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「さて、何から話しましょうかね。まあ……長くならないように気を付けますが、ああ、ご存知のとおり、私は、人ではない。ミガリヤでは聖女や聖人ですが、サフォリアでは『魔物』と呼ばれている類のものです」
結局、セツナに全身で押さえこまれてしまったロジリアは、カナンが手配した部屋について行くしかなかった。
ヨハンは、手ずから淹れた茶を、立ったまま一口飲んで、恍惚とした表情を浮かべた。
腹立たしいことに、茶の入れ方は完璧だ。
貴族の家に生まれたロジリアだが、これほど美しくサーブしている執事を見たことはなかった。
「元々の私の契約者は、セツナ殿下のご生母です。彼女に息子の健やかな成長を、頼まれてしまいましてね」
「……ヨハン。充分に長い」
セツナが長椅子にふんぞり返りながら、先をうながした。
その隣に、ロジリアが渋々座り、手前の椅子にカナンの手を借りてミッシェルが座り、エレカも並んで腰かけた。
いつものセツナの白い部屋ではない、花柄の壁紙の可愛らしい個室だった。
「ああ、これは失礼。そう、ミガリヤのことでしたね。数年前に王が代替わりして、益々胡散臭くなった国です。あの国の王は、自らの王位を確固としたものにするため、兵力を増大させる政策を取っている。しかし、長引く内乱のせいで、余剰な金は国庫にないのです。……それで、金を荒稼ぎしようと企んだらしく特殊な『毒』兵器を開発して、売りさばこうとしているらしいと……私、噂に聞きまして」
ヨハンは、まるでよくある世間話のように、淡々と語った。
「是非とも、破壊しなければ……と、私はその『毒』が作られている場所に単身向かったのです」
「それって、まさか?」
「……うん。姉さんのいた療養所だよ」
「貴方は、知ってたの? ミッシェル」
「知らないよ。すべて事情は、姉さんが留守の時に聞いた」
「……そう」
「いやー、まったくねえ。療養所とは、よく考えたものですよ。ミガリヤ王は、病人が大勢いる療養所の地下で、極秘裏に毒兵器を作っていた。重病人であれば、いつ、どうなったところで、文句はない。病人で毒を試した形跡はありませんでしたが、あの木々は有害でしたね。空気を吸い込むだけで、死期が早まってもおかしくはない」
「それで療養所を燃やした……と?」
「ええ。あの時、私はあの木々を駆除していたんです。サフォリアを脅かす種は、最初に摘み取っておくのが良いですからね。……で、大炎上の最中、私はこの坊ちゃんと会って、お嬢さん、貴方の話を聞いたのです」
「あの時、火の回りが早くて。僕も危なかったんだ。そこを……助けてもらって、姉さんのことを話したんだよ。僕の目と引き換えなら、姉さんの寿命を延ばすことが出来るって聞いて、僕は……」
ミッシェルはうつむいて、小声で「ごめんなさい」と呟いた。
急激な展開に、ロジリアの頭は追いついていなかった。
「何で? ミッシェル、貴方は絵描きになりたいって言っていたじゃないの? 私の命を少しだけ、引き延ばしたところで、どうにもならないことくらい、分かっていたはずでしょう?」
身を乗り出したロジリアの手を、セツナがとっさに掴んだ。
「ロジリア」
「僕は!」
ミッシェルが涙声で叫んだ。
「僕はどんな形でも、少しでも長く姉さんに生きていて欲しかったんだよ!」
「……ミッシェル」
「僕は姉さんの弟だよ。少しでも長生きできるって聞いたら、考えるより先に動いちゃうよ」
「…………」
「姉さんに黙っていたのは、それを話したら、姉さんが悲しむことが分かっていたから……。それと、良からぬ考えかもしれないけど、敵討ちが姉さんの生きがいになってくれたらって思ったんだ」
馬鹿だ。
ロジリアのために、犠牲になる必要なんてまったくないのに。
(どうせ、私はいなくなるのよ)
けれど、ロジリアがミッシェルの立場だったら、絶対に同じことをする。
ミッシェルを否定することなんて出来ないのだ。
(私の方が、はるかに大馬鹿だわ)
歯痒くて仕方ない。
足掻いて足掻いて……。
……この期に及んで、何か、方法を探していたいのだ。
「その……ヨハン……さま?」
ロジリアは昂る感情を殺して、ヨハンに話しかけた。
「ミッシェルの目を治す方法、何か一つくらい、あるんでしょう? 契約だと言うのなら、たとえば、私が……死んだら、自然に解除されるとか?」
「さあ、どうでしょうねえ」
「もったいぶらないで」
「相変わらず、面白いお嬢さんですね」
カップを机に置いたヨハンは、場違いな笑みを浮かべて、エレカの椅子の後ろに移動した。
「まあ、安心して下さいって。ミッシェル君の目は簡単に治せますって」
「えっ?」
「この娘の命を、使えば良いじゃないですか?」
「はあ!?」
反抗的に睨むと、その目が好物だと言わんばかりに、ヨハンは目尻に皺を寄せて嗤った。
