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◇◇◇
彼女が眠りにつくのを待って、セツナは静かに棺から顔を出した。
やけに温かいと思っていたら、夕陽が棺桶に直に当たっていたらしい。
(…………もう、夕方か)
目が眩むほどの残照は、客室の窓から部屋全体を橙色に染め上げ、寝台で目を閉じているロジリアの赤髪を際立たせていた。
暗がりから、明かりのある世界に突然顔を出すと、目が痛い。
何も聞かず、何も知らず……暗い世界にいることに、セツナはあまりにも慣れてしまったようだ。
「…………殿下」
ノックもなしに、カナンが入室してきた。
この男が間もなく、ここにやって来ることは、セツナにも読めていた。
たった今、彼女の弟に用件を言いつけて、部屋から出したのはカナンであった。
セツナに用があるのだろう。
室内の明度に、無機質な灰青色の瞳が、一瞬だけ眇められる。
その間隙を利用して、セツナは独り言のように呟いた。
「薬が身体に合ったみたいで、良かった。咳止めと、痛み止めと、眠り薬を配合した薬を、至急、医者に手配させたのだ」
ロジリアを起こさないように、セツナは棺桶の中で胡坐をかいた。
いつも一方的にしか用件を話さないカナンも今回ばかりは、沈んだ表情で喋った。
「聞きました。今まで、どうして生きていたのか分からないほど、深刻なのだとか……。とっくに、死んでいてもおかしくない病状とのことですね」
「この者は、生きているぞ。手を触れたら、温かったし、まだ私の手を振りほどこうとする余裕があった」
「殿下……それを普通に年頃の娘にしたら、嫌がられるどころか、殴られてもおかしくないですよ。ある意味、魔物以上に悪です」
「そうなのか?」
「そういうものですね」
苦労を一身に背負いこんだような溜息を、カナンは吐き捨てた。
腹は立つが、口で敵わないことは明らかなので、セツナは不機嫌なまま、話題を変えた。
「……先ほど、彼女から金色の瞳の魔物について、話を聞いたぞ」
「………………」
たった、その一言で、カナンの顔色はみるみる変わった。
彼女を城に留め置くことにしたのは、金色の瞳をセツナが目撃していたからだ。
魔物……という……到底、信じがたい話も、普通に、受け入れてしまうことができるのは、セツナとカナンにとって、その世界が身近にあったからに他ならない。
「その……全身黒ずくめの一見すると男性のような……魔物だったそうだ」
「…………そうですか」
「……しかも、自ら魔物と名乗ったらしい。嗤えるな。サフォリアにとって、金色の瞳は『魔物』だが、それは魔物自身が自分は神より、魔物の方が性に合うからと、創国神話をつくりかえたせいだという話を聞いたことがある」
「はぐれ者を自認するあの『魔物』なら、わざと手の込んだことをするでしょうね」
とにかく、面倒事になっていることは、事実だった。
今、この時分に横槍を入れてくるミガリヤ国王の意図も分からない。
「今、ロジリアと魔物が対峙したら、どうなると思う?」
「間違いなく、この方は問答無用で魔物に向かっていくでしょう」
「彼女の金色の瞳の力の根源は、間違いなくその魔物だ。その魔物相手に力は使えやしない。だから、隠し持った短剣で切りかかるつもりなんだろうが……」
「どうやったところで、勝てるわけがありません。そもそも、すべてがおかしなことになっています」
「それをこの娘に言い聞かせたところで、すんなり納得すると思うか?」
「………………しないでしょうね」
二人して、黙った。
セツナは見ていた。
……あの時、瞳の中にあった揺らぎと怯え。
彼女とて、そんなことは百も承知なのだ。
それでも、生きる目的が『それ』となってしまった以上、他人が何を話したところで、届きやしないだろう。
ロジリアは、入国さえできれば……という偏った考えに支配されている。
「どうにも、病人になると、視野が狭くなってしまうようだな」
「それを殿下が仰いますか?」
「まあ……私も似たようなものか」
セツナとて、自覚はある。
もっとも、自分の場合は、わざとそうしているということだろう。
気を抜いたら、他人の激情に飲まれてしまうから……。
「この者が動けるようになり次第、私は城を出るぞ」
「…………はっ?」
さすがのカナンも、驚愕を隠さなかった。
「決めた」
しかし、セツナは曲げない。
心の中では、もっと早い段階で決定していたことだった。
「待ってください。ご命令通り、殿下を襲った刺客をまだ確保していません。今、城を出たら?」
「別に構わない。誘い出すのも一興だろう。犯人の一人の目星はついている」
「…………やはり……ですか?」
カナンは、頭を抱えた。
人事採用は、彼の仕事の一端ではあるが『あの者』が採用されたのは、ヨハンが副官だった時代だ。
彼にとっても想定外であることは、セツナにもよく分かっていた。
「……ならば、殿下。今、確保してやるのも犯人のためだと思いますが?」
「犯人の背後に関しては、確信がないからな。誘き寄せてみるのも、一興だろう?」
「殿下は、ミガリヤ国王を……疑っているのですか?」
カナンが刃のような眼光で、セツナを見据える。
セツナはその視線をさらりとかわして、安閑と答えた。
「…………むしろ、ミガリヤ国王だけであれば、良いのだがな」
「では、やはり……?」
「面倒極まりないことを、私は想定している」
「………………なるほど」
たったその一言で、セツナの言いたいことを察してしまう能力を持っているのだから、やはりカナンはヨハンが自分の後釜にと用意しただけのことはあるのだろう。
……でも、今はまだセツナはそれを口にして、決定的にしたくなかった。
いつものように、黙り込んでしまうと、カナンもそれ以上は、セツナから引き出せないと観念したのか、そそくさと話題を元に戻した。
「しかし……ですね、殿下。重症患者を外に出すのも、人道的に、いかがなものかと……?」
「彼女はサフォリアに入国したがっているのだ。望み通りにしてやっても良いではないか。魔物に翻弄されて、こんな目に遭っているのだ。面倒は見てやらないと……」
……と、そこまで語ってから、セツナは自分の言動に違和感を覚えた。
(面倒を見る? 私が誰かの面倒を……か?)
今まで一度とて、そんなことをセツナは考えたこともなかった。
困惑していると、カナンが淡々と持論を述べていた。
「殿下にしては、深入りしすぎだと思います。この者は、いずれこの世からいなくなる人間です。それを見越して、ここに来るよう促されたと考えるべきなのでは? ……たとえ、どのような結果になろうとも、適切な治療と療養できる環境を与えることが、こちらのできる唯一のことだと思いますが?」
そうだ。……正論ごもっともだ。
セツナとて、それこそが礼儀だと思っていた。
だが、この城にいたら、早い段階で、よからぬ展開を迎えることにもなりかねないのだ。
「どうしてもな。……私はこの世から、彼女がいなくなるような気がしないのだ」
「要するに、殿下自身がすべてから、逃げたいだけなのでは?」
「それの……どこがいけないんだ?」
言い訳で繕えないから、開き直ってみた。
出来れば、永遠に逃げていたい。
ずっと温かな棺桶の中で、セツナはぬくぬくとしていたかった。
「承知いたしました。しょせん、私は殿下の侍従ですから。貴方さまのご意向に従いましょう」
やる気なさげに、カナンが頭を下げた。
だが、日頃の憂さ晴らしとばかりに、カナンはセツナに冷や水を浴びせることを忘れてはいなかった。
「しかし、いつまでも、逃げ続けることは不可能なんですよ。永遠などというものは、我々人間にはないものなんです。…………殿下」




