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◆◆◆
それからというもの……。
いつ戻るか知れない、育て親のヨハンという男に、会いたくないという理由だけで、セツナはロジリアの部屋を訪れることが多くなっていた。
どの時に、ヨハンが来るのか見当もつかないということで、棺を持ちこんでは、何をするでもなく、ロジリアの横で寝てばかりいる。
狙われている自覚もないのかと尋ねたら、この部屋の警備を厳重にしたので、ロジリアの傍が一番安心なのだと、冷淡に言い返された。
(何なのかしらね。まったく……)
大体、そのヨハンとやらは、いつ帰って来るのか……。
城内の使用人たちは、忙しそうだが、いよいよという気配を、ロジリアは一切感じない。
傍らの白亜の棺桶だけが、今日も不気味な沈黙を続けている。
たまに棺桶から起きたセツナとの共通の話題は、体の何処が悪いかについての健康相談ばかりだが、しかし、セツナの顔色は薔薇色で、肌もつるつるで、動きも素早い。
入浴する元気もあるようなので、ロジリアとは、そもそも比較対象にもならなかった。
(すっかり、ミッシェルも、この国に甘えちゃってるし……)
ミッシェルが席を外す時間、ロジリアは、そんな謎だらけの王子様と、二人きりで過ごさなければならなくなっていた。
(カナン様なんかも、私が殿下に害を為す力もないと、分かっているから、黙認しているんだろうけど……)
…………でも。
見た目だけならセツナは、奇跡の美形なのだ。
ロジリアはセツナが人間で、男性であることを、あの時握られた……手の感触から知ってしまっている。
(力強くて、繊細な手……だった……なんて)
こんな変人王子を、微妙に意識してしまう自分が虚しい。
出来ることなら置き手紙と、世話になった分のお金だけを置いて、城から出てしまいたい。
それなのに、ロジリアはいまだに寝台の上からほとんど動けずにいる。
派手に力を使った後は、休養は必須。
そのことは重々分かっていたものの、今回、体力の回復が大幅に遅れているどころか、どんどん衰えているのは、異常事態だった。
(……進行しているのね)
半年前、死にかけていた状態に近づいている。
まったく。魔物は一体、何を考えているのだろう?
(むしろ、アレに考えなんてないのかしらね)
魔物に再会するまでは死なないはずだと、先日までたっぷりあった自信は風前の灯になっていた。
最初、セツナの与える薬が毒なのではないかと疑ったが、飲まないでいると更に悪化するので、多少は効いているらしい。
(まいったな)
ロジリアは、自分の病状について直視せざるを得なかった。
少なくとも、ミガリヤ国王と謁見した頃は、喀血もなかったし、発作が起こる前は予兆もあった。
(せっかく、入国許可がおりたのに。ここで、死んでいる暇なんてないのに……)
けれど、ここまで悪くなると、半年前のように、あっという間に全身の痛みが増すのは目に見えている。
(早く、遠くに……)
気持ちだけは逸るが、まるで体力がついてこない。
不承不承、しばらく休もうと、読みかけの本を閉じて、眉間を揉んでいると、ノックの後に扉が開いた。
「姉さん……起きてる?」
ミッシェルが、室内の調度品に手を触れながら、ロジリアのもとに、やって来た。
隣には、お仕着せのメイド服姿のエレカを伴っている。
いつの間にか、エレカはロジリア担当のメイドとなっていて、ミッシェルとも顔馴染みとなっていた。
「水を貰おうと思って外に出たら、エレカさんがいたんで、頼んじゃった」
「聖女さま。お加減はいかがですか?」
エレカが分かりやすいくらい眉を寄せて、心配そうにしていた。
(優しい子だな……)
彼女の持っている素朴な雰囲気は、どこかミガリヤ風で、ロジリアは懐かしさを感じていた。
だから、つい気が緩んで、本音を漏らしてしまう。
「……どうも、こうもないわ。殿下がしょっちゅう絡んでくるから、更に絶不調だわ」
「絶不調……? 大変じゃないですか!?」
エレカがロジリアの伏せている寝台に、駆け足でやって来た。
彼女は、先日の襲撃について、何も知らない。
