バーチャル・マナー・シミュレーター ~自転車スマホは許さんのです!~
ふっ……完璧に勢いで書いたのであります(´・ω・`)
――この学校には一風変わった先生が一人いる。
名を千条院チヨという。
男子生徒たちが密かに伝統化している「女子生徒・先生のドキドキ☆個人情報」を見たところ、先生は年齢23歳・身長142cm・バスト77(A)・ウエスト57・ヒップ79の子供体形で、表では「チヨちゃん先生」、裏では「合法ロリ様」と呼ばれている先生だ。
ちなみに「女子生徒・先生のドキドキ☆個人情報」は女子閲覧厳禁の資料だけど、以前、管理している男子生徒の一人を軽ーく脅して見せてもらい、きっちり私の個人情報部分だけ黒塗りに潰した後、さりげなく他の女子の情報も拝見した経緯がある。
チヨちゃん先生は有名だからね。いっつもぶかぶかの白衣を着ているから、もしかして着痩せするとかサプライズがあるかなって思ったけど、「女子生徒・先生のドキドキ☆個人情報」の結果は予想通りでちょっと残念。
さて、そんなチヨちゃん先生だけど、今、私の目の前で腕を組み、ちょこんと仁王立ちしていらっしゃる。
実は私こと田島灯は、とある朝の出来事をきっかけにチヨちゃん先生に放課後、呼び出されていた。
場所は彼女の居城であるマナー教室である。
マナー教室。3年前に新設された新しい授業「マナー講座」専用の教室で、その担当を務めるチヨちゃん先生の研究室でもある。
以前は中学までの道徳授業みたいなものが主流だったらしいんだけど、なんでも道徳という名目では広義すぎて、授業内容と日常生活の行動に関連付けされにくい生徒が多い……みたいな研究結果が発表され、それなら日常になるべく近い範囲に絞ってはどうかと言う議案が行政で決議されたみたいで、そこから「マナー講座」というものが生まれたとのこと。
しかも中学校だけでなく、小・中・高校全てで「マナー講座」を取り入れる形になったおかげで、私のいる高校にもこうしてマナー教室なるものがあるわけだ。
まあ「人を殺しちゃいけませんよ」なんて当たり前の道徳を説くより、身近な事例をもとにしたマナーの方がそりゃ生徒たちもピンとくるものは多いだろうね。
科学技術が進歩するにつれて、人を取り巻く環境・利便性が向上していく一方、他人を気遣う気持ち――マナーを守らない風潮が強まってきているそうで、このご時世、特番に取り沙汰される程度には社会問題になっているらしい。
まあ、あんまり興味ないんだけどね。
「チヨちゃん先生、そんなに怒らないでよ」
私は手身近な椅子に腰をかけ、足を組んでポケットからスマホを取り出し、いつもの癖をなぞるようにウェブサイトを更新し、お気に入りのブログ記事をスワイプしていく。
「それ!」
「え、どれ?」
「スマートフォンです!」
「うん? あぁ、そうだね。スマートフォンだね、これ」
いきなり正式名称で言われたものだから、一瞬何のことか反応が遅くなったけど、スマホのことを指していることにすぐに気づき、私はスマホをユラユラと揺らしながら肯定を返した。
「そ、そうじゃなくて~~~! 田島さん! 貴女は今朝起こった事故をもうお忘れになったのですか!?」
「う、だからそれは悪かったって何度も謝ってるじゃない」
「謝る態度がそれですか、もうっ!」
「え、いやだから……朝、十分に謝ったんだから、それはもういいんじゃないかなぁーって」
「確かに謝ってもらいましたが、反省が足りないのですっ」
「うえぇぇ~……土下座でもしろっての?」
「ち、ちち違くて!」
ブンブンと両腕を振るチヨちゃん先生。身体の動きに合わせて、彼女のツインテールもピョコピョコと連動して揺れている。いやぁ~、可愛いなぁ、チヨちゃん先生は。歳の離れた妹がいたら、こんな感じなんだろうか。
「田島さんはどうして放課後、私に呼び出されたのか、その意図を理解されていないのですかっ?」
「えーっと…………説教?」
