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◇◇◇
ミガリヤ国王ルース=ミリオンは、最近までまったくといって良いほど、宗教や神話に興味を持っていなかった。
大体、神や魔物なんてものが実在したのなら、この国はここまで悲惨な状況にはならなかっただろう。
内乱に次ぐ内乱。
肉親同士が血を流す王位をめぐる争い。
ルースが生まれるはるか前から、国は荒れ放題だった。
そして、自分はその血みどろの戦いに勝って、王となった。
神話なんて、現実を生き抜くために何の価値も持ってなかった。自分の力以外何も信じてなかったのだ。
……それが、ある事件を境に変わった。
自称「魔物」が自分に浴びせた言葉のせいだった。
『お前は何者なのか?』
臣が問うた時、そいつは自分のことを「魔物」と、前置きした上で、こう答えたらしい。
『貴国の王は、創国神話を知っているのか?』
――と。
魔物の力を欲するのなら、サフォリアの「聖杯」を得ることだと、せせら笑ったそうだ。
(魔物か……)
そんなものが実在していることが信じられなかったが、その「魔物」は、たった一体で、国が直轄して運営を行っていた療養所を放火した挙句、そこに詰めかけた兵士数百人を戦闘不能状態に追い込んだのだ。
ルースもその異常性については、認めざるを得なかった。
(しかも、魔物は「聖杯」という謎を吹っかけていった)
「聖杯」を手にすれば、その破格の力を手に入れることができるというのか?
……さすがに、怪しすぎる。
裏があるはずだ。
レムリヤ教を国教としているミガリヤではあるが、創国神話に関しては、多く出回っていない。
それは、創国神話がサフォリア中心に描かれているためだ。
とりあえず、創国神話を徹底的に調べさせ、魔物の行方を追わせた。
だが、何の取っ掛かりも掴めず、半年後。
療養所で瀕死の状態だった少女ロジリアが、金色の瞳を切り札に『聖女』にして欲しいと、ルースのもとを訪れた。
その娘……。
ロジリアの病気は、快復したわけではないようだが、余命が伸びたことは奇跡であった。
彼女の言いなりに聖女と認めてやった上で、監視をつけて泳がせた。
ロジリアは、魔物を敵と思い込んでいて、一人で戦う腹積もりでいるようなので、魔物捜索の手としても、都合が良かったのだ。
(まあ、あんな力を、そう簡単に、あんな力を手に入れることが出来るとも思えないが)
サフォリア行きを懇願するロジリアに、聖杯のことを話して、可能性の一つを増やした。
体良く、彼女がサフォリアの王子に辿り着き、聖杯の場所を掴んでくれたら、その時、子飼いの者が奪ってくれるだろう。
ロジリアが死んでしまったら、それも良し。
ルース個人としては、隣国の聖杯などより、いまだ燻っている内乱の方が気がかりだったのだ。
……しかし。
(そうもいかなくなってしまった)
ロジリアが現れるのと同時に、ルースに接触をはかってきた男がいる。
傍らに座っているその男は、こちらが用意した葡萄酒を涼しい顔で三杯も煽っていた。
お忍びでやって来たという割に、派手な純白の外套を身に着けているので嫌味なくらい、よく目立っている。
サフォリア王家の人間は、皆もれなく派手好きのようだ。
「……エヴァン殿下」
呼び掛けても、反応はない。
ルースが手配した踊り子の舞に、熱中しているようだ。
しかし、聞こえてはいるようで、小さく首肯した。
「すでに、手配は整っております。必ず『聖杯』を……」
「手配……か。何度も失敗していると聞いたので、私がここまで、わざわざ出てきたわけですが?」
ルースより少し年下らしいエヴァンは、金髪の髪を掻き分けて、空になった杯をこちらに傾けた。
渋々、ルースは四杯目を手ずから彼の杯に注ぎながら、愛想笑いを作り込む。
下手な芝居も、相手が愚かだと思えば、苦にはならなかった。
「……しかし、エヴァン殿下もご存知のように、王子の護りは意外に固く、今まで、容易に入り込めなかったのです」
「正攻法でいっても、無理でしょう。私も何度も試していますから。だからこそ、貴殿に期待したのです」
「もちろん、仰せのとおり、人脈を駆使して、現在王子の懐に入ることに成功しました。ですから、あと少しの辛抱です。こちらが成功したあかつきには……」
「ああ、もちろん。聖杯さえ手に入れることが出来れば、貴殿の望みを私の出来る範囲で叶えるつもりですよ。ルース殿」
「お願い致します。それと、もう一つ……」
「何だ、まだあるんですか?」
「おこがましいとは思いますが、一つだけ宜しいでしょうか?」
ルースは踊り子に舞いをやめるよう、目で合図を送った。
一斉に踊り子も臣下たちが外に出て行き、大広間は、あっという間にルースとエヴァン、彼の従者だけになった。
「どうしても、エヴァン殿下の手紙だけでは、理解できないことがありまして……」
「何がです?」
「聖杯の形状についてです。何か手がかりになるようなものはないのでしょうか?」
ルースは「聖杯」について何も知らない。
調べても、神が人類に与えた「神具」いうくらいしか、分からなかったのだ。
一体、何なのか、少しくらい、情報は欲しかった。
「うーん、それがですね」
エヴァンは顎を擦りながら、早口で語った。
「私も詳しくは知らないのですよ。一応、創国神話の中では聖杯には奇跡の力が宿っているとのことですけど……。しかし、貴殿もお分かりでしょう? 魔物とか聖杯とか……。そもそも、そんな凄まじい力があったのなら、この大陸すべてをサフォリアが支配しているはずです」
以前、ルースがうっかり口を滑らせて訊いてしまった「魔物」について、エヴァンはいまだに信じていないようだった。
「……きっと、ただの古びた杯でしょうよ」
「古びた……杯?」
「杯の形をしているかも、分かりません」
「はあ?」
「それを……セツナを追いつめて、吐かせたいのです」
…………ただの杯?
