7話
夕暮れに降り出した雨はすぐに嵐になって、その雨粒が激しく窓を叩いていました。
アルディス様の別荘に置いてきてしまった私の家族は無事でしょうか。元々野良で育った子達なので、生きる分には大丈夫だと思いたいのですが。
今、私はディストラー家の離れに閉じ込められています。あれから無理やりこの屋敷に連れてこられ、後宮に上がる日までここで暮らすのだとディストラー夫妻に言い渡されたのです。
はじめは私を娘として丁重に扱ってくれていた夫妻も、私のエウローニャの加護の影響が出たのか、すぐに私を気味悪がるようになりました。
「おお、なんて恐ろしい子……! この子がそばにいるだけで、変な夢を見てしまうわ!」
「屋敷の者達がざわついている。クレメンティア、悪いがおまえには離れに移動してもらうぞ。なぁに、後宮に入れば、贅沢ができる。陛下も聖女であるおまえを娶れば運気が変わるはずだと、期待しておいでだ」
ああ、何て身勝手な言い分なのでしょう。
エウローニャの加護があるからと私を片田舎の修道院に捨て。
なのにまた娘である私を都合よく呼び戻し、国王に差し出そうとする。
戦争が続き多くの民が疲弊しているというのに、自分達の身の栄達のことしか考えてない。
これが私の実の両親だというのだから、泣けてきます。
こんなことならば、ずっと会わないほうが良かった。
一人ぼっちのほうがマシだった。
そんなことを思ってしまうくらいに、ディストラー夫妻は私にとっては赤の他人でした。
「アルディス様……」
夜の帳が落ちた薄暗い室内で、私はキャンディの小瓶を抱きしめながら、恋い慕うその人の名を呟きます。
私が持ち出せたのは、この小瓶一つしかありませんでした。あれから時が経ち、キャンディはすっかり干からびてしまっています。それでもアルディス様からこれを頂いた時の気持ちは、今もキラキラと輝いていました。
ずっとあのまま修道院と言う箱庭に閉じこもっていれば、少なくとも国王に無理やり嫁がされる……などと言う事態には陥らなかったでしょう。
ですが私は、アルディス様に出会えてよかったと……心から思っているのです。
アルディス様に出会えない平穏より、アルディス様に出会えた苦境を、私は選びます。
だってこれは私の人生ですから。
どんな選択をしたとしても後悔したくない。
アルディス様に出会うまで、私は知らなかったのです。
自分の両足で歩く喜びを。
自分の意志で力強く立つ誇らしさを。
修道院で暮らし続けていたら私はいつまでも何も知らぬお人形のまま、生を終えてしまうところでした。
「でもそろそろ潮時なのかもしれませんね……」
私は虚空を見つめながら、自嘲気味に呟きます。
噂に尾鰭背鰭がついて、私はいつの間にか聖女扱いされていました。ですが当然聖女なんかではありません。『淫夢』などと言ういかがわしい加護を受けただけの女なのですから。
けれどそんな胡散臭い噂を鵜呑みにしてしまうほど、国王陛下は切羽詰まっているのでしょうか。私を娶ったところで現在の状況が好転するはずもありません。
いかに強国のノグダリアと言えども、四方八方の国に喧嘩を売っておいて、ただで済むわけがないからです。
それでも大陸覇権という夢から、国王が醒めることはありません。おそらく自分の身が破滅するまで、狂気に満ちた夢を見続けるのでしょう。
そして私はそんな国王の妻となる。
吐き気がします。
誰かの妻になるということの本当の意味を、私もさすがに薄々理解していました。
だって私もアルディス様を対象とした、淫夢を見ていましたから。
(アルディス様以外の男の人に触れられるなんて……いや。親子ほど年の違う王に、私は何をされてしまうんでしょう? 怖い……怖い……。それくらいならばいっそ――)
私は立ち上がり、部屋の隅に用意された鏡台に近づきました。中には化粧道具が入れられています。当然髪を切るための鋏も。
私は鋏を取り出しました。刃の切っ先は鋭く、これなら自ら命を絶つ凶器として充分役に立ってくれそうです。
もちろん死にたくはありません。
ですが死よりも辛い辱めを受けるくらいならば、やはりここで死んでしまったほうが……。
私は悩みました。
おそらく数日中に、この身は後宮へと送られるでしょう。後宮に入ってしまえば自ら命を絶つことさえ不可能になる。
ならば監視の緩い今ならば……。
今ならば清い体のまま死ねるかもしれない。
それはとても甘美で、危険な誘惑でした。
このままアルディス様に一生会えないなら、生きている意味などありません。
私はごくりとつばを飲み込んで、震えながら鋏の尖端を自分の喉元に宛がいました。それでもやはり自分の喉を突く勇気が出なくて、長い時間躊躇っていると――
――こつん。
不意に窓の外から、小石がぶつかるような音がしました。
雨粒が当たっているのかと、最初は思いましたが、
――こつん、こつん、こつん。
まるで気づいてくれとでも言いたげに、一定のリズムで音が響きます。
私は鋏を鏡台に置き、さんざん悩んだ挙句、慎重に窓を開けました。
