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◆◆◆
「……あー。ありがちな神話だこと」
『創国神話』を、暇つぶしに読もうと思ったのがいけなかった。
とても頭が疲れる旧字体で、ロジリアの寿命を奪うような冗長な文章であった。
独り言でも、嫌味を言いたくなったのは、寝たきりが長いと、否が応でも、ミガリヤの療養所時代を思い出すからだ。
(……ああ、嫌だ)
――あの時。
刺客を追い払った際、吐血したロジリアは混濁する意識のなかで、本を数冊拝借し、ミッシェルに託していた。
身体の自由が利かないのなら、頭を動かすしかない……と、倒れた時から、思ってはいたものの、ここまで回復するのも、大変な時間がかかってしまった。
(もう十日以上は、城に泊まっているわよね?)
数日間、咳と吐き気に悩まされ、医者の処方薬を倍以上飲んで、ようやく読書できるまでに落ち着いたのは、マシな方なのかもしれない……。
……でも。
本当に、もどかしくて仕方ない。
以前は、ここまでひどくなかったのだ。
旧字体とはいえ、集中して文章を読むことすらできない。
いよいよ、自分は駄目かもしれないと思うほどに、ロジリアは焦っていた。
(一体、私は何をしにここに来たのよ)
なんだか、次第に留め置いてくれているサフォリアに対しても、申し訳なくなっていた。
(どうしよう? さすがにお医者さんのお金と薬代と、宿泊費くらい払わないと、強行突破なんて出来やしないわよね)
何もできないから、悶々と悩むくらいしかできない。
「あっ、姉さん、起きてた」
ミッシェルはロジリアの独り言を聞いたのだろう。静かに室内に入ってきた。いつの間にか隣室も、ミッシェルの待機部屋になっていたのだ。
ロジリアはとっさに拝借した本を隠したが、ミッシェルなら焦る必要もなかったかもしれない。
「もう大丈夫?」
「平気よ。ちゃんと喋れているじゃない」
「そっか。今回は、長いこと話せる状況じゃなかったからさ、心配したんだよ。……それならいいんだ」
にっこりと笑ったミッシェルは、おもいっきり深呼吸をした。
(―――あ、これは)
―――来る。
直感して、ロジリアは急いで耳を塞いだが、手遅れだった。
「いい加減にしてよね! 姉さん。本当に、あの後、大変だったんだから!」
すぐ横で怒鳴られて、くらくら目が回った。
しかし、もっともな話だ。
反論の余地もない。
ロジリアが、みんなに迷惑をかけているのだ。
「ごめんなさいって。私だって悪かったって、思っているわよ。貴方にも、この城の皆々さまにも……」
唇を尖らせて、渋々頭を下げるものの、ミッシェルには届いていないようだった。
「本当にそう思ってる? 城中大騒ぎだったんだよ。床は血だらけで、お医者様も呼んで。姉さんは鎮静剤打たれてぼーっとしてたから知らないだろうけど、とてつもなく、すごいことになってたんだからね!」
「…………すこーしだけ、覚えているような気もするわ」
「ここまで来て僕を撒こうなんて、無駄な体力を使うから、こんなことになったんだ」
顔を膨らませているミッシェルの機嫌はこのままだと直りそうもない。
「えーっと」
ロジリアは、わざとらしく、話題を変えるしかなかった。
「でも、どうして、私たち手厚く介抱されてるのかしら? 」
「あの、棺桶の……殿下が強硬に命じたんだよ。姉さんは自分の命の恩人なのだから、丁重に扱えって。それに、侍女のエレカさんも、姉さんを看病してくれたんだ」
「ぶれのない変人たちね。殿下を襲った犯人も見つかっていないみたいなのに」
「でも、殿下はご自分のことでも大変なのに、僕らの事情を聞くって仰っていたよ。破格の待遇じゃないか。まあ……もちろん、僕の独断であいつのことを喋りはしないけどさ」
「殿下は、棺桶の中でひきこもってるだけだから、暇なのよ」
「酷いなあ。姉さんの方こそ、命の恩人に対して、それはないんじないの?」
「……それは」
ミッシェルの一言は、切れ味抜群のナイフだった。
(分かっているわよ……)
セツナは、悪い人間ではない。
だいぶ変わっているが、融通の利かない頭でっかちの為政者とは違う。
朦朧としてはいたけれど、彼がロジリアの身体のことに心を砕いていてくれたことは、ちゃんと覚えているのだ。
それでも、意地になってしまうのは、ロジリアに照れがあるからだ。
