9.キンギョソウⅠ
異世界ツアーから戻ると、ナカノさんたっての希望で、今日中に全ての手続きを終えてお見送りをすることになった。
出逢ったばかりでお別れは寂しいけれど、ナカノさんの新しい人生の始まりだ。笑顔で見送らないとね!
会議室にはタケダ隊長も居たので、ユキが色々と報告をして、みんなで一緒に応接室に戻ることになった。レイジはまだ他の仕事から帰っていないみたい。
ユキとタケダ隊長は、何やらナカノさんに「前世の記憶をどれくらい残したいのか」とか、「いつ頃思い出したいか」なんて事を細かく打ち合わせると、謎の液体を二人でせっせと計量し、ナカノさんに無理矢理飲ませていた。
……それ、なんだか私知ってるよ。川の水でしょ?レテ川の。え、違う?そうですか……。
しかし、そんなことも自分で決められるのね。前世の記憶か~~。私はあんまり残しておきたいとは思わないけど、「異世界に転生したい」と思った事だけははっきりと覚えておきたいね。そしたらそれだけできっと、自分の置かれてる環境に感謝して生きていけるような気がする。
あと小中学生くらいの勉強の知識はしっかり覚えておいて、3歳くらいで思い出したい。そしたらきっと神童になれるはずだから!
それと、もしよかったらこの狭間に来た事も覚えておきたいな。訳わからない事多すぎるし、ユキ先輩は面倒だけど、異世界ツアー楽しかったし。こういうのもいい経験、だよね。
なんて、感慨に耽っていると、ユキ達は次の工程に入っていたようだ。ナカノさんは何やら分厚い冊子?を渡されて、ニコニコと何かを読んでいる。冊子のタイトルは、『転生者に関する報告書』?よく分からないから後で聞いてみようかな。あ~あ、見学者はやることが無くて暇だな~……。
今の私に課された任務は『笑顔』、ただそれだけだ。
そうやって、くだらないことを考えながら笑顔で3人を観察しているとコンコン、と扉がノックされた。隊長が扉の方を見もせずに「どうぞ。」とだけ言った。
「失礼します。お疲れ様です、皆さん。こちらにいらっしゃったんですね。」
「お疲れ、レイジ。」
開いた扉からは、眩い笑顔を携えたレイジが入ってきた。何やら仕事帰りのはずなのに疲れを微塵も感じない。
「ナカノさん、何か飲まれます?」
「ええ、では、ホットコーヒーを。」
「かしこまりました。はい、どうぞ。」
「ありがとうございます、レイジさん。レイジさんのコーヒーはいつもとても美味しくて。」
「それは良かったです。」
レイジはナカノさんとにこやかに談笑しながらも、流れるような動きでタケダさんの前にアイスコーヒーを、ユキの前にホットティーを置いた。
なるほど!やることが無い人はこうやってお茶汲みをすればいいんだな!と、感心していると、レイジが私の前へやって来て、甘い香りのするホットティーを差し出してきた。
「はい、アカリさんにはこれ。昨日、ユキさんにアカリさんがストロベリーティーをとても気に入っていたって聞いたんだ。」
うっっっっ!!!!!
あの幼女め!!!余計な事を!!嫌がらせか???
しかしこのレイジの完全なる善意を無下には出来ない。
「あ、ありがとうございます……。」
ええい、ままよ!
私は意を決して、紅茶をぐっと一口飲んだ。
え……。すごく美味しい。
決して甘すぎず、口当たりは爽やかで後からふわっと苺の甘酸っぱい香りが口の中に広がる。贅沢を言えば私の好みよりは少し甘めだけど、それでも砂糖の甘みというよりも苺本来のフルーティな甘みといった感じで、とても飲みやすい。何よりこれ一杯で完結しているのがありがたい。煎餅やケーキなんかを食べて口内のバランスを図らなくても、これだけで十分快適な口内を保てる調度いい塩梅だ。温度も熱すぎずぬるすぎず、体がほわっと温まるベストな温度である。
凄い……。用意する人が違うだけでこんなにも違うなんて……!気遣いの差か?それとも経験によるもの?はたまた元の世界で飲んできたものの差……!?