「弟の目を治したいのでしょう? ついでに、貴方だってもう少し生きていたいはずです。試しに、この娘を生贄にしてみてはいかがです? 我ながら、名案だと思うのですが? 幸い、この娘……ミガリヤの密偵のようですし、貴方もこの娘がどうなろうが知ったことではないでしょう?」
そうして、ヨハンは、エレカの肩にそっと手を乗せる。
ひっ……と、エレカが短い悲鳴を上げて、飛び上がった。
「いい加減にしろ! ヨハン。女中は別に私の命を欲したわけではない。ただ賊の手引きをしただけだ。そうだろう?」
「わ、私は!!」
エレカがしゃくりあげながら、叫んだ。
「私はミガリヤ王の命令を受けて『聖杯』を探しておりました。でも、ここで侍女をしていても、まったく手掛かりが掴めなくて。みんな『聖杯』はここにあるというのに、どういった形状のものかも分からず……。王は怒って、殿下を狙うよう命令されました。殿下が深手を負えば『聖杯』に変化があるって……!」
「はいはい。推測通りだ。もう良い」
セツナが魂が抜けたように、座っていた長椅子の脇息にもたれかかった。
「別に、ミガリヤ国王のことなんて、どうでもいい。……が、とにかくヨハン、お前は反省しろ。この場にいる全員に、謝罪して回れ」
「えっ、どうしてです? せっかく素敵な展開を迎えているのに……」
「素敵? 残酷以外の何がある?」
「……では、この間者の女中にも、私は謝らなければならないのですか?」
あからさまに不機嫌な顔で、ヨハンが舌打ちをした。
「むしろ、この者が姉弟の役に立たないのなら、早々に処刑すべきでしょう。放っておくと、思わぬ火種になりますよ?」
「きゃあ!」
そうして、ヨハンがエレカの首筋に手を這わせたため、彼女は驚いた拍子に、椅子から転げ落ちてしまった。
「だから、私はお前が嫌いなのだ」
セツナが頭を抱えている。
(……そうよね)
この『魔物』に、セツナは養育されていたのだ。
性格も、屈折するはずだ。
むしろ、こんなふうに育てられて、良識を持っているセツナは、立派すぎるくらいではないか?
「ううっ」
とうとう恐怖で泣きだしてしまったエレカが、ロジリアは胸が痛んだ。
「で、でも、エレカだって……好きでミガリヤ国王の命令に従っていた訳ではないと思います。きっと何か事情が……」
ロジリアは、ふらつきながら立ち上がった。
今まで、彼女はロジリアに優しく尽くしてくれたのだ。
二度目の襲撃の時だって、一緒に逃げようと声を掛けてくれた。
決して、彼女は悪人ではない。
それだけは、断言できた。
「エレカ……話してちょうだい」
床に突っ伏したままのエレカに手を差し出すと、エレカは潤んだ目で、ロジリアを見上げた。
「聖女さま?」
「私は聖女なんかじゃないわ。聞いてたでしょ? ただの療養所にいた病気のミガリヤ人よ。貴方も、ミガリヤの血をひいていたのね?」
「ええ。私だけが、うんと子供の頃に、サフォリアに。出稼ぎに行く父に連れてこられたんです。十年以上前、国境の警備が甘い時期があったんですよ」
エレカがたどたどしく、答えた。
「私は運良く、こちらでサフォリアの人間として生きることが出来ましたが、残りの家族は、ミガリヤに置いてきたままで、心配で……。何とか手を尽くして手紙を送ってみたら、ミガリヤにいるはずの兄が……先日、私を訪ねて来たんです」
「お兄様が?」
「兄さんは、剣術が得意で、私のこともあって、殿下を襲撃する一人に選ばれたようです。家族のために協力して欲しいって言われて……。私はここに」
「そうだったの……」
ロジリアが眉を下げると、エレカは袖で涙を拭った。彼女が別れた時と同じ装いだということは、城に戻って早々、ヨハンに捕まってしまった証拠に違いない。
「貴方も、大変だったわね」
「聖女さまも、顔色が悪いです。一体、聖女さまのご病気は……?」
「それは、その……」
どう話したら良いか、戸惑っていたところで……。
「……ご、ごめんなさいっ!」
エレカがロジリアの出していた手を、逆に自分側に引っ張った。
「えっ…!」
あっけなく態勢を崩したロジリアを羽交い絞めにしたエレカは、瞬く間に、ヨハンが用意していた自分の分のカップを割って、刃を作り、ロジリアの首筋に突き付けてきた。
「すいません、聖女さま。でも、どうしても、ここに捕らわれている兄さんたちを解放して、こちらに『聖杯』を渡して欲しいのです。そうしないと。ミガリヤにいる家族が……!!」
「ミガリヤ国王は、そこまで腐っているの?」
「ミガリヤは、何も変わっていません。殿下の襲撃に失敗している兄も、どうなるか分かりませんが、連帯責任で家族の命は奪われます。そういうことなんです」
やはり……。
卑劣だったのは、ミガリヤ国王・ルースだったのか。
(あいつ……サフォリアに来る前に、私がどうにかしてやれば良かったわ……)
あの国王こそ『魔物』ではないか?
