姉妹
シアに手を引かれて、ナフィーサは石で出来た階段を上った。始終無言の2人。上りきって出た先は、遺跡の屋上だった。
だだっ広い平面の中心に、見上げるほど巨大な涙滴形のオブジェがあるだけで、あとは石板が敷き詰められただけ。城のバルコニーなどと比べると、ナフィーサにはあまりにも殺風景な場所に感じた。
「はあ、いい眺めだぁ!」
屋上に出ると、シアはナフィーサの手を離し、1人前方へと駆けて行った。
ナフィーサも、彼女の後ろをゆっくりと歩いて追う。
シアに追い付き、彼女の隣から同じ方角を見ると、その壮大な景色に目を見張った。崖の上にあるこの遺跡屋上からは、王都や他の街、砂漠、自分が回って来た場所の殆どが見え、まるで国が一望できるのではと思えるほどだった。当然、これから向かう天秤山も見える。
目の前の壮大な景色に見とれていると、シアから声が掛けられた。
「ナフィーサはさ、作戦に参加するのが怖いの?」
「……どういうことですか?」
「ダガフを止めに行くの、ずっと反対してたでしょ? 私にはそれが、怖がってるように見えたから」
ナフィーサは無意識に服の裾をぐっと握った。
「そんなことはありません。ただ、ジャファドさんたちの言うとおりにしていいのか、疑問があるだけです。私達を騙していたサイードと彼らが敵対するからといって、彼らの言うことが真実であるとは限らないのですから」
ナフィーサは、シアの方を見ずに言った。
シアが、ふぅっと呆れ混じりの息を吐いた。彼女も遠くの景色に視線を向けたまま、ナフィーサの方を見てはいない。
――そんなことを聞きたいんじゃない。
シアのそんな気持ちが伝わり、ナフィーサは気色ばんだ目をちらりと彼女に向けると、その視線に気づいてか、シアもナフィーサの方に向いた。
「本当は、あの人たちが言ってることが嘘じゃないって、分かってるんでしょ?」
言葉が出ない。
無言の王女に、シアが続けて言った。
「ナフィーサはさ、作戦に参加することが怖いから、理由をつけて逃げてるんだよ」
――ドクンッ
その瞬間、ナフィーサの心臓が強く打った――怖い……その通りだ。
しかし、それと同時に怒りが沸いて、言葉が口を突いて出た。
「そんなことはありません! 本当に国を救うことが出来るなら、私は戦いの中で傷つくことも怖れません! 怖れて逃げているなんて、私の覚悟を侮らないでください!」
「……ちがう。そうじゃない」
シアの真剣な眼差しが、真っ直ぐに見つめてくる。そこに映る感情は、怒りでも労りでもない――推し量れないものだった。だが、言い知れない圧力があった。
その眼に見つめられたナフィーサは、彼女の言うことを否定したくて突発的に燃え上がった怒りの火が、自分の中で、しゅんと消えていくのが分かった。
――その通りだ。そんなことを怖れている訳じゃない……
うっと再び言葉に詰まる。
シアの視線は、心の裏側を見透かし、そこある“目を背けたいもの”に向き合う様に言われている気がした。
ナフィーサはシアから目を背けた。
心臓の音だけが一際大きくなる。
――やめて、言わないで……
言葉のないナフィーサをまっすぐ見つめたまま、シアの口が開いた。
「あんたが怖がってるのは、また土壇場で歌えないこと。しかも、今度は代わりはいない。自分のせいで失敗に終わることが怖いんだ」
ナフィーサの肩がびくりと動いた。
国を救うと大義名分を掲げ、どんな困難にも立ち向かう覚悟はあった。外にもそう示してきたつもりだし、自分にも言い聞かせてきたのだ。それは、城の中で自分の無価値さを嘆いていた、何もない自分に戻りたくない一心から来るものだった。
――“力”は得た。
――もう“何もない私”、“何も出来ない私”ではないんだ。
そう思っていた。
しかし、離宮に突入した際、自分を庇って血まみれになったシアを見て、パニックに陥り、その“力”を発揮することが出来なかった。