すると突然一つの影が、すごい速さで飛び込んできたのです。
「きゃっ!」
「しっ! 声を立てないで。私です、エリス殿」
「!」
全身びしょ濡れで私の部屋に入ってきたのは――なんとあれほど会いたいと思っていたアルディス様、その人でした。
私は目を丸くし、全身を硬直させます。まさかアルディス様がここまでやってきてくれるとは、思っていなかったからです。
「エリス殿、無事ですか? どうやらまだ無事のようですね。良かった……」
「そういうアルディス様こそ、どうして……」
問いながらも、私の双眸には勝手に涙が溢れていました。
このディストラー家の離れにも、最低限の警護の者がついております。私が逃げ出さないための処置なのでしょう。つまりここに来るためには、多少の危険をかいくぐる必要があるのです。
だからさすがのアルディス様でも、ここまでやってくるのは無理だろう……と予想していました。アルディス様がそこまでの危険を冒す必要性も、ありませんから。
ですが実際は、アルディス様はこうして私に会いに来てくださいました。
もうそれだけで十分のような気がします。
気づけば目尻にたまっていた涙は勝手に頬を伝い、私の顎先からぽたぽたと床へ落ちていきました。
「エリス殿、どれだけ不安で怖かったでしょう。迎えに来るのが遅くなってしまい、申し訳ありません」
「そんなことありません。こうして来てくれただけで私は……。――え? 迎え?」
さらにアルディス様の口からは、予想外の言葉が飛び出しました。
ぱちぱちと瞬きする私の両肩に手をかけ、アルディス様はある提案をなさいます。
「あまり時間はありません。よく聞いてください。表の見張りは私と私の部下で倒しました。これだけ激しい嵐ですから、多少の物音は風雨がかき消してくれるでしょう。逃げるなら今しかありません」
「逃げ、る……」
「ええ、逃げる」
アルディス様の声はとても力強く、迷いないものでした。
先日の弱かったお姿など、見る影もありません。
「エリス殿、私はこれから部下数人と共に、このノグダリアから西のタザシーナへと亡命します」
「亡命!?」
「しっ!」
アルディス様は唇に人差し指を添えて、声を潜めました。私も慌てて自分の口を両手で押さえます。
西のタザシーナと言えば、ここからだいぶ離れた辺境の国です。いわゆる『加護なき土地』として、ノグダリアでは蔑視されている土地でもあります。
「亡命……。アルディス様は、この国をお捨てになるのですか?」
「致し方ありません。できることならこの国に最後まで尽くしたかった。可能な限り足搔きたかった。ですが、それももう……無理だと悟りました」
「……どうして?」
私は不思議に思いました。
あれほどこの国の未来を憂いていたアルディス様が、その志を翻し国を捨てるなんてよっぽどのことがあったに違いません。
やはり兄君や弟君の死、大切な部下を守れなかったことを悔いているのでしょうか?
ですがアルディス様のお答えは、私の予想をはるかに上回っていました。
「当然でしょう、兄や弟、部下だけでなく、あなたまで私から取り上げようとする国王陛下には、もう仕えることなどできません」
「……え」
「あなたが王の側妃として後宮に上がると聞いて、すぐに決心しました。ディストラー家からあなたを連れ去り、共に逃げよう……と」
「――」
ぽたぽたと、アルディス様の金の髪から雨粒が滴ります。その雨粒が落ちる様にさえ、私の視線は奪われました。
今………今アルディス様はなんと仰ったのでしょう?
これは私にとって都合のいい夢?
それとも本物の幻でしょうか?
さっきから声帯がすくんで、うまく声が出せません。
「……エリス殿」
そうして私の心臓がバクバクと爆発しそうな間も、アルディス様は私の髪に手を差し込み、愛しそうに梳りました。
その仕草があまりに艶っぽくって、私はパニック寸前です。
「ア、アルディスさ、ま……」
「突然のことで驚きましたか? ですがあなたが悪いのです。最初は逃がしてやろうと思っていました。あなたが私に惹かれるのは、私という男しか知らないからだ……と。でももう無理です。エリス殿、あなたの言葉が私に火をつけたのです」
「――」
アルディス様は私の手を取られ、それを自分の心臓付近へと導きました。掌からは、どくどくとアルディス様の速い鼓動が伝わってきます。
もしかしたら私と同じように、アルディス様もときめいていらっしゃるのかしら?
そう思うと、さらに気恥ずかしくなり、私の顔は真っ赤になりました。
グイッと強く手を引き寄せられれば、私はアルディス様の腕の中に難なく囚われてしまいます。
「――エリス殿」
「……はい」
「愛しています」
次の瞬間には、閉じられたアルディス様の長いまつ毛が目の前にありました。
ゆっくりと押し付けられる柔らかな唇の感触に、私は小さく喉を鳴らします。
息継ぎすら上手く出来ずに口を開けば、その吐息すら己のものだと誇示するかのように、また激しく唇を奪われてしまう。
いつの間にか激しい嵐の音など、私の耳には聞こえなくなっていました。