始まりは潮風にのって
清々しい風にのってカモメが大空を泳いでいる。その風は同時に潮の香りをのせて運んできていた。
メリッサは、髪をかき揚げ海の香りを深く吸い込んだ。すると爽やかな気分が体全体に満ちてゆく。
今、グレンザール警備会社の一同は、大型船に乗って海上にいる。もちろん仕事の為である。
「うっわぁ、でっかいなぁ!」
「あ、ヴァルちゃん、あんまり騒いじゃダメだよぉ」
甲板ではしゃぐヴァルをロゼッタがたしなめる。
「あ! あれなんだ!?」
しかし、ロゼッタの言葉にあまり効果はないようで、ヴァルは興味を引いたものに向かって手当たり次第駆けて行く。
「なになに!?」
そう言ってヴァルを追っかける褐色の少女がいた。ショートカットの髪を揺らして、無邪気な表情でヴァルと走り回っている。
この健康的な美しさと活発さを振り撒きながら走る少女が、今回の依頼人である。
♦ ♦ ♦
彼女がメリッサ達に依頼をしに来たのは、数日前のことであった。
ドラフトの1件から翌日、その日はグレンザール警備会社はいつもの様に営業していた。
昨晩はドラフトを取り逃がしたことで、警部に八つ当たりに近い嫌味とも説教ともいえる小言を散々言われ、落ち込んだ気持ちを更に沈められた。
心身ともにヘトヘトになり、事務所に帰って来れたのは空が白み始めた頃だったため、その日は休業してゆっくり休息をとったはずだったが、任務失敗が尾を引いて、メリッサは気分も体もなんとなく重かった。
「はぁ……」
静かな執務室に彼女の溜息が響く。
「ちっ、辛気臭い。こちらの気分まで重くなるわ」
パラパラと本を捲る手を止め、クロードが煩わしそうに眉間に皺を寄せてメリッサを一瞥した。
「お嬢様、あまりお気になさらない方がいいですよ」
そう言ってマリアが紅茶の入ったカップをメリッサの机に置いた。ほんのりと部屋全体に、オレンジフレーバーのいい香りがする。
「今日は、気分をさっぱりさせる柑橘系の香りのお茶にしました」
「ありがとう、マリア。どうしても、あの時が悔やまれてな。私がもっとしっかりしてたら、奴を逃さなかったのに……」
「それを言ったら、私たち全員にあの泥棒を逃した原因があるんですから、お嬢様だけが悪いんではありませんよ」
マリアが優しく笑いかける。メリッサも自身を無理やり納得させるように、ふうっと息を吐いてから、困ったような眉だが笑顔を作って見せた。
「ふん、傷の舐め合いだな」
「クロード?」
クロードが、ぼそっと辛辣な言葉が呟くが、マリアの圧力に負けて、退散する様に本に視線を戻した。
「そうだ。お嬢様、音楽を掛けましょう! いい気分転換になりますよ」
執務室の掃除をしていたロゼッタが弾む声で提案した。彼女は、メリッサの返事も聞かずに、脚部の車輪を滑らせて、音奏器と呼ばれる装置に近づいて行った。
「フン、フフン、フン」
鼻歌混じりに、ゴーレムの体を揺らして音楽をかける姿は、年相応の少女らしく微笑ましい光景だ。
床がミシミシ言うのが少々心配だが。
彼女がスイッチを入れると、軽快なリズムの音楽が流れだした。アップテンポの曲に合わせて、透き通るが力強い若い女性ヴォーカルの歌声が響く。
メリッサは、流行の歌には疎かったが、この歌手が凄い歌唱力があることは分かった。自然と気分が軽くなる。
「へぇ、いい曲だな。歌も上手い。不思議と人の心を掴むいい歌声だ」
「ですよね! やっぱりシアは最高です! ヴァルちゃんも、シアのこと大好きなん――」
「おぉ! やっぱり、シアの曲だぁ! ひゃほぉい!」
1階の喫茶店で働いてるはずのヴァルが、執事室に飛び込んできた。ロゼッタの横に並んで、2人でリズムに乗りながら、合唱し始めた。