もしも、それが本当であれば、くだらない仕事を引き受けてしまったことだと、ルースは心の奥底で呆れ果てていたが、当のエヴァンは飄々としていた。
「王位を継ぐためには、聖杯を我が国の大教皇に見せなければならないのです。偽物は通用しないらしくてね」
「貴方様がサフォリア国王や教主との関係が良好ならば、普通に聞き出してみたら宜しいのでは……?」
「それが出来たら、とっくにやっていますよ。何度も尋ねてみましたけど、二人とも聖杯の形状など知らぬの一点張り。国王と教主の警備は厳重だし、脅すことは不可能です。うかつなことをして、私の立場を悪くしたくない。……二人に比べれば、まだセツナの方は警備も緩いのです。おまけに、あいつは頭も悪いですから」
「なるほど」
その甥っ子に自白させるために、隣国を巻き込んでいるのだから、エヴァンも相当頭が悪いのだろう……とは、さすがにルースも言えなかった。
「兄上があいつに王位を継がせるつもりなら……サフォリアは、おしまいです」
「……お察しします」
サフォリア国王は、今年で六十歳になる。
今のところ、健康そのものらしいが、もしもの時のことを考えて、エヴァンが不安になるのも、仕方のないことだろう。
(今、ここで国王に何かあったら、聖杯を持っている、甥のセツナが王位継承してしまうのだからな……)
もっとも、ルースはそうなった方がミガリヤにとって良いのではないかと、想像を働かせたことはあった。
たとえば、セツナが王位を継いだ後に、そのまま一気にサフォリアに攻め込んでしまえば、間抜けなセツナ国王が率いる軍勢など、ルースの敵ではない。
サフォリアの肥沃な土地を、すべて手中に治めることが出来るのではないか……と。
しかし、それが出来ないくらい、ミガリヤの状態は悪くなっている。
愚かな王弟エヴァンのに手下のように成り下がるなんて、本当は、この上ないほど、屈辱的なことではあったが……。
(まあ、最終的に、余がエヴァンを出し抜けば良いのだ)
だが、にやりと口角を上げたところを、エヴァンに見られていたらしい。
咳払いをされて、ルースは我に返った。
「エヴァン殿下。今回用意した刺客の方は、大丈夫だと思います。強いと評判の者たちですから」
「ほう……。そんなに強いミガリヤの剣士が暗殺に手を貸してくれると?」
「家族のことが心配なようで。当面の生活を面倒見てほしいようですよ」
「それは、随分さもしい理由ですね」
度重なる戦いで、ミガリヤ国内の貧富の差は、より一層激しくなっている。
誇り高い剣士だろうが、生きていくためには、国王の戯れに付き合うという時代だった。
「つまらない者たちですが、腕は確かです。長引かせるつもりはありません。いずれにしても、次に失敗したら、例の実験材料にでもして、この世から葬るだけです」
「それは良い。では、私は楽しみに、その時を待ってみるとしますか……」
エヴァンは、うっとりするほど酷薄な笑みを浮かべると、空になった杯を机に置いて、立ち上がった。
「エヴァン殿下は……この後、どうされるのです?」
「……わざわざ暇を作って来たのです。私はシーカで高みの見物でもさせてもらいますよ」
悪趣味な男だと、ルースは自分を棚に上げて、嫌悪感を葡萄酒のほろ苦さと共に飲み干した。