6話
「……だめだ、だめだ、だめだ、こんなことはいけない。エリス殿、男相手にこのようなことをしてはいけませんっ」
アルディス様の切羽詰まった声に、私は狼狽えてしまいました。
立ち上がって私から距離を取ろうとするその態度を見ていると、ひどく胸が痛みます。
「も、申し訳ございません、私としたことが出過ぎた真似を……」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて、あなたの気遣いは嬉しいのです。ありがたいと思うのです。ですがこんな風に……男に触れてはいけない。私に触れてはいけません」
「……え?」
「エリス殿、あなたは男がどれほど危険か知らなさすぎる」
「………」
何かに怯えるようなアルディス様の態度に、私は首を傾げました。
危険? 一体何が危険だというのでしょう?
私にとってアルディス様が危険だったことなど、ただの一度もありません。
そう恐る恐る申し上げると、アルディス様はまた顔を歪め、さらに私から距離を置かれました。
「エリス殿、穢れを知らぬのはあなたの美徳です。ですがあなたが考える以上に男という生き物はずっと物欲的で、愚かなのです。このようなことは心から気を許した相手限定ですべきです」
「私が最も気を許しているのはアルディス様、あなたです」
「――」
そう透かさず答えると、アルディス様の苦悩がさらに深まったようでした。
私はもしかして答えを間違ってしまったのでしょうか。だけど自分に嘘は吐けません。気づけば私は少し意地になって、次のようなことを口にしていました。
「私、アルディス様が好きです。お慕いしています。だからアルディス様の悲しみや苦しみを少しでもお慰めしたい。そう思うのはいけないことなのでしょうか?」
「――」
それは理性や嘘で歪められていない部分が言わせた、何の考えもなしに出た私の本音でした。もちろんその後の事なんて考えていませんでしたから、収拾のつけようなどあるはずがありません。
「あ………っ」
「……………」
気づいた時にはもう手遅れでした。自分の口を慌てて両手で抑えても、一度口に出た言葉は返ってきません。
私は顔から火を噴きました。なんて最悪のタイミングで、自分の気持ちを告げてしまったのでしょう。アルディス様はご家族や部下の皆さんを亡くして、人生最悪の悲しみの中にあるというのに。
「も、申し訳ありません、今の言葉は忘れてくださいっ」
「………」
「私ごとき、何の身分もない女がアルディス様を……なんて、身の程知らずもいいところでした」
「………」
私は深く深く頭を垂れ、自分の失言を謝罪しました。
すると視線の先、アルディス様の片足が私に近づこうとし、だけどすぐにまた後退する様子が見て取れます。
「エリス殿……」
「は、はい……」
「申し訳ない、ガスクールの加護を以てしても、あなたの言葉は今の私には受け止めきれません」
「す、すいません……」
私は泣きたい気持ちで頭を下げ続けました。
アルディス様を困らせてしまっている。まっすぐにその目を見返す勇気など、もうあるはずがありません
室内には気まずい空気が延々と流れ、まるで時が止まってしまったような錯覚を覚えました。
「申し訳ない、今日は私はこれで失礼させて頂きます……」
「は、はい……」
「これ以上ここにいると、私は我を失って、あなたを壊してしまいそうです。それだけは是が非でも避けたい……」
「……え?」
アルディス様は踵を返すと、私から遠ざかって行かれます。
ですが先ほどまでの悲壮な表情は、少し和らいでおいででした。若干、視点が定まっていない感じはしますが。
「エリス殿、私に暫しの猶予を下さい。私がもう少し冷静になれるまで……待って頂きたいのです」
「わ、わかりました」
「……ありがとう。あなたの恩情に感謝します」
アルディス様はそうほんの少し微笑むと、私の前から去って行かれました。
私は玄関先まで出て、その後ろ姿をいつまでもいつまでも見送り続けます。
その時にふと頭に浮かんだのは、素朴な疑問。
……何なのかしら?
私の気持ちが一方通行なのは、わかっている。
それなのに一体何を待ってくれと、アルディス様は仰ってるのかしら?