「近いのです。説教とは物事の良し悪しを理解していない者に『善悪とは何か』を説くものなのです。幸い……なのか分かりませんが、田島さんは一応『悪いことをした』という認識はあるみたいですので、説教をするつもりはないのです」
「え、じゃあ帰っていい?」
「だ、だだ駄目なのです! 悪いことをした意識はあっても、反省してなければ同じことを繰り返すばかりなのです! だからこの放課後の時間を使って、貴女にはマナーが何たるかを再教育したいと思ってお呼びしました」
「ええぇ~……」
今日は駅前のクレープ屋で、チョコバナナクレープ食べて帰ろうと思ったのに……。なんとかして煙に巻けないかなぁ。
「ああっ、田島さんの顔から罪悪感が微塵も感じられなくなってきたのですっ。これはいけません……田島さん、見るのです!」
可愛い声を張り上げたかと思うと、チヨちゃん先生はくるっと後ろを向き、白衣の背中を私に見せてくる。
その背中には――くっきりとタイヤの痕が残っていた。
自動車ではない。もっと細い車輪の痕――つまり自転車の車輪だ。それは明らかに自転車の前輪のもので、同時に彼女が背後から自転車に轢かれた事実を物語っていた。
「…………」
私はスッとその痕跡から眼を逸らした。
「あっ、目を逸らしちゃ駄目なのです! これこそが貴女が今朝残した痛々しい爪痕ですよっ? ちゃんと思い出してください!」
「あぁ~、うん……だから、ゴメンってばぁー」
「謝りながらスマートフォンを見ない! そうやってスマートフォンに依存してしまっているから、自転車に乗りながらスマートフォンを見る、なんて凶行に及ぶんですよ?」
「は、反省してるってばぁ」
「本当に田島さんが反省しているならば、朝の事故の原因がスマートフォンによる余所見だと身に染みているはずなのです。でも貴女はこの部屋に入ってすぐに椅子に座ってスマートフォンを見始めました。それはつまり、スマートフォンに対して忌避感を抱いていないという証明。スマートフォンと私を轢いたことを天秤にかけた結果、スマートフォンに傾いたことを指しているのです」
「う……」
今日の朝、私はいつも通りスマートフォンを操作しながら自転車通学をしていた。
私の通学路は人通りも少ないし、いつも通い慣れた道だ。多少前から視線を外していたところで、今まで事故の類を起こしたこともない。もちろんあまり良くないことだとは理解しているけど、朝の貴重な時間を自転車漕ぐだけに使うのは勿体ないという気持ちが強く、気づけば毎朝、癖のようにスマートフォンを片手に持っていた。
それが今日――まさか珍しく通学時間が被ったチヨちゃん先生に衝突するとは思ってもいなかった。
一応、視界の端で前方を確認していたものの、背の低いチヨちゃん先生は丁度スマートフォンの死角に隠れてしまっていたらしく、そのせいで躱すことができなかった。チヨちゃん先生はいち早く背後の気配に気づいたらしいのだが、慌てた関係で足を縺れさせたらしく、ベターンと地面にうつ伏せに転び、その上を私の自転車が轢く格好となってしまったのだ。
轢いた瞬間は、小学生を虐めてしまったような罪悪感に囚われ、何度も謝ったのだが、チヨちゃん先生に大きな怪我がなかったこともあり、放課後になった時には既に私の中では「過去の出来事」として処理されかけていた。
……確かに、チヨちゃん先生の言う通り、これでは反省したと言えないかもしれない。
けど、ここで再度反省の意思を見せたところで……多分、私は明日もスマートフォンを手に取ると思う。さすがに学校が近くなればポケットにしまうけど、それまでは今まで通りだ。だって……ただ自転車を漕ぐだけの通学なんて暇じゃない。それにハマってるゲームのイベントだって進めたいし。
それにさ、こんなん皆やってることだよ。
事故っちゃった関係で怒られるのは分かるけど、私だけスマートフォンを見るのを止めるっていうのは何だか違う気がするんだよね。それだったら法の改正とかしてさ、刑罰の対象とかにしちゃえばいいんだよ。そうなったらちゃんと私だって止めるし、皆も止めるっしょ?
