくらい、殿下にとって大切な人じゃなきゃ意味がないのでは?」
――と、そこまで口を動かしていたら、二人の視線がロジリアに向かっていることに気が付いた。
「…………なるほど」
カナンは思案顔のまま、頷いた。
「この城の人間は、基本的に口は堅いはずですが、おめでたい話だと思って、どこかで騒いでしまったのでしょうね。エヴァン殿下は、それで動いた。殿下の弱点ともいえる、聖女は吊れなかったが、その弟と一味であれば、釣り餌くらいにはなるだろう……と」
うんうんと頷きながら、ヨハンがカナンの指摘を補完した。
「そうですね。だけど、エヴァン殿下は悪者になる気はない。陛下には言い逃れできるように、セツナ殿下が匿っていたミガリヤ人を、条約違反で国外退去させたとか、何とか言うはずです」
「つまり、それって?」
「私の憶測が間違っていなければ、ミッシェル君と刺客は、ミガリヤに強制送還されているでしょう。ロジリア嬢、貴方を……殿下をおびき寄せるために……」
「私を?」
「……ええ」
ヨハンは口元に嘲りを浮かべながら、力強く頷いた。
「殿下とて陛下の言いつけを無視して、我が国から勝手に出てしまったら、自己責任ということになりますからね」
「待ってください。私にもミッシェルにも、殿下を誘き寄せる力なんてありませんよ!」
「……ロジリア嬢」
しどろもどろになっているロジリアに向かって、カナンが究極に面倒臭そうに言った。
「セツナ殿下はこのような状態です。当分覚醒しないかもしれません。我が国の王は、ミガリヤに手出し無用の命令を出しています。セツナ殿下が目覚める前に、エヴァン殿下と事を構える訳にもいきません。つまり、我々は貴方とミッシェル君に、何もすることはできないのです」
「そんなこと、分かってます」
あっさり首肯したロジリアを、カナンが訝しげに見つめていた。ロジリアは不敵に微笑する。
「カナンさま。貴方には、それでも私が今すぐ行かなければ気が済まない性格だってことも、分かっているのでしょう?」
「自覚はあるわけですか?」
「分かっていますよ。ちゃんと」
だから、いつも冷静沈着のカナンが感情的になっているのだ。
カナンの手では、どうにもならないことが分かっているから。
ならば、ロジリアは皆に迷惑をかけないように動くだけだ。
コホンと、カナンは小さく咳払いした。
「さすがに、弟が連れ去られて大人しく待っていろ……とは言えませんよ。こちらの手落ちもありますしね。ただ殿下が貴方を行かせたと知ったら、何と仰ることか……」
「監禁されても何をされても、私はミッシェルを助けに行きますよ。殿下にお礼を言うまで、死ぬ気はありませんが」
「やはり、ここで大人しくしているつもりはないということですね」
念押しするカナンに「当たり前です」と決然と告げると、彼はがくりと首を垂れて、ヨハンは一層怪しい笑みを深く刻んだ。
「まあ、大丈夫ですよ。カナン。お嬢さんは悪運が強い。簡単には死にませんよ。使いすぎ要注意ですが、まだ金色の瞳の力は残っていますしね」
「……えっ? まだあの力は私に残っていたんですか?」
「幸か、不幸ですが」
「そう……ですか」
もはや、自分に特殊能力はないと思っていたロジリアにとっては、ヨハンの言葉は朗報だった。
(この魔物は腹立たしいけど、私、ツイてるわ)
相変わらず、上手く転がされている気がしないでもないが、まずはミッシェルだ。
セツナが目覚める前に、ミッシェルを取り返したい。
今ならまだ追いつくかもしれないのだ。
(そして、どんな形になっても必ず、ここに戻って来る)
「殿下……」
ロジリアはセツナに向かって深々と頭を下げた。
「必ず、殿下のもとに帰ってきて、頂いたご厚情の分、しっかりと努めますので、それまで待っていて下さい。絶対に、追ってこないで下さいよ」
「……追ってこないで下さいって……ね」
しかめっ面をしているカナンに、ロジリアはいつも以上の強情を炸裂させていた。
「だから、カナンさま……。もし、セツナ殿下が目覚めてしまったら、私を追って来ないよう、きつく監視して下さい。この能力があれば、私は負けませんから」
「……しかし」
「絶対ですよ」
きつく言い渡すと「一応、分かりました」とカナンは渋々頷いた。
そして、ヨハンの前に行って、耳打ちした。
「義父上……ここは一つ、宜しいのでは?」
「ああ、そうですね。構いませんよ。お前がそれを言うのなら」
「ありがとうございます」
ヨハンは無駄のない動きで、セツナの寝台の下から、彼が「母親の形見」だと言っていた木彫りの十字の飾りを取り出した。
「ロジリア嬢……。一応、これを持って行って下さい」
「…………えっ?」
「これでしたら、良いと思います。駆け引きの材料にもなるでしょう。エヴァン殿下やミガリヤ国王に聖杯と関係のある聖剣などと言って、渡して下さい。聖剣というのは嘘ではありませんが、どうせ、これだけでは何もできませんから」
「嘘を?」
「いいえ。嘘ではありません。本当ですけど、これだけでは何もできないのです。貴方も創国神話を読んだのならご存知のはずです。初代のサフォリア国王は、聖杯の中の聖水で清めた聖剣で、世界を救ったのです。だから、これ単体では何も出来ません」
「カナンさんはこれの使い方を、ご存知なのですか?」
「…………実は、私も知らないのですよ」
そう呟いて、カナンは横目でヨハンを睨んだ。
ヨハンは、何も答えない。
無言のまま、緩みきった相好で、いってらっしゃいと、ロジリアに手を振っていた。