散々に示してきた覚悟とは何だったのか。
例え力があっても発揮できなければ、結局は“無価値な自分”なのだと、ナフィーサは考えずにはいられなかったのである。
もし、また歌うことが出来なければ、こんどこそ本当に、自分は無価値なのだと否応なしに実感させられてしまう。
再び、何もない、何も出来ない自分に戻ってしまう――国や両親たちを救えないという結果以上に、それが怖かった。
「そうでしょ?」
体を強張らせ、無言でいるナフィーサに、シアが挑発的に首を傾げて聞いた。
「特別な“力”があるだけじゃ意味がない。それを使って、何かを成し遂げられなきゃ意味がない。逆に、それが出来ないなら自分に価値はないんだって考えてるでしょ? だから失敗するかもって考えると怖い」
シアの言うことは、もう1人の自分が言っている様な錯覚を覚える程に、ナフィーサの心の内を言い当てていた。
黙って聞いていたナフィーサは、ついに抱えていたものを爆発させた。
「ええ、怖いですよ!! また歌えなかったら、国も、家族も、国民も、みんな助けられない!」
大声で叫んだ。
思いの丈を全てぶつける様に、ありのままの感情を吐き出す。
「なにより、何も成しえない自分に戻ってしまうのが、怖くてしょうがないんですよ!!」
初めは“特別な力”を得て舞い上がっていた。
しかし、自分が本当に欲しかったものは、憧れたシアが持っていた。
それは、才能や能力ではなく、彼女の様に世界に必要とされるような“価値”だった。
そして、その“価値”を持つには特別な力に対して求められること、それこそ使命や天命といえることを、成し遂げる必要があった。
つまり、特別な“力”とは、価値を得る為の手段でしかなく、その手段で何かを成し遂げることが出来きて初めて、自分の価値を証明できるのだと、ナフィーサは考えるようになっていた。
だから、成し遂げられなかった時――失敗した時、それは逆に、無価値の証明。
もとの何も出来ない自分に戻ってしまうことが、怖くてしょうがなかった。
「その気持ち分かるよ」
シアが落ち着いた声で言った。
「貴女なんかに、私の気持ちが分かるわけない!」
「どうしてそう思うの?」
ゆっくりと丁寧に話すシアに、ナフィーサの気分も冷静さを取り戻してゆく。
「……だって、貴女は色んなものを持ってます。才能も環境も、そして、世界中に認めれて、成功してて、輝いてて……自分に何もないことへの苦悩も恐怖も、貴女には分からないでしょう」
ナフィーサの僅かに嘲笑めいた感じ乗る言葉にも、シアの表情は変わらなかった。変わらず真剣なままである。
「ナフィーサはさ、ホテルで、私が『自分が持ってないものを沢山持ってる』って言ってたね。そんで、今は『自分には何もない』って。でもさ、私からしたら、あんたの方が沢山持ってるって思うよ」
シアの言っていることが理解しかねるといった雰囲気を、ナフィーサの眉間に寄った皺が語った。
「私は、スカウトされて国外に行くまでは、ハザイの街の孤児院にいたんだ。貧乏な孤児院でね。服はボロボロだし、いっつもお腹を空かせてた。
そんな痩せっぽちの貧乏人にも、ささやかな楽しみがあってね。それがお祭りだったんだ。
それである時、街のお祭りに王族が来たことがあってさ、遠くからだけど、あんたのことを見たんだよ」
ナフィーサは、過去一回だけ、城の外に出た時のことを思い出した。昔、誕生日のお祝いにと、父に我がままを言って公務に連れて行ってもらった時だ。厳重に守られて、自由に街を見物するなんてことは出来なかったが、街の祭典を高い所から見た記憶がある。
「同い年なのに、すっごくキラキラしてて、幸せそうで羨ましかった。家族がいて、沢山の人に大切にされてて、着るものに困ることもお腹を空かせることもないんだろうなって。
それは今も同じで、王女様だから当然なんだけど、私なんかが持ってないものを沢山持ってるって思う。何より王女様って輝かしい価値があるじゃない」
