3話
「天に在します、我らが神よ。願わくば、今日も幸多き日であらんことを……」
私は胸の前で両手を組み、朝の習慣となっている祈りを捧げました。
ここは王都より少し離れた、グリード家の別荘。私は今、アルディス様の計らいでそこに身を寄せています。
私がアルディス様と王都に行くと言い出した時、シスター・モルガンを筆頭とするシスター達は揃って卒倒し、そんなことはあってはならない、エリスは一生この修道院に閉じ込めておくべきだ……と主張なさいました。
ですがそれをアルディス様が誠心誠意説得され、私は17年間育った修道院を去ることになりました。
唯一の気がかりだった私の家族――共に暮らしていた動物達も、一緒にこの別荘へ連れてくることが叶いました。全てアルディス様のご配慮のおかげです。
ただし修道院とは違い、エウローニャの加護の影響がどうしても周りに強く出てしまう。そのため、この別荘に仕える使用人などはおりません。
例外は、アルディス様がつけてくださった屋敷の警護の者達です。屋敷から少し離れた場所に小さな詰め所が置かれ、入れ代わり立ち代わり人が出入りしているようです。私とは直に接触しないので、どんな人達がいるのかはよく知らないのですが、とてもありがたいことだと感謝しております。
それに元々一人で生きてきた身なので、自分の身の回り全般は自分で何とかすることができます。幸い、生きるのに必要な畑や水道なども、ちゃんと用意されておりました。だから住む場所が変わっただけで、実質今までの生活と何ら変わりはありません。
いえ、変わったことと言えば一つだけ――
「やぁ、こんにちはエリス殿。ご機嫌はいかがでですか?」
「いらっしゃいませ、アルディス様。今日は届けていただいた小麦でパイなど焼いてみました」
そうです。完全に孤独だった以前とは違い、アルディス様が度々私の許を訪ねてくれるようになったのです。
「あなたをこの王都に連れてきたのは私ですから」と、何かと私を気にかけて下さるアルディス様。節制と理性の神の加護を持つこの方となら、私も安心してお話しできる。ただそれだけの違いなのに、私の毎日はキラキラと輝いて見えます。
「それでエリス殿、そろそろあなたの加護の力を試してみたいのですが」
「はい」
私が焼いたパイを頬張りながら、アルディス様はある提案をなさいました。
私が住むこの屋敷に、長年不妊で悩むある貴族のご夫婦を連れてきたいというのです。私と接触することで、ご夫婦の性欲を刺激したい……とのことでした。
「わかりました。私のほうは問題ありません。いつでもそのご夫婦をお連れになってください」
「ありがとう、そう言ってくださると助かります」
相変わらず、アルディス様はご自分の任務に全力投球です。
国を救いたいと願う真摯な姿は、平凡な私には少々眩しすぎます。アルディス様とこうして向かい合いながらも、なぜかとくとくと高鳴る胸。
この原因不明の不整脈は一体何なのでしょう? 私は何かの病気なのでしょうか?
