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◇◇◇
「行かせて下さい! ……カナン様。お願いします!」
ロジリアのいない客室で、ミッシェルは声を張り上げていた。
嫌な予感は、していた。
ロジリアは、最近自分がいなくなった時のことばかり、ミッシェルに話していた。
姉の危なっかしいところを、いつも見てきたのだ。
病気を患っていることなど、お構い無しに、ロジリアは、ミッシェルが傍にいなければ、もっと早くに命を落としていても、おかしくないほど、猛進する性分なのだ。
(……だから、僕がちゃんと監視していたのに)
もうずっと前から、ミッシェルは、ロジリアが隙さえあれば、自分をここに置いてサフォリアに入国するだろうことは、予想していた。
だけど、まさかここの城主で、第一王子であるセツナが率先して、連れ出すとは思ってもいなかった。
気が付いた時には、手遅れだった。
今朝、態度が変だと思い、ロジリアを尾行していたミッシェルは、しかし、逆にカナンに軟禁されてしまったのだ。
どうして、こうなってしまったのか?
未だに理解が出来なかった。
「君は……。いい歳して、姉離れもできないのですか?」
食器の擦れる音がした。部屋中に漂っているのは、果実の甘い香りである。
カナンが何処かでゆったり寛ぎながら、果実のフレーバーティを飲んでいるのだ。
(どうして、この人は……こんなに落ち着いているんだろう?)
仮にも、一国の王子が姿を消したのだ。
城で働いている者には、箝口令を敷いているらしいが、セツナは刺客に狙われていた。
犯人が見つかっていないということは、今も深刻な状態だというのに……。
なぜか、ここを流れる空気はいつもと変わりなく、穏やかだ。
目が良く見えない分、ミッシェルはそういったところは、敏感だった。
(…………やっぱり、この城は変だ)
ミガリヤのような陰湿さはないけれど、部外者を踏み込ませない、高い壁のようなものを感じる。
「カナン様は、殿下を捜さなくても良いのですか?」
「良いも悪いも、捜さないよう、あの方より命令されているので、仕方ないのです」
「命令?」
――ということは、セツナは指示をきちんと出した上で、計画的に城を出たことになる。
「信じられません。殿下は、殺されかけたんでしょう?」
「この国の王子である以上、いつだってそういうことはあるのだと、殿下は仰っていました。私の義父であり、あの方の養父であるヨハンの教えは厳しいものでした。この程度の刺客……あの方にとっては、敵ではないでしょう」
いつも無口な印象を持つ青年だったが、今日の彼は多弁だった。
……いや、元々饒舌な男なのか?
「でも、いつも寝たきりの殿下に、刺客を撃退することなんて出来ないでしょう?」
「いいえ。少なくとも、ここを護る兵士の誰よりもあの方は、強いはずです」
「……冗談ですよね?」
「貴方に冗談を言う利点がありません。なぜ、あの方が自分を貶めているのか、私には分かりませんけどね」
ミッシェルには理解できなかった。
(……殿下が、強い?)
セツナはただひきこもって、日がな一日、眠っているだけだ。
一体いつ、どうやって、身体を鍛えているのか?
大体、もし、本当に強いのであれば、先日刺客に襲われた際、ロジリアを頼りにせず、一人で頑張ってくれても、良かっただろうに……。
(……て、あれは、姉さんが自主的にやっちゃったんだろうけどさ)
困っている人を見ると、ロジリアは結局、放っておけない。
少し考えなしのところがあるけれど、正義感が強くて、真っ直ぐなロジリアは、ミッシェルにとって、憧れの姉だ。
少しでも長く生きていて欲しかった。
――たとえ、それが……ミッシェルの自己満足だったとしても。
自分より、よほど価値のある命だと、ミッシェルは、ずっとそう思っていたのだ。
(うわーっ、本当に姉さんが心配だ。ちょっと目を離しただけで、すぐに厄介事に巻き込まれるんだから)
ロジリアの病気は、確実に進行しているのだ。
あの状態で、王都まで行くなんて言った日には、是か非でもミッシェルは止めるつもりでいた。
「……早く、殿下と姉さんを連れ戻さないと駄目だ」
けれど、ミッシェルの独り言に近い決意表明は、カナンにばっさりと切られてしまった。
「無理ですよ。殿下はまだ帰りたくないと、駄々をこねるでしょうから」
「…………そんな、子供みたいな」
「ええ。子供のように単純です。あの方は、サフォリアの王位を継ぎたくないだけなのですよ。だから、王位のことでお命を狙われても、犯人を積極的に裁こうともしない。ここの城主になったのも、あの方が陛下に懇願して、叶ったものと聞きましたから」
「最悪ですね」
その思考……。ミッシェルより、よほど幼稚ではないか。
「僕が姉離れできない云々より、よほど、そちらの方が深刻じゃないですか?」
「いいえ。君の方が深刻だと、私は思っています」
「どうして、僕が?」
「あの方は、自分のそういう弱い面も受け入れた上で、最後に足掻こうとしているんですよ。明らかに、現実が視えていない、君とは違う」
「…………何を?」
カナンが何を指摘しているのか、まったく分からない。
しかし、彼は確実に、ミッシェルの痛いところをついてきたのだった。
「ミッシェル=ヒースロッド君でしたっけ。君は「魔物」との取引について、姉君に嘘を吐いているでしょう」
そのことは、誰にも話したことがなかった。
ミッシェルだけの、秘密にするはずだったのに……。
「カナン……さま?」
それなのに、カナンは切れ味の良い刃物を喉元に突き付けるかのごとく、言葉をあてがって来たのだった。
「―――君は……自ら望んで、「魔物」にその目を差し出したのですね」
「………………どうして、それを?」
「聞きましたから」
「誰に?」
カナンの冷ややかな一言に、応えるように、扉がぎいっと開いた。
目が見えないミッシェルには、誰がやって来たのか、視覚から読み取ることはできない。
――けれど。
「お久しぶりです。お坊ちゃま。お元気にしていますか?」
その……悲壮感の欠片もない、明るい声の主のことは、よく覚えていた。