2話
「エリス殿、あなたはもしかしたら淫夢の神の加護を使い、この国の救世主となれるやもしれません」
何かの冗談かと思いましたが、アルディス様は本気で仰ってるようでした。
ですが俄かには信じられません。17年間忌み嫌われてきた淫夢の神の加護が、人の役に立つなんて。
私はかぶりを振り、やんわりとその仮説を否定します。
「申し訳ありません、きっとそれはアルディス様の思い違いです。私は人の役に立つどころか、人を悩ませるだけの存在なのですから」
「そうでしょうか?」
ですがアルディス様もまた、ある意味頑固な方でした。閉じられた私の箱庭を見渡し、何か確信を得たような……そんな表情をなさいます。
「あなたが飼っている犬や猫、鳥、みな健やかに育っていますね。数もとても多い。これこそまさにあなたの周りで正常な繁殖が行われているという証では?」
「………」
確かに私の周りの動物達は、たくさん子供を産みます。でもそれがなんだと言うのでしょう。私にとってはありふれた日常の光景でしかありません。
「ですが動物は人間に比べて多産ですし、元々そういうものではありませんか?」
「その当たり前のことがこの国では当たり前でなくなっている……と、先ほどお話したはずですが」
「……」
いつの間にか私とアルディス様は、問答するような形になっていました。眉根に皺を寄せてしまった私を見て、アルディス様は苦笑なさいます。
「ハハハ、申し訳ない。あなたを困らせたかったわけじゃない。とにかく私はしばらくこの村に留まります。さらに調査を進めれば、もっと詳しいことがわかるでしょう」
「はぁ……」
アルディス様は立ち上がり、この小聖堂の周りを囲む高い壁にサッと上られました。
まぁ、うちの猫達のように身軽だわ。なんてすごい身体能力。さすが騎士様。
私は思わずパチパチと拍手を繰り返します。
「エリス殿、また後日、ここを訪ねても構わないでしょうか?」
「それは……。シスター達から私との接触は禁じられませんでしたか?」
「禁じられました。でも私があなたにお会いしたいのです。いけませんか?」
「……」
アルディス様があまりに綺麗に微笑まれるので、私の頬にまた熱が上りました。
やはり男性に免疫がないせいか、アルディス様に何か言われる度にドキドキしてしまいます。
今日は生まれて初めての経験ばかりで、私の頭は軽く混乱していました。
「返事がないということは、前向きに肯定として受け取っておきます。あ、そうだ。エリス殿、両手を広げていただけますか?」
「手? こうですか?」
言われるがまま手を広げると、頭上のアルディス様からいくつものキャンディが降ってきました。キャンディは、赤や黄色、ピンクなどの透明な包装紙にくるまれています。
「村の子供達に分けようと、買っておいたものです。女性も甘いものがお好きかと思いまして。つまらないものですが小腹が空いた時にどうぞ」
「まぁ……!」
修道院内では、滅多に甘いものを口に入れることはできません。嗜好品としての菓子は、不要なものとして禁止されているのです。
「ではまた。お忙しい時にお邪魔しました」
「いえ、こちらこそ大したお構いもできませんで」
アルディス様は高い塀を超え、颯爽と私の前から去っていかれました。
私は誰もいなくなった空間を見上げながら、しばらくその場に佇みます。
思い返してみれば、こんなにたくさん人と喋ったのはいつ以来のことでしょう?
一人ぼっちに慣れ過ぎて、誰かと交流する……なんてことは完全に忘れていました。
アルディス様が残していったキャンディ――その一つを口の中に放り込めば、薄荷の香りが鼻腔いっぱいに広がります。
「甘ぁい……」
禁断の甘露は、私の体と心を甘く痺れさせました。
なんだかとても幸せな気分です。
おそらくそれは、生まれて初めて私と言う存在を肯定してくれた人が現れたから。
アルディス=グリード様。なんて不思議なお方……。
アルディス様が立ち去った後も、なぜか私の鼓動は忙しなく、落ち着かなく。
とくとくとく、と、いつもより早く脈打つのでした。
「やぁ、こんにちは、エリス殿」
「ごきげんよう、アルディス様」
次にアルディス様が私を訪ねてきたのは、三日後のお昼頃のことでした。
もちろんシスター達には内緒で、高い塀を飛び越えていらっしゃいます。
本来ならばいけないことなのに、私の口元には自然と笑みがこぼれました。先日の胸の高鳴りが、また発作のようにぶり返してきます。
「アルディス様、昼食はすでに摂られましたか?」
「いえ、まだですが」
「それならば少し、お待ちください」
畑仕事をしていた私は慌ててサンドウィッチを取りに小聖堂へと戻りました。アルディス様もその後をついていらっしゃいます。そしてアルディス様は私が窓際に飾っていたあるものに目を止められました。
「おや、この前私があげたキャンディが」
「ありがとうございます。食べるのがあまりにももったいなくて」
私は頂いたキャンディをガラス瓶に入れ、大切に保管していました。
太陽の光を浴びると、キャンディはまるで本物の宝石のようにキラキラ輝くのです。
そう改めてお礼を言いながら、私は手作りのサンドウィッチを差し出しました。
「あの、これよろしかったらどうぞ。うちの畑で採れたもので作りました」
「……」
アルディス様は暫し動きを止め、まじまじと私を見返してきます。
……ハッ! もしかしてこれは騎士であるアルディス様に対する不敬に当たるのでは?