「お、おい、ヴァル、下は平気なのか?」
ヴァルの突然の乱入に驚きつつも、気持ち良さそうに歌う彼女に、メリッサが問いかける。
「ラララー……あ、やば、オーダー貰ってたんだ」
ヴァルはばつが悪そうに、てへへと笑って頭を掻いた。
「あのぉ、すみません……」
突然、女性の声がして、皆が執務室の入り口の方を一斉に見ると、そこには2人の人物が立っていた。
1人は、スーツに身を包んだ二十代半ばといった感じの褐色の女性で、もう1人も肌は褐色で、パーカーにジーンズ、帽子とラフな格好の大きなサングラスをした人物だった。
サングラスの方は、スーツの女性より背が低く、若い感じではあったが、髪がショートカットなので、少年なのか少女なのかは、一見分からなかった。
「あ、あぁ、これは失礼しました。仕事の依頼ですか?」
音楽に夢中で、客が来ていたことに気付かなったようだ。メリッサは、恥ずかしさを覚えつつ、慌てて席を立って女性の方へ向かった。
「あ、はい。私、リーサ・ジャーマネンと申します」
そう言ってリーサという女性は、名刺をメリッサに渡した。名刺にはマックスプロダクションと会社名が記してあった。
「そして、こちらは……ほら、帽子とサングラスを取りなさい」
「ああ、はいはい」
リーサに言われて、執務室をキョロキョと見回していた隣の人物が、帽子とサングラスをとった。
「どうもぉ、シア・エトワールでぇす! 宜しくお願い致しまぁす!」
語尾を間延びさせながらの元気のよい自己紹介であった。サングラスの下には、長いまつ毛のくりっとした可愛らしい目があり、端正な顔立ちから少女だとすぐに分かった。
「これはどうも、はじめまして。私はグレンザール警備会社の社長、メリッサ・ソル・グレンザールです」
メリッサは、特に動じることなく2人に会釈をして、リーサに名刺を渡した。
「しかし、シア……どこかで聞いたような……」
なんとなくロゼッタとヴァルに関係あった様な気がして、メリッサは彼女たちの方をちらりと見た。
2人は固まっていた。
ヴァルは、口をあんぐりと開け、目が見開いたまま硬直している。
正直、女の子のしていい顔じゃない。
彼女のこの表情は、楽しみに冷蔵庫にしまっておいた限定販売のケーキが、アルレッキーノによって、まさに食べられている現場を発見した時と同じだとメリッサは思った。
ゴーレムであるロゼッタは、表情こそないが、もし表情があるなら恐らくヴァルと同じだっただろう。
2人とも、微動だにせず固まっているのである。
2人の反応から、シアと名乗る少女が、今、音奏器から流れている歌の歌い手“シア”であることをメリッサは思い出した。
硬直から一転、キャーキャー騒いでシアに詰め寄ろうとするヴァルとロゼッタを何とか宥めて、応接室にて依頼の話を聞くことにした。
「それで、依頼というのは?」
「はい、このシアの警護をしてもらいたいのです」
メリッサの問いに、マネージャーであるリーサが依頼の詳細について話し始めた。
「今度、サージャール国で行われる凱旋ライブツアーに皆さんに同行していただき、ツアー中警護に当たって欲しいのです」
「そうですか。ただ、VIPの警護でしたら現地でも雇うことができるのでは? もちろん、私どもも依頼人を警護することには自信はありますが、サージャール国に向かう道中も警護とは、随分厳重ですね」
「それが……ここ最近、シアが誰かに狙われているんではないかと思える不可解な事故が頻発しておりまして……」
リーサの話では、ライブツアーを取りやめるようにせまる脅迫文が送られてきたことに始まり、その後、イベント中にスポットライトが落ちてきたり、信号待ちをしているときにトラックが突っ込んできたりと幾つも危険な目にあっているという。