城全体に、カナンが箝口令を敷いてしまったので、隣国の聖女さまが体調不良で倒れてしまった……としか聞かされていないらしい。
一応、襲撃寸前まで、ロジリアたちと一緒にいたということで、軽い尋問はあったそうだが、彼女は何も見ていないと、カナンに証言したと話していた。
奇跡を起こす聖女が、普通の人のより病弱で喀血して倒れるなんて、おかしな話だろう。
きっと、エレカだって、ロジリアに対して不審を抱いているだろうに、彼女は今まで、余計なことを一切、尋ねてこなかった。
「ああ、嘘よ。エレカ、私は大丈夫。熱も下がったから、そろそろ床上げができそうなのよ」
「…………姉さんこそ、嘘はいけないよね」
ミッシェルが、あからさまに顔を曇らせている。
「まあ、ほら、私はともかく、問題は殿下よ。また今日も、こんなところで眠ってしまって……」
ロジリアは、すぐ横の棺を指差した。
「寝息が聞こえるね」
ミッシェルが呆れ声で、呟いた。
「うーん、毎回、思うんですが、殿下は本当にここで眠れるんでしょうか?」
エレカが水差しを、手前の円卓の上に置いて、棺の上から呼吸を確認した。
無言で立ち上がってから、一言。
「ちゃんと、眠っていらっしゃるみたいですね」
「………………」
三人とも何とも言えずに、沈黙した。
「サフォリアには、変わった王子様がいらっしゃるのね。驚きだわ」
「やはり、殿下は変わっているのでしょうか?」
エレカが小首をかしげる。
どうやら、彼女は感覚が麻痺してしまっているようだ。
「…………少なくとも、普通ではないでしょうね。私も他人のことは言えないけど」
「殿下は一応、見た目は正常ですけどねえ」
「そう……よね」
ロジリアも、それだけは否定できなかった。
見つめられると、嫌でも顔が赤くなってしまうのは、元々、面食いの性だ。
最悪な自分の習性を、嘆いてはいた。
「次代のサフォリアの王位は、殿下が継ぐのが順当なのでしょうね」
「…………たとえ、ご本人が望んでなくとも?」
「確かに、巷では殿下の叔父君のエヴァン殿下が後継なのではないかという噂もささやかれていますが、でも、国王陛下は、殿下をご指名されていらっしゃいますから」
エレカがきっぱりと言った。
冗談ではないようだ。
「先日、聞いた噂によりますと、国王陛下は王位継承者の証として、セツナ殿下に『聖杯』を持たせているそうです。殿下は、それをわずらわしく思い、城の何処かに隠してしまわれたそうですが……」
「へえ……」
「聖女さまは、ご存知ないのですか?」
「まったく。………でも」
エレカに凝視をされたロジリアは、少ない記憶をたどってみた。
「ああ、でも、そういえば、殿下……あるといえばある……とか言っていたかしら」
「あるといえば、ある? 謎かけですか?」
「どうせ、ないんでしょう」
「いえ! 聖杯は必ずありますよ!」
珍しくエレカが声を荒げたので、姉弟で驚いた。
「どうしたの?」
「エレカさん?」
「あ、いえ。私、創国神話って、結構好きなので……」
エレカは恥ずかしそうに、口を手で押さえた。
「聖杯か……」
それが実在しているのなら、神具のすべてもサフォリアにあるということではないか。
(そんな凄まじい道具があるのに、安置場所も秘密ってね)
結局、セツナは何もかも知らないのでは……と言いかけて、ためらった。
あまり、この国の王子を、国民の前で、侮辱するものではない。
「でも、殿下の人となりはともかく、国王になって、お妃さまに、聡明で積極的な方を迎えたら、この国は安泰なのかもしれないね。ミガリヤは、お妃さまも、どんどん死んでしまうから」
ミッシェルがぽつりと言うと、すかさず、エレカが同調した。
「そうですよね! 強くて、頼りがいのある女性でしたら、殿下をこの棺桶ごと、外に連れ出して下さることでしょう」
「…………大変ね。妃殿下になられる御方に、私、ちょっと、同情するわ」
ロジリアは寝台から、純白の棺に視線を落とす。
(この王子様は、お妃さまになる人にどんな顔をするんだろう?)
きっと、妃となった女性は、この青年の変人ぶりに、最初は戸惑い、呆れて、実家に戻りたくなるかもしれない。
…………でも、もしかしたら?