「田島さん」
「え」
「その人の痛みを理解できる人は、同じ痛みを抱えた人だけなのです。想像はできても、共感はできても、本当の意味での理解は当人に及びません」
ピーッと警告音が教室内に鳴り響き、私はハッとして椅子から立ち上がり、唯一の出入り口である扉の方へと視線を向けた。
まるで防犯扉のような分厚いシャッターが上から降り始め、教室の扉を徐々に隠していく。
どうやらいつの間にかチヨちゃん先生が握っていたスイッチ端末による挙動のようだ。
「そして、痛みを知るからこそ、人は失敗から成功を得るのです。ふふふ、田島さんがきちんと私の言葉を聞き、反省して己を顧みるなら『お話』だけで済ませようと思っておりましたが……」
ガコン、と教室を埋める機械類が起動し始める。
私には何の用途に使うのか分からない武骨な精密機器たちが熱を持ち始め、教室の電光が明滅したと思うと、フッとその明かりを消してしまった。
「チ、チヨちゃん先生……?」
暗闇と化した教室の中、四方八方から赤外線のような赤・緑・青のラインが宙を走っていき、私の身体を何度も交錯していく。
『ふっふっふ、私がこの学校に来てから3年間。多くの生徒たちにマナーの座学を教えてきましたが、正直言って誰も私の話を真摯に受け止めてくれた生徒はいませんでした。それどころか生徒たちの先生方への態度がより一層悪化したと理事会からお叱りを受けたのです! 私が気さくな態度や姿勢でいるから、教師が舐められるのだと!』
チヨちゃん先生の声が機械を通したかのような加工音声となって届いてくる。
え、え、もしかしてあの教室の壁際に並んでいる機械類の中に入ったってこと?
『しまいには……しまいにはですよ! 私のマナー講座を中身の無いお遊戯会だなんて揶揄する輩も理事会にいるんですよーッ! うにゃーーーーっ! もう許さんのです! そんな日々の鬱憤が私に探求心を与えてくれたのです! 座学は暇ですかっ? 眠いですかっ? 興味ありませんかっ? 頭に入ってきませんかっ? ――だったら経験させてみせようじゃありませんか!』
「ま、待って……ね、ねぇチヨちゃん先生? 私の話を――」
『さぁ行きますよ、田島さん! 稀代の発明家・千条院チヨが昨日開発したばっかの超大作――――バーチャル・マナー・シミュレーター! お題は"自転車スマホは許さんのです!"』
「ちょ――――」
真っ暗闇から突然教室が白く塗りつぶされ、私は叫びかけた言葉すらも飲み込み、目を閉じた。
――そして、
瞼裏から光が弱まってきたことを確認してから、私はゆっくりと目を開けていく。
「…………………………………………え?」
そこに広がっていたのは、見慣れた風景。
私の横には学校を囲む塀が続いており、少し歩けば校門が見えてくる場所だ。
そう――今朝、私がちょうどチヨちゃん先生を轢いた場所である。
「え、え、う、嘘? え、マジ?」
反射的に頬を抓って伸ばすが……痛い。指先にも頬にもしっかりと感覚が伝わってくる。
空を見上げれば青空が広がっており、秋の涼しい風が頬を撫でてくる。
「さっきまで……教室に、いたのに。す、すご……これ、もしかして全部、バーチャル?」
チヨちゃん先生が言葉にした「バーチャル・マナー・シミュレーター」。額面通りに受け取るならば、この世界はバーチャルの世界だということになる。
彼女が有名たる所以――それはこの技術力である。マナー教室に数多く転がっている機器類を初めとして、彼女は趣味の範囲で多くの電子機器を発明していた。学校内に整備された最新の監視カメラだって彼女のお手製だし、以前はドローンなんて作って生徒たちと遊んだりもした。
その技術力は学校側から予算が出るほどに認められており、マナーじゃなくて、むしろそっち側に注力して、色々な賞を取って欲しいなんて話もあったらしいけど、チヨちゃん先生はあくまでも「開発は趣味」と下し、マナーを優先しての教師生活を送っていた。
なので彼女がある程度の機器を開発しても驚きはしない。でもまさか……こんなトンデモな物まで開発しているとは思ってもいなかった。
こういうのって脳波だとか色々やんないと実現できないんじゃなかったっけ!? 私、特にヘッドギアとかそれっぽい機具すら着けてなかったっていうのに……え、チヨちゃん先生、本気で凄すぎない? こんなこと、実現可能なの!?