間抜けでバカな私は、アルディス様の反応を見るまでそんなことにも気づけませんでした。
ライ麦で作ったパンと、雌鶏達が産んでくれた新鮮な卵で作ったサンドウィッチは私の自信作ではありますが、所詮一介の修道女が作った代物。貴族様のお口に合うはずがありません。
うう、穴があったら今すぐ入りたい……。
私は慌てて差し出していたサンドウィッチを下げようとしました。
「も、申し訳ありません。私としたことが、大変な失礼を……」
「いえ、とても美味しそうなサンドウィッチだ。是非ご相伴にあずかりたい」
「……え」
「こんなにいい天気なのですから、外で食べましょう、エリス殿」
「………」
ですがアルディス様はやっぱり優しい方です。いやな顔一つせず、私のサンドウィッチを受け取って下さいました。
そうしてまた畑に戻り、少し距離を空けて切り株に座ります。おこぼれにあずかりたい犬や猫が、私とアルディス様の周りに集まってきました。
「うん、美味い! パンの間に挟まれたレタスもシャキシャキとしてて、ゆで卵の具とよく合います」
「ありがとうございます」
「よーし、よーし、おまえ達もご主人様のサンドウィッチが大好きなんだな」
この前はアルディス様を警戒して唸っていた犬達も、今日は頭を撫でられ大きく尻尾を振っています。
元々野良のこの子達は、基本的に人見知りです。なのにこんなに早く懐いてしまうなんて……。
動物達は私にとって家族みたいなもの。その家族がアルディス様と仲良くしてくれるなら、こんなに嬉しいことはありません。
「さて、では早速その後の調査報告をしたいのですが」
サンドイッチを食べた後、私とアルディス様は改めて向き合いました。
井戸から汲んできた水を沸かし、修道院オリジナルのお茶を淹れて、アルディス様の報告にじっと耳を傾けます。
「結果から言いますと、やはりエリス殿の淫夢の神の加護の影響が大きいことが判明しました。調査隊としてこの村にやってきた私の部下は20名いるのですが、そのうち12名がこの三日間の間にセック……ゴ、ゴホンッ! いえ、ムラムラした夢を見たとの報告がありました」
「ムラムラ……?」
何やらわからない単語が飛び出してきて、私は首を傾げました。
アルディス様はやや汗をかきながら、必死に言葉を探しておいでのようです。
「つまり女性と子作りする夢を見た……とのことです。約6割の部下がそのような夢を相次いで見た、と言うのは、画期的な調査結果だと思います」
ただし恥ずかしいことを無理やり告白させたので、部下達には嫌われてしまいましたが……と、アルディス様は軽く肩をすくめられました。
「まぁ、やはり私のせいで、皆さんそんな淫らな夢を見てしまったのですね……」
「エリス殿、先日も話しましたが、性欲は本来どんな人間にもあって然るべきもの。健全な体には、健全な性欲が宿るものです。性欲があるからこそ、人はここまで繁栄できたとも言えるでしょう。ですからあなたが罪悪感に駆られることはないのです」
アルディス様の言葉はまるで魔法のように、私の心を軽くしてくれました。
刹那、ジン……と目頭が熱くなって、視界が歪みます。
信じられないことに、私は涙を浮かべていました。
まぁ、こんな風に泣いてしまうなんていつ以来のことでしょうか。
私が不吉な子であるのは仕方ないこと。
だから一人ぼっちであるのも仕方ない。
他人から嫌われてしまうのも仕方ない。
そんな風に全てのことを諦め、絶望してきました。
いくら泣いても泣いても、私を振り返ってくれる人はいない。
だからいつからか泣くことすら、やめてしまいました。
だけど私にはまだ、自分のために流す涙があったのですね。自分でも驚きです。
「エ、エリス殿……」
突然私が泣き出したのを見て、アルディス様はおろおろなさいました。
私は指で涙を拭き、ふふっと軽く笑います。
「申し訳ありません、悲しいわけではないのです。そんな風に言ってもらえたのは初めてだから、うれしくて」
「エリス殿……」
「すいません、もう少し詳しいお話を聞かせていただいても?」
私がせがむと、アルディス様は「もちろんです」と笑顔になり、さらに詳しい調査結果を教えてくれました。
