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◇◇◇
――まったく、どうして……。
セツナは密閉された空間で、長いことずっと考えていた。
(こんなことになってしまったんだろうな……。私は)
物置部屋はそれなりに広いので、特に不満はない。
酸素も、朝まで普通に持つだろう。
子供の頃、ヨハンの教育の一環で、市井に下りて、おかしな修行をさせられたこともあるので、こういう宿も慣れている。
――だが、さすがに今回は、心安く眠れるはずがなかった。
(棺がないせいか?)
常に共にあった、セツナの逃げ場が、完全に消失してしまったせいだろうか……。
いや、それだけではない。
薄い壁一枚隔てて、ロジリアがいるせいだ。
城の客間とは、違う。
あそこには、常に誰かの目があったので、二人きりという実感はなかった。
セツナは、いつも寝たふりをしていたが、彼女に対して、おかしな感情を抱いたことはなかったはずだ。
――しかし、この部屋は駄目だ。
人の目が届くことなく、限りなく二人だけの空間と化している。
大丈夫だと思っていたはずなのに、情けない。
(私は、何をやっているのか……)
益々、分からなくなってしまった。
ロジリアの体調は、日が暮れていくに連れて、悪くなっているような気がした。
最初は、策のことなど、すべて忘れたふりをして、本気でシーカから逃げてしまおうとも考えていたが、そうしなかったのは、正解だったかもしれない。
彼女の身体の状態を考えれば、きっと城に戻った方が良かったのだろう。
ここで、セツナが向かいの宿で待機している従者たちを呼べば、たちどころに、その準備は整うはずだ。
カナンは毒舌だが、優秀な侍従だ。きっちり仕事をしてくれているだろう。
今頃、城に行けば、調査結果も出揃っているに違いない。
……分かっている。
(帰るべきだ)
だけど、どうしてか、セツナは戻りたくなかった。
ヨハンのことだけではない。
(もう少し、ロジリアと一緒にいたいなんて……)
調子の悪い者を、本人の意志があったとはいえ、振り回してしまった。
今回の外出が刺客を捕えるための目的だったと知った時の……ロジリアの氷のような表情を見ただけで、胸が痛んだのに……。
(私は彼女に話していないことが、まだ山ほどあるのだ)
それを知ってしまったら、ロジリアはセツナのことをどう思うだろう。
幻滅するだろうか?
(あまり、嫌われたくはない……な)
こんな感情をよもや自分が抱くなるようになるなんて、セツナは想像すらしていなかった。
(男も女も、色んな人間を見てきたはずだ……)
王侯貴族の人間模様。権謀術数……政略の為に、繰り返される、あくどい駆け引きの数々。
人とは、醜いものだということを、物心つく前から知っていた。
その醜さこそが、美しいのだと酩酊している養父の戯言など、受け入れたくなかった。
――世界は、セツナの見たくないもので、満ちている。
何も知りたくもないし、聞きたくもないし、穏やかに生きていきたい。
だから、養母が自らの死に際して、特注した『棺桶』だけが、セツナの居場所となっていた。
――貴方っていう人は、母親の胎内にでも、いるつもりですか?