アルディス様のお姿が見えなくなった後も、私の脳内はひどく混乱していました。
アルディス様が無事戦地からお帰りになった喜びと、アルディス様の悲しみを知った苦しさと。
さらに思いがけなく自分の気持ちを告げることになってしまった不甲斐なさと。
様々な感情が毛糸玉のように絡み合い、もつれあい、思考の迷路に入り込んでしまいました。
それでも待てと言われれば、私にできるのは待つことだけです。
少なくともそう約束したからには、もう一度アルディス様とはお会いできるはず。
そう自分に言い聞かせ、私はアルディス様の次の訪れを今か今かと心待ちにすることになりました。
ですが――
アルディス様が訪れた数日後、招かれざる客がやってきました。
それはある壮年のご夫婦です。
ディストラーと名乗る男爵と奥方様。二人は玄関先で私の姿を見るなり、こう叫んだのです。
「おお、クレメンティア! 今まで一人にしてすまなかった。おまえが救国の聖女に成長するなんて、生まれた時は思いもしなかったのだよ! 愚かな父を許してくれるかい?」
「ごめんなさい、クレメンティア、私の可愛い娘! でももう何も心配ないわ。実の母親とこうして再会できたのですからね!」
お二人は大仰に泣き叫び、私のことを『クレメンティア』と聞いたこともない名前で呼びました。
一体何なのでしょう? 私の父と母を名乗るこの方々とは、一度も面識はありません。
ですが二人は私を苦しいくらいに抱きしめ、「会いたかった、ずっと会いたかった!」とわざとらしく連呼されるのです。
まさか……。
まさかこのご夫婦が、私の実の両親なのでしょうか?
わかりません。
わかりたくもありません。
だって私はアルディス様にお会いするまで、一人ぼっちで生きてきました。
どこかにいるだろう両親に会いたいと思った時も、そばには誰もいなかった。
だから今更突然目の前に現れて、おまえの両親だと言われても俄かには信じられません。
よしんば、本当に私の両親だったとしても、何の感慨もありません。
私にとって初めて目にする両親は、見も知らぬ異邦人と同じでした。
寂しい時にずっとそばにいてくれた犬や猫達のほうが、私にとってはよっぽど身近な存在です。
しかし私の理解が全く追いつかない間に、ディストラー男爵夫妻は、どんどん勝手に話を進めていってしまいまいます。
「さぁさ、こんな所は引き払って、わたくし達の屋敷に参りましょう!」
「……え?」
「む、なんだこの汚い犬畜生どもは! お前を引き取った後、すぐに処分してしまおう」
突然の不審者を警戒し、犬や猫達は威嚇の雄たけびを上げました。ですがディストラー夫妻の従者らしき男達がドカドカと屋敷に押し入ってきて、私の大事な家族を足で蹴り上げたのです。
「ギャウン!」
「キュウゥゥゥー―ンッ」
「フー……、フーーーッ!」
「やめて! 私の家族に乱暴しないで!!」
私は慌ててみんなの許に駆け寄り、自分の身を盾にしました。
なんてひどいことをするのでしょう。私を守ろうとした健気なこの子達に、乱暴を働くなんて。
ですがディストラー夫妻はどこまでも私の家族を見下げ、それが当然……とでも言いたげな顔をしています。
さらに突然親子の名乗りを上げた理由をも、口にしたのです。
「クレメンティア、おまえはこれから国王陛下の側妃として後宮入りするのだ。うむ、何も心配することはない。実の父である私がしっかり後見人を務めるからな」
「――。……え?」
それは突然目の前に突き付けられた、処刑宣告そのもの。
「国王陛下が救国の聖女をご所望なのだ。聖女の加護があれば、敵国との戦争にも勝てる。大いなる神の加護が、今こそ我がノグダリアに必要なのだ」
「――」
誰か……。
誰か、お願い。
これは嘘だと言って下さい。
悪夢の中で見ている悪夢そのものだと。
そして悪夢から今すぐ目覚める方法を――
どうか私に、教えて頂きたいのです。