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◆◆◆
――白い。
真っ白な世界だった。
(……ここって?)
ぼんやりと、手を伸ばしてみる。
…………届かない。
そうか……。
白は、天井の色だったらしい。
「天国にも天井があるのね……」
――どこも、痛くなかった。
一切の痛みもなければ、倦怠感もない。
頭はすっきりしていて、身体も自由に動きそうだ。
こんな日をロジリアが迎えたのは、実に何年ぶりのことだろうか……。
「私……死んだのよね」
だから、身が軽いのだろう。
(もう少し、言い残すことがあったかもしれないけど……)
気持ち良く、一気に起き上がる。
明るい日差しが窓の外から差し込んでいた。
天国には天井も、太陽もあるようだ。
……しかし。
天国にしては、やけに見覚えのある風景のような気もしないでもない。
「…………ん?」
いや、変だ。
ロジリアは、この部屋を知っている。
ここは、最上階のセツナの私室ではないか?
確か、部屋の真ん中に棺桶一つ置いてあって……。
「…………えっ?」
……と、そこでロジリアは目を瞠った。
自分が見ているものが、信じられない。
セツナの部屋には見慣れた棺桶は消えていて、代わりに寝台が置いてあった。
ロジリアが一つを占領し、もう一つには……。
「殿下……?」
セツナが至高の芸術品のように、白い寝台に白い毛布に包まれて、横たわっていた。
棺桶の中にしかいないはずの彼が、どういうわけか、寝台で仰向けになっているのだ。
(どういうこと?)
まるで状況が分からない。
しかし、なぜか、ロジリアは死の淵から奇跡の復活を遂げたらしい。
しかも、病気が吹き飛んでしまったかのように、元気そのものとなっている。
これらが指し示す答えは、一体何なのか?
「ま……さか……?」
いやいや違うと、否定しかかってから……。
ぞっとしたロジリアは、傍らのセツナに走って駆け寄った。
棺桶以外で、セツナが熟睡しているところを、ロジリアは見たことがないのだ。
「殿下……! 起きて下さい。殿下!」
あわてて、セツナを揺り動かすものの、ぴくりともしない。
そのことが逆に、ロジリアを慄かせた。
「冗談じゃないわよ。殿下!」
更に激しく揺さぶろうとしたら、その手は、背後に立った人物によって、がしりと掴まれていた。
「えっ?」
「まったく……。起こさないでくれますか。これ以上寿命が縮むと、この方も大変だと思うので……」
「……ヨハ……ン?」
「呼び捨てなのは、頂けませんね。お嬢さん。仮にも私は以前ここで二番目に偉かった者ですよ」
「ああ、ヨハン……さま」
速攻でロジリアが言い直したのは、セツナのことが心配だったからだ。
ヨハンは癖のある微笑で、余裕綽々と佇んでいる。
…………気に入らない。
「寿命って、どういうことですか?」
「……ええ、少しばかり殿下の寿命を頂きました。貴方は二回目の寿命延長で、ミッシェル君との契約は無事終了。みんな幸せです。良かったですね」
「はああっ!?」
最悪じゃないか。
(寿命って何よ。削ったって、どういうことよ。訳が分からないわ!?)
セツナにとってロジリアは、勝手に暴走して何をしでかすか分からない傍迷惑な外国人のはずだ。
現に、ロジリアには内緒で魔物から遠ざけるために、城砦からシーカの街に連れ出したではないか?
重要なことなんて、一つも話す価値もない存在なのに、どうして自分の命を懸けてまで生かそうとするのか?