「あのなー。女中よ。すまないが、聖杯は……持ち運びできるものでもなくてな」
セツナが、気まずそうに答えた。
「だから、進言したでしょう? 殿下」
「ヨハン?」
……あきれながら、ヨハンはカナンから手渡された剣を鞘から抜いて、切っ先をエレカに向けた。
「これ、立派な火種じゃないですか。その茶器……気に入っていたのに。割るなんて」
「だから……やめろって」
血相を変えて、セツナが詰め寄るが、ヨハンは退くつもりはないようだ。
「……来ないで!」
せっかく、ロジリアを抑え込んだにも関わらず、エレカの手は激しく震えていた。
あの夜と同じ金色の瞳をしたヨハンが、こちらを睨んでいる。
……エレカは、この瞳を恐れているのだ。
「なぜ、そこを退いてくれないのですか? お嬢さん」
バレていたらしい。
ロジリアはエレカを庇って、わざと前に出ていたのだ。
剣の切っ先をわずかに横にずらして、ヨハンは言った。
「この小娘に、貴方は殺せません。さっさと避難してください。代わりに、私が娘を葬って差し上げますから」
ヨハンの本気に、エレカがぎゅっとカップの破片を握った。
手のひらから、真っ赤な血が滴っていた。
「…………魔物……いや、ヨハン……さま」
――逆に一歩。
ロジリアは、挑発的にエレカの前に出た。
「エレカを助けてあげて……。どうせ、『聖杯』なんてもので、世界征服なんて出来やしないんでしょう? だったら、この子に一時的に貸してあげたっていいと思うわ」
「なぜ、そんな面倒なことを? 殺す方が早いのに」
「殺したら、終わりなのよ!」
そう。死んだら、おしまいだ。
あの世の入り口に立っているロジリアだからこそ、よくわかる。
少なくとも自分の目の前でそんなことをして欲しくなかった。
「エレカは、絶対殺させないわ!」
激しく啖呵を切ったところで、どくんと胸が震えた。
……やってしまった。
気をつけていたのに、声を張り上げたせいで、気管を刺激してしまったらしい。
渇いた喉の奥から、込み上げる衝動。
(やだ。嘘? こんなところで……?)
咳が止まらない。
「ロジリア嬢……。何やってるんです? 貴方、そんな娘を庇うより、私を殺すのが優先じゃないのですか?」
「もちろん、お前は殺す……わよ」
でも……もう、身体が動かない。
目が回る。
(よりにもよって、こんな大事な場面で……?)
鉄の味が、口いっぱいに広がる。
喉を伝って、熱い液体が込み上がってきた。
掌から床に滴り落ちる真紅の…………。
「ロジリア!!」
最初に叫んだのは、セツナだった。
「姉さん……!?」
続いて、ミッシェルも悲鳴を上げる。
「聖女さま?」
エレカはロジリアから離れ、棒立ちになっていた。
(これ、最期の……発作……?)
両手から溢れる生暖かい液体。
大出血だ。
絨毯が鮮血に染まっている。
こんなところで、ロジリアは死ぬのか?
何もかも中途半端なままで…………。
あまりの滑稽さに、苦しさの中でロジリアは嗤ってしまった。
(……むしろ、これが……私らしいのかもしれないわよね)
自分が倒れることで、ヨハンの足止めになるかもしれない。
遺言にもなるだろうから、エレカを助けてくれるかもしれない。
そんな打算まで働いてしまう。
「ロジリア!!」
らしくなく必死の形相で、こちらに駆け寄ってくるセツナの姿が、ロジリアには眩しかった。
「大丈……夫……です」
明らかに大丈夫ではないが、激しく乱れる息の中で、ロジリアは必死に言葉を紡いだ。
(強がり……)
我ながら悲しいくらいの強情さだ。
セツナの良いように使われていたことを、無意識下で、根に持っているのかもしれない……。
それとも、吐血している自分を見られたくないから?
(バカね。最期くらい、こんな形ではなく、ちゃんとお礼を言えたら良かったのに……)
……やはり、色々と未練がある。
達観なんて、出来ない。
何かを掴もうと、ロジリアの手が前に伸びた。
最期に、セツナに向かって、助けを求めたことも知らないまま……。
ロジリアは、暗転する視界の中に落ちていったのだった。