「そんなの、私が自分の手で手に入れたものじゃない。貴女は、私の王女という面しか見ていないから、そんな風に思うのですよ。私はナフィーサ個人としての自分の価値が欲しいんです。勝手に、私が何でも持っているなんて決めつけないでください!」
「決めつけるか……それは、ナフィーサだって一緒じゃない」
ふっと息を吐きながら、ナフィーサは風に乱れた前髪をかき上げた。
「今は、成功を収めたと思う。スカウトは、ジャファドの計画の内だったかもしれないけど、色んなものを自分の力で掴み取ったって自信を持って言える。でも、さっきも言ったけど、孤児だった私には何もなかった。お金も地位も、家族も。
私にあったのは、歌だけだった。唯一の“力”が歌だったんだ。
だからね、いつも怖いんだよ。自分の歌が失敗すれば、全て無くなるんじゃないか、また何もない人間に戻るんじゃないかって。それでも、怖い気持ちと戦ってきたの。
私があんたの持ってない“価値”ってやつを持ってて、キラキラ輝いて見えるってのはね、その恐怖にいつも全力でぶつかって戦ってきたからあるの。価値を証明するってのは、そういうことよ
私だけじゃない。自分の価値を証明しようとする人は、みんなそういった恐怖と戦ってるの」
ナフィーサは、身体の芯に衝撃を受けた。目の前のシアの真っ直ぐな瞳を見つめたまま、金縛りにあった様に微動だに出来なかった。
「それでもあんたは運がいいよ」
「……え?」
シアの真剣な顔が、優しい微笑みに変わった。
「この前の離宮で失敗しても、こうしてまた自分の価値を証明するチャンスが回って来たんだから」
上手く呑み込めず、目をパチパチとさせるナフィーサを見て、シアは目を細めて言った。
「だってそうでしょ? ダガフを破壊する歌っていう“力”で、国を救うっていう目的にまた挑めるんだよ? ナフィーサしか出来ないこと、自分の価値を証明することの出来るもう一度来たチャンスでしょうよ」
「それはそうですが……」
「考え方次第よ。無価値になるかもしれない恐怖とは、絶対に戦わなくちゃいけない。だったら、その戦いをもたらす状況を災難と考えるか、チャンスと考えるかよ」
その言葉に、ナフィーサは心の底に火が灯った様な気がした。その火は燃え盛り、心に溜まった重い闇を消し去ったのである。
そして、彼女の瞳には、その火が光となって灯った。
「ふふ、いい目になった」
そう言ってシアはおもむろに、ナフィーサの頬を撫でた。
「覚えておいて。自分の価値を証明する戦いは、無価値になってしまうかもしれない恐怖との闘いってことをね」
「………………はい」
「よし! じゃあ、戻ろう。そろそろ準備が終わるはず」
来た方へと向きを変えたシアを、ナフィーサが呼び止めた。振り返った先では、ナフィーサが照れくさそうにやや俯いていた。
「その……ありがとうございます。でもどうして、私にそこまで色々と言ってくれるんですか?」
俯いたまま、ちらりとシアを見た。
「ん? 私は元気がない人を元気づけるのが、使命みたいなもんだからね。なんせ、歌手ですから。それに――」
そう言いかけたところで、シアがくるりと向きを変え、また屋上の出口の方に歩き出してしまった。何を言いかけただろうかと、気になったナフィーサが後を追おうとしたところで、シアが顔だけを振り向かせて、にっと笑顔を向けて言った。
「私はお姉ちゃんだからね」
それを見てナフィーサも、自然と顔が綻んだ。そして、シアの隣に並び、2人で歩き出した。
「それは認められませんね。姉は私です」
「ええ? 絶対にナフィーサが妹だよぉ」
双子の姉妹は、寄り添うように並んで歩きながら、取り留めない会話に花を咲かせた。十数年、他人だった時間がなかったかのように打ち解けた2人の足取りは軽く、遺跡の中に軽快な足音を刻んで下階へと降りて行った。