「何で、そんなこと!?」
「貴方に、言いたいことがあるそうですよ。だから、絶対に死なせたくないと」
「何ですか、それ。大体そんな理由で? そんな……はずないでしょう?」
ロジリアは青筋を立てて、狼狽えた。
「……だ、だって、ヨハン……さま。そんな。私、殿下にそんなことまでしてもらえるような人間じゃないわ。殿下には、迷惑しか掛けてないもの」
ロジリアは誰かを犠牲にして、生きながらえようなんて、思ったことはなかった。
それなのに、ミッシェルもセツナもロジリアのためだと言って、生贄のように、その身を削ってしまう。
誰も頼んでいないのに、どうしてそんな勝手なことをするのか。
怒りや罪悪感の中に、僅かに嬉しい気持ちが混ざっていることが、何よりロジリア自身許せなかった。
「身内でもないのに、こんなことをして、一体、殿下に何の利点があるんですか? 殿下は私を助けたことを、きっと後悔します。こんな……倫理に反したこと」
「まあ……そうですよね。貴方の言うとおり、殿下は間違っています。人には天命がありますからね。でも、そこに救える手段があるのなら、縋りつきたくなるのも人間です。貴方が逆の立場であれば、同じことをしていたのではないですか?」
「人の死を弄んでいるのは、貴方じゃないの?」
厳しく睨みつけると、ヨハンは首を傾げた。
少しも隙がなく整えられた黒髪は、彼の細かな動きに揺れることもなかった。
「私は弄んでなどいませんよ。もっと遊びたいのなら、もっと残酷に殺しています。これでも、ちゃんと、この世界の規則に基づいて動いているんですよ。むしろ、頼まれると、なかなか嫌と言えない性分なんで、困っているくらいなんですから」
「でも! 殿下は、貴方の息子のようなものでしょう? 殿下が望んだところで、貴方が拒否すれば、それで良かったはずです。だって、殿下はこの国の王子様じゃないですか?」
「へえ……」
小馬鹿にして、嘲笑しているのは、ロジリアが抱く後ろめたさを見抜いているからだ。
ヨハンはたじろぐロジリアにわざと近づいてきた。
「自称聖女さまが……おかしなことを仰りますね。王子だからって? 命に軽重があるのですか? それこそ、貴方の奢りじゃないですか。殿下は初めて自分の意志で、貴方を救おうと決めたのです。その気持ちを汲んであげるくらい良いではないですか? まあ、このように大変個性的な方なので、貴方の方から恋愛感情を抱けとまで、強制はしませんけど?」
「私は……」
――嫌いなはずがない。
むしろ、多分……。
セツナが好きなのだろう。
自覚なんてしたくなかったから、あえて直視しないようにしていたけれど、ここまで、ロジリアを大切に扱ってくれる人に、恋愛感情を抱くなという方がおかしいではないか。
――でも……。
だからこそ……彼には、長生きして欲しかった。
ロジリアの分まで、おもいっきり生きていて欲しかった。
「私、殿下がこんなことをしてくれるなんて、思ってもいなかったんです」
「……素晴らしい。美談ですね」
冷や水をかけるように、ヨハンが横槍を入れてきた。
ロジリアは無意識に流れていた涙を必死に手で拭ってから、顔を上げた。
「何が言いたいの……ですか?」
「いえいえ。良かったなって思っているだけですよ。とりあえず、みんなそれぞれ納得のオチじゃないですか? ミッシェル君にもお礼を伝えたら良い。そもそも、彼が私に頼まなければ、貴方はとっくに死んでいて、殿下に会うこともなかったわけですから」
「まっ、まさか、貴方、ミッシェルにも何かしたんじゃ!?」
「疑り深いなあ」
血相を変えたロジリアに、ヨハンは特大の溜息で答えた。
「まあ、少し落ち着いてくださいよ。ミッシェル君は昼夜貴方を看病していて、疲れたみたいですよ。ここは殿下の私室だから、貴方たちにあてがった部屋に戻ったのでしょう」
「……そ、そうなんですか」
怪しい。
だが、そんなことで、ヨハンが嘘を吐く理由もない。