いつの日か、この王子の良さを理解し、愛する日が来るかもれしない。
彼もまた妃を迎えれば、違う価値観を尊重し、変わっていく可能性があるのだ。
最初は、セツナのことを、史上最悪の変人だと思っていたロジリアだったが、今は違う。
この王子様の不器用な優しさを、多少は理解しているつもりだった。
(…………普通は、行き倒れの自称聖女などを城に留めて介抱などしないし、こんなに親しくしないもの)
ちくりと、胸が痛んだ。
ロジリアは、将来の自分の姿を、想像することすらできない。
(私も、痛い人間だわ)
分かっていても、ここのところ動けない分、暗いことばかり考えしまうのだ。
微笑みながらも、表情が翳ったロジリアに、エレカは別の意味で、気遣ってきた。
「ああ、失礼いたしました。やはり、聖女さまは、結婚は出来ないんですよね?」
「えっ……ああ、そ、そうね」
さすがに、その問いかけは痛かった。
(結婚……か)
暗い未来を考えないよう、自戒した直後だったので、悪意がない分、彼女の一言は、ロジリアの心を確実に抉った。
「神父と同じ扱い……かしら。神様と結婚状態なのよ。……きっと」
こうなったら、適当に話を合わせて、切り抜けるしかなかった。
「姉さんは、男勝りだからね」
ロジリアの心情を慮ったミッシェルが、わざと明るい口調で、話題に乗っかって来た。
「この凶暴な姉さんと、人間の男性が結婚なんて、できるはずがないよ」
「あーっ、酷いわね。ミッシェル。私だって、その気になれば、いくらでも……」
「まず、有り得ないよね」
芝居だと分かっていても、こうも虚仮にされてしまうと、腹立たしく感じてしまう。
ロジリアは、大人げなくむきになった。
「ひどいわね。断言しなくてもいいじゃない。ミッシェルだって、私がいなきゃ、何もできないんだから」
「僕は出来るよ。むしろ、姉さんの方が一人じゃ何もできないじゃないか」
「……出来る?」
売り言葉に買い言葉。
でも、ロジリアは普段絶対に聞くことのないミッシェルの言葉を、心の奥底に刻みつけたくなかった。
「…………貴方を信じてもいいのね?」
「えっ……」
「一人で……出来るのよね?」
真摯に念を押すと、ミッシェルが怯んだ。
(分かっては、いるんだけど)
ミッシェルは欠片も、ロジリアからそんな言葉を導きだすつもりはなかったはずだ。
(でも、もうそろそろ、本当に私はいなくなるから……)
ミッシェルには、ロジリアがいなくなっても、一人で強く生きていって欲しいのだ。
普段、照れくさくて、ちゃんと話すことが出来ない分、ロジリアは真剣になってしまう。
「姉さん……?」
緊張感を漂わせながら、目を合わせていると、エレカがくすくすと笑っていた。
「仲が良いんですね?」
「…………今、軽く喧嘩していたんだけど?」
「いいえ。素敵な家族じゃないですか。聖女さまと、ミッシェル君」
そして、水差しの水をコップに移すと、エレカはロジリアに差し出してきた。
「私にも、兄がいるので、とても懐かしく思います」
昂ぶった心を鎮めながら、ロジリアは彼女からコップを受け取った。
「…………そう……なんだ。じゃあ、兄妹で城勤めってことなのかしら?」
「いいえ。兄は実家に……。私は文字が読めたので、たまたまこの城塞の女中として雇ってもらうことが出来たんです。本の虫の私とは違って、兄は身体を動かすことが好きなんです。」
「じゃあ、エレカさんも、この城塞で王子に仕え始めたのは、最近なんだね?」
今までの緊張感を振り払って、ミッシェルも自然を装った。
「ええ。そうなんですよ。まだ新米で、よく分からないのに、こんなふうに、殿下のご尊顔を拝めるほど、近くでお仕えすることができるなんて、夢のまた夢なんです」
「夢……ねえ」
エレカは一人、瞳を輝かせている。
夢を見たまま、目覚めないのは、その王子の方なのだが……。
「…………どうやら、朝が来たようだな」
よいしょ……と、謎の掛け声と共に、重々しい蓋を自ら取って、金髪の美青年がむっくりと身体を起こした。
「殿下……お目覚めですか?」
エレカが慇懃に、しかし戸惑いを隠せない丁寧語で接した。
「…………朝じゃなくて、夜ですね」
ロジリアが窓の外の星空を確認してから、返す。
そもそも、セツナがいつ起きているのか、誰も知らないのだ。
「…………ん? そうか。じゃあ、もう一眠りした方が良さそうだな」
寝ぼけ眼で、再び棺桶に身を沈めようとするセツナを、全員が口を噤んで、見守ったのだった。