『お加減はどうですか、田島さん』
「チ、チヨちゃん先生!?」
天から響く可愛い声に、私は思わず感動に近い感情を胸に声を上げた。
「こ、これっ……チヨちゃん先生が作ったの!? 手足の感覚とか……歩く動作とかも、違和感なく行えるんだけど……めっちゃ凄いじゃん! 売れるよ、コレ!」
『え? そ、そう……? 私、凄いかな。えへへ』
「凄いよ~! こんな技術があるならVRMMOゲームだって作れちゃうじゃん! ゲーム市場、独占できちゃうよ! ちょっとさ、ゲーム開発部の奴らとか使ってさ、いっちょ大事業立ち上げてみない?」
『えぇ~、でもそんなぁ……まだ、自信ないし』
「大丈夫だって! ほら、私も手伝うし! だからちょっとバーチャル解除して、話し合おうよ」
『う、うん…………ハッ、だめだめ! い、今はマナーの補習なのです! 田島さん、変なこと言って私を懐柔しないでくださいっ』
「むぅ、バレたか」
いや、感動したのは本当だし、もしチヨちゃん先生がゲーム開発なんてし始めるなら面白そうだから、一枚噛ませて欲しいという気持ちも本物だ。
――ただ、明らかにマナーに偏ったシミュレーションが起こりそうな、現バーチャルを停止したいだけで。
『田島さんは油断ならないのです。あ、危なかった……』
褒めると子供らしく、すぐに喜びを露わにする我らがチヨちゃん先生。
さっきもすぐにテレッテレになったことからも分かる通り、チヨちゃん先生はチョロい。だからおだてれば、すぐにバーチャルを解除してくれると思ったけど、どうやらチヨちゃん先生のこのマナー補習への思いの丈は予想以上に強いらしい。
『さぁ、補習の始まりです、田島さん! 行きますよッ!』
「え、い、行くって何が!?」
『もちろん、自転車スマホの危険性を、です!』
そう言うや否や、今まで人の気配が無かったバーチャル通学路に人影が浮かび始める。
校門とは逆方面――私がいつも朝に通学する方角、緩やかな坂道の上からだ。
「――へ」
その人影をジッと見やると、どうやら自転車に乗った男子生徒のようだ。その男子生徒は右手に持ったスマホ画面にご執心のようで、歩道の真ん中にいる私には見向きもしていない。
……まさか、自転車スマホの危険性、マナー・シミュレーターって――。
「うわっ!」
速度を緩めずに接近してくる自転車を、私は慌てて塀側に避けた。
『どうです、危ないでしょ?』
「チ、チヨちゃん先生? ま、まさかと思うけど……これで私に仕返ししようとか思っちゃってる?」
『仕返しだなんて、とんでもないのです! このバーチャル・マナー・シミュレーターは、ちょっとした気配り……マナーがいかに重要なことか、それを被害を受ける側として経験し、理解してもらうというのが趣旨の立派な授業なのです。云わば仮想課外授業なのです!』
「加害授業……じゃなくて?」
『……? なんだかニュアンスに棘を感じましたが、まあいいでしょう。さ、次行きますよ! 次はシミュレーション2、ホーミング・チャリ・スマホ。通称HTSです!』
なんじゃそりゃ!?