「あの!これすっごく美味しいです!」
私は感動のあまり、いつの間にか私の隣に椅子を持ってきて座っていたレイジに勢いよく感想を伝えた。するとレイジは一瞬ユキの方に目線を遣って、私にいたずらっぽく笑いかけた。
「気に入ってもらえて良かった。」
あぁ……全部お見通しっていう事ですか。
レイジは見惚れるような所作でホットココアを一口飲むと、ユキ達の方を向いた。私もお仕事を笑顔で見学する任務に戻ることにした。
ナカノさんはユキ達に言われるままに、紙に何かをせっせと書いている。私に見学してろって言うなら今何をしているかぐらい教えてくれても良いでしょうに。でもまあ、私はまだ異世界転生屋さんのメンバーじゃないただの部外者だし、教えられない事も色々あるんだろう。
「転生の前にね、ああやってレビューを書いてもらうんだ。今回の異世界転生屋さんのサービスはいかがでしたか~?ってね。」
レイジがナカノさん達の方を見つめたまま、静かにそう教えてくれた。
えっ、教えてくれちゃうんだ?私部外者なのに。
「レビュー……ですか?」
「そう。僕たちの仕事もね、まだ手探りだから。ああやって、レビューを書いてもらってどんなサービスが要るのか要らないのか毎回反省してるんだ。転生しちゃったらもうそんな話出来ないからね。今書いてもらうしかないんだ。」
「メンバーの入れ替わりも激しいからね~」と、レイジは軽い調子で言った。なるほど、思っていたより結構真面目な団体のようだ。
「アカリさんも暇なとき、過去のレビューとか見てみるといいよ。この部屋の隣の書庫にあるんだ。結構面白いよ?『レビューを書かされたのが不快でした。』なんて意見もあったりして。」
「ふふ。それは面白そうですね。」
暇つぶしの方法を教えてもらえるのは結構助かる。私がいつまでここに居るのかは分からないけど。しかし、
「でも、私がそんなの見ちゃって大丈夫なんですか?私、部外者ですよ。」
部外者にほいほい過去の顧客データを見せたりなんかして、ここのセキュリティは杜撰すぎないか……?と少し心配になってレイジにそう尋ねると、レイジはふわりと笑った。
「何言ってるの、アカリさん。君、結構最初から入る気満々だったでしょう?異世界転生屋さんに。」
驚いた。バレていたのか。本当になんでもお見通しだなぁ……。
「僕達はいつでも大歓迎だよ。」
時刻は午後5時20分。手続きを全て終えたという事で、みんなでナカノさんを異世界の入り口まで見送ることになった。行先は勿論、『グリシェの英雄』の世界。
「みなさん、本当にお世話になりました。」
「お元気で。」
「道中、気を付けてくださいね。」
「こちらから見守っていますからね。」
ナカノさんは何度も何度もこちらを振り返って礼をした。こちらから見えなくなるまで何度も何度も。ついに最後の最後まで晴れやかな笑顔のままだった。
「ナカノさん、これからどうなるんでしょうか……。」
「アカリ、彼はもうナカノさんではないわ。グリシェの魔王、クロノよ。」
「そうですね……。」
ナカノさんという人は、私が出会った時には既に亡くなっていて、そして今から生まれてくる彼の命はクロノという人だ。しかし、ナカノさんの記憶を持って、意思を継いで生まれてくるその命は、その源は、もうナカノさんではないのだろうか。さっきまで一緒にいたナカノさんはもうどこにもいないのだろうか。いずれ、私も……
「これ、読みなさい。あんたにも読む義務があるわ。」
ユキから渡された紙のトップには『異世界転生屋さんに関する要望等』と書かれていた。……これ、ナカノさんのレビューか。
ペラペラの一枚紙には、几帳面な文字がぎっしり詰まっていた。「宿を提供してくれて助かった」だとか、「タケダさんにお話を聞いてもらえて安心した」だとか、「コーヒーがとても美味しかった」だとか、「異世界を見て回ったのが楽しかった」だとか……そんなことがたくさん書いてあった。そうか、異世界ツアー、ナカノさんも楽しかったんだ。
いくつもの思い出の合間に何度も何度も「ありがとうございました」という文字が挟まっていて、ナカノさんが異世界転生屋さんの3人にどれだけ感謝をしているのかが伝わってくる。こんなの貰ったらきっとみんなも嬉しいよねぇ。ナカノさんは本当に誠実で素敵な人だ。
そして、最後の一行……。
『改めまして、異世界転生屋さんのタケダさん、ユキさん、レイジさん、そしてアカリさん、楽しい時間をありがとうございました。』
――ああ、そうか。このレビューの宛て名には私の名前も入っていたのか。
丁寧に書かれた『ありがとう』の文字が、私の目に、頭に、心臓にじわじわと染み渡ってゆく。人に感謝をされたのは、果たしてどれくらいぶりだろうか。私はナカノさんの役に立てたのだろうか。そうだと良いな……。
ナカノさんには今日1日で、沢山のものを貰った。
私も、ナカノさんに何かを残せたのだろうか。