そんなふうに、たとえ、カナンにひやかされても、セツナは生温かい世界で、静かに揺蕩っているだけで良かった。
(それで、私は満足だったのに……)
――あの朝……。
すべてをぶち壊す大音声で、ロジリアは嵐のように、セツナの前に現れた。
彼女は、セツナが見てきたどんな人間とも違っていた。
真っ直ぐで、ひたむきで、馬鹿がつくほど強情で、そのくせお人好しで、鮮烈な印象だけを残して、走り抜けていってしまいそうな不安定感があった。
たまに見せる一瞬……。
きっと本人も無意識だろう。
透明な表情を浮かべていることがある。
間近で起こっている出来事を、まるで生きる世界が違うように、遠巻きに俯瞰しているような……。
自分の終わりが近いと、悟っているせいだろうか……。
その上で、弟のために生きようとしている。
それが出来るのか、出来ないのか……そういう問題ではなくて、常に走り続けることが、彼女の生き方なのだ。
(一念だけが、ロジリアを生かしている)
しかし、だからだろう。
彼女は重要なことを見逃していた。
そもそも、金色の瞳を持つ存在を、敵の『魔物』と決めつけるのは、早計だ。
彼女は、魔物がミガリヤにいた目的も知らなければ、サフォリアにいる理由も分かろうとしていない。
今回のことは、国家間の問題が大いに絡んでいる。
対ミガリヤで捉えたとき……。
確かに、ロジリアの言うとおり『聖杯』という神話の世界の道具なんかを本気で、ミガリヤ国王が求めているとは考え難い。
……けれど、絶対にそのことで、サフォリアに向けたミガリヤ国王の『伝言』があるはずなのだ。
そして、そのことに、少なからず、あの人も関係しているのだろう。
(まったく、面倒ごとばかりだ)
サフォリアが平和国家を維持してきたのは、並々ならぬ努力のためだ。
国を上手くまとめているように見えるのは、表沙汰になる前に、憂いの種を摘み取っているから。
セツナも、そのやり方に関しては学んでいた。 ………頭の使い方も。
…………でも、どんなに頭を働かせたところで、人の寿命をセツナが操ることだけはできない。
それだけは、管轄外だった。
そのことを、養父はセツナに教えようとしているのか?
……だとしたら、悪趣味も良いところだ。
(人は、必ず死ぬ……か)
ぞわりと、寒気がした。
見たくなかったものが、すぐ目の前に来ているようで、セツナは猛烈に怖くなった。
(本当に、あの娘は死ぬのか?)
強く拳を握りしめたセツナは、気持ちをやり過ごせすことが出来ずに、そっと、物置小屋の戸を開けた。
(…………良かった。生きてる)
それでも、呼吸は荒かった。
ロジリアは、寝台で仰向けに横たわっていた。
真紅のドレスと、生白い肌がランプの灯に艶めかしく照らしだされている。
薄い唇が苦しい息の下で、赤く濡れていた。
「……っ」
セツナは、思わず赤面した。
後ろにたじろいで、ごくりと息を呑む。
(私は、存外、下心のある男らしい……)
苦しんでいる彼女に向かって、不埒な考えを抱くなんて、どうかしている。
一応、眠ってはいるようだから、セツナが押入れから覗いていることは悟られていないようだが、生まれて初めての感情とセツナは戦っていた。
(あんなに薄着では、体に悪いのではないか?)
しかも、熱があるのに、彼女は頭を冷やす処置すらしていないのだ。
(私が看病をしてやれば良かったのか……)
時間をかけたら、また逃げ出すと思って、すぐに寝たふりをしてしまったのがいけなかったのか……。
ロジリアは、重病なのだ。
他に空室があるにも関わらず、わざわざ満室だと嘘を吐いて、ロジリアと同室になったのも、それが一番の要因だった。
(何かあったら、すぐに駆けつけられる距離でいた方が良いだろう……と)
本当のことを話したら、別に部屋を取るように怒るだろうと、計算した上でのことだったが、その判断は間違ってなかったらしい。
そろそろと押入れから出て行ったセツナは、彼女が下敷きにしている毛布を体にかけてやった。
それだけでも足りないと、持ち歩いていた自分の白い外套を上に乗せた。
毛布の隙間から、ロジリアの白い肩がはみ出ている。
露出の高いドレスは目に悪いし、健康にも悪い。
今更ながら、あの店主を殴ってやりたい衝動にかられた。
ちゃんと服装を指定すれば良かったのだ。
(それにしても、苦しそうだな……)
寒さは肺に悪いのだと、医者から聞いていた。
「どうしたものか……」
この先の対応を、決めかねていると、ロジリアが身じろぎした。
慌てたセツナは、再び物置小屋に引っ込み、座り込むが、欲に逆らえずに、再び扉を開けた。
これは、日頃、寝過ぎていたツケなのだろうか。
――今夜は、とても眠れそうもない。
自業自得とはいえ、セツナも考えなしだった。
彼女と共にいることが、こんなに緊張するものだとは、思ってもいなかったのだ。