――なんて考えているうちに、通り過ぎた自転車と男子生徒はスゥーッと消えていき、再び坂道の上に登場する。まるで次弾装填された弾丸のように見えた。
男子生徒は先ほどと同じように自転車を漕ぎ始め、スマホを見ながら坂道を下ってくる。
「こーいうのは気づかないからこそ危ないわけであって、はなっから視界に収めときゃ避けるのなんて分けないよ!」
私は自転車と対峙し、その進行方向に被らないように予め回避行動をとった。
――しかし、そのまま通り過ぎるかと思った自転車は急に蛇行し始め、ぐるんと曲がった前輪が私の方へと向き直る。
「へ!?」
そして意表を突かれた私は避けることが叶わず、そのまま右膝に自転車の前輪が直撃してしまうこととなった。
「あたっ」
痛み……というほどではないけど、ゴム質のような物体が擦れるような感覚が僅かに走り、私は衝突した瞬間に消えていく自転車と男子生徒を唖然と見送った。
ホーミングって、こういう意味!?
「ちょ、ちょちょ……チヨちゃん先生!? あ、危ないよ、このシミュレーション! 普通にピリッときたんだけど!」
『大丈夫なのです! 痛覚レベルはかなり低くしてますので、ダンプカーでも突っ込んでこない限り、そんなに痛くはないはずなのです』
比較対象がダンプカーとか、より一層痛覚レベルの基準が分かりにくいわ!
「確かに言うほど痛くはないけど……でも、心臓に悪いよ」
『そう、心臓に悪いのです。田島さん、良く分かっているじゃないですか。それが自転車スマホをしていた貴女が"起こし得る"危険行為の一端なのですよ? 貴女が大丈夫大丈夫と慢心していても、いつか必ず想定外の事態というものは起こります。というか既に朝、起こってます。その時に困るのは貴女なのですよ? 今日は相手が私だったから丸く収まったものの、これが強面のこわーいお兄さんだったらどうします? 貴女一人でどうにかできると思いますか?』
「…………ぅ」
チヨちゃん先生の指摘が正論の矢となって胸に突き刺さる。
そうか……シチュエーションが違うとはいえ、私が衝突の際に抱いた気持ちを、チヨちゃん先生も同じくして抱いていたんだ。チヨちゃん先生は優しいから許してくれたけど、私はどこかその優しさに甘えていたのかもしれない。
「ごめ――」
『それじゃ、次行きますよー』
素直に謝ろうと思った言葉を遮り、チヨちゃん先生がとんでもないことを言い出す。
「え、ちょっ」
『シミュレーション3! 名付けてぇ~、片手運転・前方不注意は大事故の元! 電柱とキスしたくなけりゃスマホは見るな前を見ろ――なのです!』
「あわっ!?」
風景が黒板消しに拭き取られていくかのように消えていき、今度は急斜面の頂上部に私はいた。
体勢に違和感があると思ったら、どうやら私は自転車に乗っているらしい。何故か左手にはチヨちゃん先生が映し出されたスマホが、右手はハンドルを握っている。
ぐっ、ぐっと身体を動かそうとするが、万力に固定されたかのように私の姿勢は変わらなかった。というか目を閉じることすら禁じられているようで、思わず脂汗が私の頬を伝っていった。
「チ、チヨちゃん先生……い、嫌な予感がするんですけどぉ~……」
声が震える。
チヨちゃん先生の告げたシミュレーション名とシチュエーションを考えると、自ずと辿り着く答えは一つな気がする。
『先ほどは轢かれる側のシミュレーションでしたが、次は運転する側自身に起こりうる事故、というものを体験していただくのです』
強制的に持たされたスマホの液晶に映ったチヨちゃん先生は、なんてことないようにそう告げた。
「ちょ、ちょっと待とうか、チヨちゃん先生?」
『待ちませーん! では田島さん、レッツラゴーなのです!』
「うひゃ!?」
勝手に両足が動き出し、ペダルを漕ぎだす。
がっしりと首と顔が固定されているので、私の視界に入ってくるのは――前輪部分と、液晶内のチヨちゃん先生、そして徐々に後ろへと流れていくアスファルトの地面だけだ。
自転車に乗りながらスマホを操作していた時も、似たような光景だったはず。そう、普段から見慣れている視界だというのに……今は心臓が大きく鼓動を鳴らし、加速していく風景が凶器のように見えて仕方がない。
『いいですか、田島さん。いつも無意識にしている行為が、いざ意識するといかに危険で恐ろしいものなのか。悲しいことに人がその事実に気付くときは、いつだって問題が起こった後なのです。しかし問題が起こってからでは遅い……ゆえにその問題を疑似体験できるバーチャル・マナー・シミュレーターが重要になってくるのです。意識改善という分野において、将来の礎に――』
チヨちゃん先生が何やら熱く語っているが、私の耳には半分も届いていない。
斜面による慣性と、ペダルを漕ぐ力が合わさり、今やブレーキを引きたくなるレベルの速度となっていた。
『あ、そろそろ――』
そろそろ!? 何が!?