「エリス殿? どうしたんです? なんだか顔が赤いような……。もしかして熱でも?」
「ひゃ、ひゃいっ! いえ、何でもありませんっ」
私の様子が気になったのか、アルディス様が私の額に手を翳されました。
たったそれだけで、私は焦って舌を噛み、不自然にどもってしまいます。
アルディス様は私のリアクションに驚かれ、すぐに手を引かれました。
「ああ、申し訳ない。女性に気軽に触れるのは失礼でしたね……」
「と、とんでもございません。私のほうこそ……申し訳ありません」
「……」
「……」
「……」
「……」
なぜか微妙に気恥ずかしい空気が流れました。私もアルディス様も、視線を合わせることができません。
「で、では次は、件のご夫婦をお連れします。どうぞよろしくお願いします」
「わかりました。こちらこそよろしくお願いたします………」
結局アルディス様は、その日は用件もそこそこに帰ってしまわれました。
はぁ、私は一体何をしているんでしょう。唯一の話し相手であるアルディス様に、気まずい思いをさせてしまうなんて。
「ああ、完全に失敗したわ。この謎の不整脈さえなければ、アルディス様と普通にお話しできるのに……」
「わんわんっ」
「にゃー」
ひとりベッドに倒れこんだ私を慰めてくれたのは、家族である犬や猫達でした。
私は枕元に飾ってあるガラス瓶を手に取り、窓から降り注ぐ日差しに向かってかざします。アルディス様が下さったこのキャンディの宝石は、今でも私の宝物です。
「次こそは、ちゃんとアルディス様の前で笑えますように……」
切ない思いを祈りに託し、私はそっと目を閉じました。
瞼の裏に浮かぶのは、お優しいアルディス様の微笑。その面影が私の心に緩やかな波紋を投げかけるのです。
その後、アルディス様と共に、不妊に悩むあるご夫婦が私の許を訪れました。
とはいっても、何か特別なことができたわけではありません。ご夫婦にお茶をお出しし、「健やかな珠のような御子を授かりますように……」と、お祈りしたぐらいです。
そのようなご夫婦がまた一組、また一組と、時を置いて私の許に連れてこられるようになりました。
その度に私はお祈りを繰り返し、ご夫婦を笑顔で送り出すことしかできませんでした。
ですが王都に来てから3カ月ほどが過ぎた頃、エウローニャの加護が実を結び始めました。なんと私の許を訪れたご夫婦の奥様が、立て続けに懐妊されたというのです。
それだけではありません。王都の公立病院には、妊娠の検査をしたいという女性が押し寄せているとのこと。アルディス様はこの結果に大層興奮なさっておいででした。
「エリス殿、あなた宛てにこんなにたくさんの礼状が届いています! そのどれもがエウローニャの加護に感謝するものばかり。長年子供が欲しくても、できなかった夫婦が、淫夢を見たのをきっかけに再び燃え上がり……。い、いえ、ゴホンッ。その気になり。結果、喉から手が出るほど欲しかった子供を得ることでができそうなのです!」
「まぁ、それはなんておめでたい……」
この時ばかりは私もアルディス様も気恥ずかしさを忘れ、手と手を取り合って喜びました。
多くの女性が妊娠したことで、アルディス様の立てた仮説が正しかったと証明されたのです。
勇気を出して田舎から出てきて、本当に良かった……。
今は心からそう思います。
「おそらくあなたが王都で暮らすことで、淫夢の神・エウローニャの許しが得られたのかもしれません。私はこの結果を陛下にご報告しようと思います。このまま出生率が順調に上昇していけば、陛下も侵略戦争をやめ、再び内政に目を向けて下さるかもしれません」
「はい、よい報告を待っていますね」
そうお答えすると、アルディス様は何かを耐えられるようにきゅっと唇を噛み締められ、私の瞳をまっすぐに見つめられました。
「ありがとう、エリス殿。あなたに出会えて本当に良かった……」
「アルディス様……」
アルディス様の眼差しは、まるで何かを焼き焦がさんばかりの……熱のようなものを感じさせました。
その海のような、空のような真っ青な瞳に、私の心はまるごと吸い込まれてしまいそうです。
そしてその夜、私は夢を見ました。
とても鮮明な……アルディス様の夢です。
その夢の中で、なんと私はアルディス様に強く抱きしめられているではないですか!
『エリス殿、愛しています……』
しかもアルディス様は童話に出てくる王子様のように、甘く、とろけるような声で、私への愛を囁いてくださいます。
ですが深い眠りの中にありながら、私の脳内では激しい警鐘が鳴っておりました。
ああ、なんてみっともない。
本物のアルディス様が私相手に、こんな睦言を囁くはずがないのに。
私はいつの間に、何を勘違いしてしまったのでしょう?
夢の内容に浮かれている私と、冷静にこんなことはあり得ないと分析している私。
その二人が同時に存在して、激しく葛藤していました。
アルディス様に愛を囁かれたのが嬉しくて。
でもそれが自分の妄想なのだと思うと、悲しくて。
私はそこで目を覚ましました。
ああ、最悪です。
私はひとりベッドの中で頭を抱えます。
なんて淫らで、自分勝手な夢を見てしまったのでしょう。
これが――淫夢。
自分の欲望を夢の中で具現化してしまうという、エウローニャの権能。
なんて恐ろしい……。
私はこの時生まれて初めて自分の加護の恐ろしさを、身をもって知りました。
そしてアルディス様に向かうこの感情の正体をも、自覚することになってしまったのです。