きっと、ミッシェルは言葉通り、別室で休んでいるのだろう。
それなら、良い。
ホッと一息吐くと、しかし、ヨハンは根に持っているらしい。小言のように文句が続いた。
「まったく、貴方たち姉弟には、呆れてしまいますよ。元々、貴方が死んだら、ミッシェル君の目は、多少見えるようになるはずだったんですよ。緩い契約だったんでね。ほら、彼の目を犠牲にしても、貴方の身体の諸症状は、治っていなかったでしょう。放っておいても、貴方の思惑通りだったわけです。けど、貴方は殿下を巻き込むことに成功した。これ、かなり良い方の結末だと思うんですけどねえ」
「だから、感謝をしろとでも? 貴方は面白がって、あえて、契約内容をミッシェルに黙っていたんでしょう? 散々私たちを振り回して……」
胸倉を掴んでやろうとしたが、それこそヨハンの思い通りになるような気がして、ロジリアは何とか感情を収めた。
……確かに、今は落ち着くべきだ。
「大体ね、変だと思っていたのよ。心音の感じだって……ぱったり途絶えたり、聞こえたり……。貴方の気まぐれで調整していたんじゃないの?」
「ええ、まあ。永遠に捕まらない、追いかけっこをすることも出来たんですけど。貴方の寿命が尽きてしまったら……つまらないじゃないですか」
…………やっぱり、愉しんでいるじゃないか?
この魔物のしていることは、すべて故意だ。
ロジリアをサフォリアに呼んだのも、わざと心音を消して、この城に留めたのも……。
再び、近づいたことを察知させて、城に帰らざるを得ないようにしたことも……みんな。
「……最低だわ」
「それでも助かったんですから、もっと喜んだらどうですか? もったいない」
「喜べるはずないでしょう! 殿下が大損しているじゃないの」
「ああ、そうか。そういう、とらえ方もありますね」
ふざけたことを、抜かす。
良識がないのはセツナより、遥かにこの魔物の方だ。
「義父上!」
「……どうぞ」
ここは誰の城だと確認したいくらい、ヨハンは我が物顔で、声の主に入室許可を出した。
いつもより一層、丁寧に部屋に入ってきたカナンは、眠っているセツナに一礼だけすると、ロジリアがいるにも関わらず、淡々と告げた。
「実は、あの御方が侍女とミッシェル君の存在に気づいてしまったようで、その……」
「ほう……」
ヨハンが顎を擦りながら、うなずく。
「あの……御方?」
「今、こんな状態なのでね。まるで、この時を見計らったように、いらっしゃったお客様には、客間で待って頂いてたのですが……どうやら、待ちきれなくなってしまったみたいですね」
「はあ?」
その意味が分かるようで、分からない。
ヨハンの説明は、回りくどいのだ。
代わりに、カナンが珍しく苦々しげな表情を作りながら答えた。
「セツナ殿下の叔父君、エヴァン殿下です。よりにもよって、こんな時にセツナ殿下を訪ねていらっしゃったのです」
「たしか……。王位を継ぐべき御方……でしたっけ?」
「次代の王は、セツナ殿下ですよ」
「でも、殿下は継ぐつもりはない……と」
「それが、この方にとっては楽だからです。でも、逃げることは許されません。この方は、そういう宿命を持っていらっしゃるのです。全部、嫌がらせですよ」
「…………嫌がらせ?」
ロジリアが大仰に首を傾げると、ヨハンが肩を揺らして笑った。
「つまり、カナン。私が別室に監禁していた、あのミガリヤ人の娘と兄を含む暗殺者たちの存在が、エヴァン殿下に見つかって、連れ去られた……ということですね?」
「なっ、何ですって!?」
腹の底から大声を上げても、苦しくないことに驚いたロジリアだったが、しかし、次のカナンの言葉の衝撃はそれ以上だった。
「あー……。それで……ですね。ロジリア嬢。落ち着いて聞いてもらいたいのですが……」
「はっ?」
「………ミッシェル君も、一緒に城から連れ出されたようなのです」
その瞬間、ロジリアの理性はぶつりと切れた。