不吉な言葉に私の意識がチヨちゃん先生に向いた瞬間――ガクン、とハンドルが何かに取られる感覚が右手から伝わってきた。
「ひっ!?」
今の感覚には覚えがある! 石だ! 前輪が石か何かの障害物を踏んだ際に、ハンドルが急に左右にブレる時と似た感覚だ!
そこで漸く私の固定された首の自由が戻り、慌てて顔を上げた。
――しかし、時は既に遅く。
眼前には歩道脇に立つ電柱があり、私はブレーキもハンドルを切ることも出来ず、前輪を大きく電柱にぶつけ、衝突の衝撃によって全身が前方へと浮き上がっていく。
スローモーションのように近づいてくる電柱の側面と、私の唇がぶつかりそうになり――、私は悲鳴を上げて目を強く閉じた。
「きゃあああああああああーーーーッ!」
「田島さーん」
ペチペチ。
「し、死ぬぅぅぅぅぅーーーーッ!」
「田島さ~ん。もうシミュレーションは終わりましたよ~」
ペチペチペチペチ。
「電柱とキスが死因だなんて、嫌ぁぁぁーーーッ!」
「むぅ、ちょっと刺激が強すぎましたでしょうか……田島さぁーん、起きてくださーい!」
ペッチペチペチペチーン。
「……………………………………へ?」
「あ、気が付きました?」
小さな掌が頬を叩く衝撃に、ようやく私の意識は現実世界へと浮上していった。
気付けば、私は教室床に敷かれたマットの上に横たわっており、すぐ隣で正座しているチヨちゃん先生に顔を覗きこまれている状態であった。
「ごめんなさい。良い教訓になると思って、昼のうちに組み込んだプログラムだったのですが、少し刺激が強すぎたみたいですね。田島さんに言った自分の言葉がブーメランで返ってきちゃいましたね……。今度からはちゃんと自分でテストしてから実践するかどうかを考えるのです」
「……え、夢?」
「夢ではなく、バーチャルなのです」
「バーチャル……そ、そうだったね。うぅ……マジで死ぬかと思ったぁ」
「大丈夫ですか? もう少し休んでいかれますか?」
「うぁー、チヨちゃん先生が膝枕してくれたら治るかもー」
「元気そうなのです。さすが田島さん、タフなのです」
「素直に心配されると、憎まれ口を叩きたくある性分なの~」
「気難しい性分ですね、もう」
そう言いつつも、膝枕をしてくれるチヨちゃん先生、やっぱりチョロい。
私はもぞもぞと小さな太腿の感触を楽しみながら、バーチャル・マナー・シミュレーターでの出来事を思い浮かべた。
とんでもないリアリティだった。特に最後の電柱激突シチュなんて、未だに鳥肌が立っているぐらい現実味を帯びた恐怖を感じたぐらいだ。
「……」
私はスカートの上からスマホを擦った。いつも通りの手触りのはずなのに、どこかズッシリと重みを感じるのは気のせいだろうか。
「――それで、どうでしたか?」
「どうって……凄かったよ。元々チヨちゃん先生の発明は凄いと思ってたけど、あんなもんまで作れるだなんて思ってなかった」
「それだけですか? いえ、もちろん私の発明を褒めてくださるのは嬉しいのですが……今日の一連のシミュレーションはマナー講座の補習授業なのです。きちんとその成果が出て無ければ意味がありません。……もうスマートフォンを操作しながら自転車を乗ったりしませんか? 歩きスマホも同様ですよ? 歩こうが自転車に乗ろうが、他人へ迷惑をかける可能性は同等に存在するのです」