彼には、喀血したところを見られてしまったし、酷い咳が続くロジリアの背中を、擦ってもらったりもした。
ロジリアの鮮血は、床だけではなく、きっとセツナの白服をも汚してしまったに違いない。
(もう、お詫びの仕様もないというか……ね)
合わせる顔がないというのは、まさにこのことだった。
「…………まあ。その……床の掃除代金くらいは払っていくつもりだけど」
「まったく、姉さんは、意地っ張りなんだから。いいかい? 焦らず、ゆっくり、慎重にね。聖女なんて肩書きをもらっちゃった分、姉さんがおかしなことをしたら、サフォリアとミガリヤが全面戦争になっちゃうかもしれないんだからね?」
「まさか、そんなこと……」
「ない……とは言い切れないよね? 魔物だって、存在する世の中なんだから……。だから、姉さんは聖女なんて、物騒なものに立候補しないで、ちゃんと療養していれば良かったんだ」
ミッシェルは、折に触れて、言葉の中に皮肉を捻じ込んでくる。
元々、この弟はロジリアが『聖女』を名乗ることに、大反対だった。
だが、ミガリヤ国内を自由に行き来するための通行手形の取得が面倒だったロジリアは、金色の瞳を利用して、国王に取り入り、独断で聖女となってしまったのだ。
……まあ、先走ってしまったことは、否定できない。
(考えなしよね。確かに……)
ミッシェルの怒りが激しいのも、うなずける。
「一人になろうとするのは姉さんの悪い癖だ。僕の目は、姉さんのせいじゃないんだからね! 変に姉の顔をするのは、よしてよね」
「ミッシェル!」
脅しのつもりで、怒鳴ってみたが、ミッシェルに揺らぎはなかった。
こうなると、ミッシェルの方が強いのだ。
自分に非があると、自覚しているから、ロジリアは黙り込むしかない。
――と、そこに。
「…………あれ?」
ミッシェルの背後に、真っ白な壁が立っているように見えた。
錯覚かと、目を凝らせば、どんどん迫って来ているような勢いがある。
とうとう、目まで病んでしまったのか?
「どうしたの? 姉さん」
ミッシェルが、きょとんとしていた。
(…………私、おかしくなっちゃったの)
瞬きを繰り返し、再びそれを見上げて、そうして、やっとロジリアは、それが壁ではないという認識に至った。
……そうだ。
それは、壁ではなかったのだ。
「えー……と。殿下はどうして、いつも棺を持ってるんですか?」
憤然と問いかけると、ロジリアの視線を追っていたミッシェルが、ぎょっと後ろに仰け反った。
彼は今日も、気持ちが良いくらい、真っ白な外套と下穿き姿である。
棺と白壁と一体化できる素晴らしい格好だった。
「………………バレてしまったか」
「バレましたね」
「何となく、邪魔しては悪い雰囲気だったからな。ここで私は待っていたのだ」
「……待たなくて、良かったんですけど」
大きな棺を持って、重病人のところに来る時点で、かなり深刻な嫌がらせなのだが、彼にはまるで自覚がないらしい。
(いずれ、私もあの中に入るってことかしら?)
派手に大きな十字のついている棺桶を前面に出されると、自分も、今日か明日の命と思えてくるから、悲しかった。
「ほら、棺二号より、こちらの棺一号の方が役に立つのだ。お前も知っているだろう。この棺?」
「最初に、殿下がこもっていた棺ですか?」
「ああ、正解だ。私は、この棺を何より気に入っているのだ。機能性抜群でな」
「それは、とても、心強いですね」
絶対に、棺の使用方法を間違えている。
ロジリアは、ミッシェルに溜息で訴えた。
こんな奴に事情を話せるわけがないだろうと、身体で伝えたつもりだった。
そして、そうと察したミッシェルは、一瞬、ばつが悪そうに肩を竦めたのだが……
「あー……。では、僕、ちょっと新しい水を井戸から持ってきますね」
断るや否や、ミッシェルは扉の方に向かって、いそいそと動き出したのだった。
「えっ? ちょっ、ちょっと、ミッシェル?」
「あっ、二人きりで、どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいね。ごゆっくり」
「嘘でしょ!?」
まるで、目が見えないとは思えないくらい、軽やかな動きを見せて、ミッシェルは外に飛び出て行ってしまった。
(そんな……。困るわよ)
――絶対に、嫌がらせだ。
ミッシェルは、自分を一人置き去りにしようとしたロジリアに、復讐を遂げたのだ。