淫夢――性欲が刺激される夢を見た隊員にさらなる聞き取り調査を行ったところ、妻や恋人がいる男性は、伴侶となる女性を対象にした夢を見るということが判明したそうです。
逆に伴侶のいない隊員が見た淫夢では、女性は朧気で抽象的だったとのこと。
それらの結果を踏まえ、アルディス様は再び一つの仮説を立てました。
「つまりあなたの淫夢の神の加護は、同じ土地に住んでいるだけで強く作用する。そしてその人間に伴侶がいた場合、その相手限定に欲情することになる。伴侶の決まった夫婦ならば、健やかな性欲を増進させることが可能というわけです」
もちろんむやみやたらに加護を与えることは、不特定多数の人間を発情させると同義なので、慎重に慎重を期すべきですが……と、アルディス様は続けられました。
「また国の存亡にかかわる出生率の低下が始まったのは、あなたが王都から追放された時期と一致します。なので私はこう考えます。エウローニャの加護を受けたあなたを追放したせいで、我が国の王と国民達は神の怒りを買ったのではないか……と。その結果、自然と人は淫夢を見なくなり、性欲が著しく減退したのではないでしょうか」
大真面目に淫夢について語るアルディス様を見ていると、なんだかこちらのほうが恥ずかしくなってきます。
でももしその仮説が正しいならば、私という存在にも意義があったことになります。
「そこで提案なのですが、エリス殿」
「はい」
「私と共に王都に参られませんか」
「……え?」
さらにアルディス様の口から、意外なお申し出がありました。
まさに青天の霹靂です。
一生この片田舎の修道院で暮らし、生を終えるのだと思い込んでいた私には、途方もない夢のように聞こえます。
「あなたが王都に戻ることで、エウローニャの加護も王都に戻るでしょう。その加護が働き、王に子が生まれれば、そのストレスの捌け口となっていた戦争も終わるかもしれません。そうすれば多くの命が助かり、延いては国自体が存亡の窮地から脱することができる……と私は考えています」
「……」
アルディス様は苦渋を滲ませ、この国の未来を真剣に憂いておいででした。
その横顔を見つめていると、なぜか私も無性に何かしなければ……という気になるから不思議です。
私のような何も持たない、ただの娘がこの方のお役に立てるなら。
それだけでこの世に生まれてきた甲斐があるというものです。
「もちろん住み慣れた土地を離れる不安もあるでしょう。ですがあなたのことは、グリード伯爵家が必ずお守り致します。我が神・ガスクールの名に懸けて、誓います。ですから真剣に考えてみて下さいませんか、王都に参られることを。エリス殿の決心がつくまで、私は何日でもお待ちしま……」
「はい、わかりました、参ります」
「……………。 ――え?」
私が即決すると、アルディス様は一呼吸置いた後、大きく目を見開かれました。
まさかそんな簡単に私が首を縦に振るとは思わなかったのでしょう。
いったん私から視線を外した後に深く考え込み、また私を振り返って尋ねてきます。
「………本当に? 本当に王都に来て頂けるのですか?」
「はい、参ります」
大事なことなのでしっかりと、私は二度答えました。
アルディス様の言うとおり、住み慣れた修道院を離れることはとても不安です。
ですがこのままここで暮らしていても、私はただ一人老いて、朽ちていくだけ。
それならば、せめてアルディス様のお役に立ちたい。
こうして会うのは二度目だけれど、アルディス様は信頼に値するお方。私の直感がそう告げているのです。
だから――
「どうか私を王都にお連れ下さい。もしもこの身が誰かの役に立つのなら、私は喜んで全てを捧げましょう」
「……ありがとう、恩に着ます」
こうして私の運命は、大きく反転しました。
淫夢の神の加護を受けているからと修道院に追放された私が、今度は国を救うために王都へと戻るのです。
ですが私はまだこの時、知らずにいました。
エウローニャの加護が、今まで以上に私の人生に大きな変革をもたらすことを。
そして、その先に痛ましい悲劇が待っていることを――
予想すらできなかったのです。