「…………うん、考えてみる」
一瞬、朝の反省のように「分かった」と口にしようと思った。でも口をついて出たのは「考えてみる」だった。どうしてそんな言葉が出たのか自分でも分からないけど、あのバーチャルでの出来事を思い返しながら、普段の自分の行為を見つめ直していると、何故だか自然と――その言葉が出ていたのだ。
「ふふ、そうですか。それは良かったのです。田島さんは安易にイエスと言わず、今日の出来事、私の言葉を受けて、真摯に自分の行動を顧みてくれるのですね。田島さんはヤンチャなところが多々見受けられますが、その反面、きちんと人の話を聞く耳も持っていると先生は思っているのです。先生の気持ちが届いたようで嬉しいですよ」
「…………むー、チヨちゃん先生が何だか先生っぽいこと、言ってる!」
「先生なんだから、当たり前ですっ!」
チヨちゃん先生に主導を握られるのが何となく面白くなくて、はぐらかすようにアホなことを言って話の矛先を逸らした。
「あ、因みに今日はマナーとしてシミュレーションを経験してもらいましたが、自転車でスマートフォンを操作しながらの運転は、マナー以前に法による罰則がつきますから、そこもきちんと覚えておいておくのですよ」
「え、マジで」
「マジなのです。自転車も車両の一種ですからね。道路交通法や都道府県の条例にも定められているので、警察に補導される……という危険性もちゃんと頭の隅に置いてくださいね。お父さんやお母さんに心配をかけちゃ駄目ですよ?」
「は、はぁ~い……」
なるほど、そもそも私は法自体すら守っていなかったらしい。
バーチャル・マナー・シミュレーターを受ける前に「刑罰の対象にしちゃえば皆やらないのに」だなんて偉そうなことを考えていた自分が恥ずかしい。法律にどんな事項が書かれているかも知ろうとしないで、よくもそんなことを言えたもんだと、思わず大きなため息をついた。
――その日の帰り、私は一度もポケットからスマホを出すことなく、そのまま帰宅することとなった。
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そして翌朝。
「行ってきまぁーす」
キッチンにいるお母さんに挨拶をして、私は自転車の鍵を持って家を出る。
玄関脇の自転車の鍵を外し、私はスカートのポケットからスマホを取り出す。
「…………」
昨日の朝までは、あれほどスマホで「あれしなきゃ」「これしなきゃ」と思っていたはずなのに、今日はやけに色褪せて見えた。
別に今までやっていたゲームを止めたわけでもないし、ブログ巡りに飽きたわけでもない。昨日の夜だって夕飯後に普通に自室でゲームの続きをやっていたぐらいだ。
――ただ私の頭の中で新たなケジメという線引きが生まれ、今この瞬間にスマホを弄るという選択肢は「あり得ない」と信号を送ってくるのだ。
「これが意識してるか、そうでないかって違いなのかなー」
脳裏に浮かぶチヨちゃん先生に軽くデコピンして、私は通学鞄の中にスマホを放り投げた。
すぐ取り出せるポケットにしまわないのは、私なりの「答え」だ。バーチャル・マナー・シミュレーターを経て、己を見つめ直し、考えた末の――答え。
「うっしゃ、行くか」
久しぶりに両手できちんと握るハンドルの感触は――とても頼もしい、と感じる朝であった。