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「……姉さんくらいだよ。僕に絵の才能があるって言ってくれるのは……」
実家から捨てられるようにして、療養所に移されたロジリアに、ミッシェルはそう言って、足しげく通ってくれた。
正直、ロジリアは、ミッシェルが大嫌いだった。
ロジリアの病は、伝染するものではない。
それでも、両親から疎まれて、こんな隔離施設に追いやられてしまったのは、この弟がヒースロッド家の次期当主として、生まれたからだろうと思っていた。
……だから、別にロジリアは、ミッシェルの描いた絵を、誉めたわけではなかった。
そんな気弱な性格では、男爵家の当主は務まらないから、家を出て絵でも描いていたらどうかと、挑発したつもりでいた。
それなのに、ミッシェルはロジリアが自分のことを認めてくれたのだと、馬鹿正直に喜んだ。
よくよく話を聞いてみれば、ミッシェルもまたヒースロッド家の雰囲気がずっと嫌いだったらしい。
たとえ、腹違いであっても、たった二人の姉弟だから、仲良くしよう……と。
(どうせ、仲良くしたところで、貴方は親に叱られて、私は死ぬだけじゃない……)
お互いにとって、良からぬ結果になることが分かるのに、仲良くすることに、なんの価値があるのだろう。
……きっと、ロジリアは長く生きられない。
その冷めきった諦念と観察眼がロジリアから、素直さを遠ざけた。
毎日嫌でも目にする、窓の外の変わり映えのない景色。
療養所の四角い建物を取り囲むように、鬱蒼とした木々が茂っていた。
まるで、現世とあの世との境界線なのかと、嘲笑したくなるくらい、木々の向こうと、こちらとでは流れている空気の質が違っているようで、ロジリアはいつもカーテンを閉め切っていた。
(こんな暗い所に通っていたら、ミッシェルの調子が悪くなってしまうんじゃないの?)
本人には優しくなれないくせに、ロジリアは、それを一番恐れていた。
咳が続いて、全身が痛くて、そろそろ本当にもう駄目かと思った時に、二度とここには来ないでほしいと、強くミッシェルに言い渡した。
だけど、ミッシェルは療養所に来ることをやめなかった。
…………あの日だって。
「火事だよ! 姉さん! 逃げて!」
硬い寝台に、物のように横たわっていたロジリアは、その大声で目を覚ましたのだった。
(なに?)
ありったけの力で見開いた瞳に映った世界は、鮮烈な赤だった。
今まで黒い異物のようにしか認識できなかった木々が、赤い灰になって、地面に横倒しになっていった。
このままだと、療養所に火の粉が移るのも時間の問題だろう。
(……というより、もうすでに延焼しているんじゃ?)
現実と実感できずに、他人事のように考えていたら、一生懸命、ミッシェルがロジリアを担ごうとしていた。
「何やっているのよ。貴方は、逃げなさいよ」
「姉さんを、残していけるはずがないだろう!」
「馬鹿ね。私は放っておいても死ぬんだから……」
「たとえ、そうだったとしても……。こんなところで、死なせるものか」
折れそうな細い手足で、必死にロジリアを抱えようとしているミッシェルが可哀想だった。
離して……と抵抗したところで、ロジリアには振り払う体力もない。
そのうちに、灰色の煙が充満し始めた。
このままでは、二人して焼死してしまう……。
(誰か……! せめて、ミッシェルだけでも、助けて……!)
それだけを願った。
一心に……。
そんな時だった。
そいつが颯爽と現れたのは……。
くたびれた長ったらしい外套に、鳥の巣のようにふわふわの黒髪の男は、見たこともない、金色の瞳で、こちらを睥睨していた。
「おやおや。まだ人がいたのですか」
真っ赤な炎を背景に、男は毒々しい笑みを浮かべていた。
がらがらと、柱が真上から崩れても、男は傷一つ負わない。
(人ではない……)
…………逃げないと。
ここから、一刻も早く……。
ロジリアの本能が、そう告げていた。
けれど、逃げようにも、身じろぎ一つできやしなかった。
そして、ロジリアが抱く緊張感とは真逆に、その男は間延びした声音で言い放ったのだった。
「こんばんは。お嬢さん、お坊ちゃん。ああ、驚かないでくださいね。私は不審な者ではありません、ただの魔物ですから」
ただの魔物ほど、不審なものはない。
…………それが、自称魔物とロジリアとの出会いだった。