「いやぁ、人気者はそんだけアンチの数も多いからねぇ、あははは」
シアが頭を掻いて呑気に笑う。そんな態度の彼女を見て、リーサは呆れた顔をするが、すぐにメリッサに向き直り話を続けた。
「ですから、現地で雇うのではなく、サージャール国に向かう道中から警護して頂きたいのです。それに、御社が相当腕の立つ警備会社であることは聞き及んでおります」
「どなたかのご紹介ということですか?」
メリッサの言葉に、シアが反応した。
「そうだよ。ポンパドール夫人に教えてもらったの。ここなら、ちゃんと警護してくれる上に面白いことにも事欠かないって」
「ははは……それは恐悦です」
ポンパドール夫人の紹介をありがたいと思いつつも、若干、妙な紹介のされ方にメリッサは苦笑いした。
ポンパドール夫人は、よく冒険に行きたくなるとメリッサ達に同行を依頼してくる、このグレンザール警備会社の得意先だった。
彼女は、自身のファッションブランドを経営しており、シアとはそのブランドのファッションショーで、ライブパファーマンスをした際に知り合ったらしい。
「では、契約の詳細を話し合いましょうか」
そう言って、メリッサは机に依頼書を広げた。
♦ ♦ ♦
こうして、シアの警護の為、事務所のあるガルディア国から、海を挟んだ向かいのサージャール国へと向かうことになり、今はその途中の海上を大型客船に乗って航行しているというわけである。
「あははは、すっごいひろーい! あ、イルカが跳ねた! 行こうシア!」
「本当!? 行こうヴァルちゃん!」
「あ、2人ともまってぇ!」
大型客船の甲板を縦横無尽に走り回るヴァルとシア、その後を慌ててロゼッタが追っかけている。三人は初めこそファンと歌手という関係だったが、すぐに打ち解け、今ではすっかりは気の合う友達だ。
「はぁ、ヴァルのやつ……」
警護そっちのけではしゃぐヴァルに、メリッサの表情は渋い顔になった。
「あの……」
「あ、いや、リーサ、ヴァルも遊んでるように見えますが、あれでも腕は確かですし、ちゃんと周囲を警戒してるんですよ、本当に」
不安そうなリーサに、メリッサは不味いと思い、あたふたと取り繕った。
「あ、いえ、シアがあんな風に心から楽しそうなのは久々に見ました。いままで年の近い友達がいませんでしたから。その点でも御社で良かったと思ってますよ、ふふふ」
メリッサの慌て方がおかしかったのが、リーサがくすくすと笑った。
「ただ、あれは……」
そう言い淀んだリーサの視線の先を見ると、アルレッキーノが知らない女性客に話しかけていた。
「まさか、伝説のローレライをこんな所でお目に掛かれるとは、船旅もしてみるものですね。
私のことかって? もちろんですよ、お嬢さん。その美貌と美しい声で船乗りたちを惑わすという妖精、ローレライ、それが貴女だと確信しました。
違うって? ふふふ、そうは言ってもその魅力は隠しきれていないですよ。その証拠に、僕はもう貴方に魅了されてしまったのだから。
ただ、ローレライに水夫が魅入られると、その船は岩礁に乗り上げ転覆するとか。私としては、お嬢さんの魅力でこの船が転覆するのは避けたい。
ですから、貴方がここに佇んで、水夫たちを魅了してしまわない様に、私と2人きりに――ごふっ!」
女性客の手を取った瞬間、ロゼッタのゴム弾がアルレッキーノの体を横に吹き飛ばし、倒れて投げ出された足をヴァルが慣れた様子で掴んで、ずるずると引き摺って行った。
「あ、あれはまぁ、依頼に集中するためのルーティンというか儀式というか…………ごめんなさい」
「は、はぁ……」
メリッサは、もはや言い訳が見つからずリーサに頭を下げた。
「ほら、起きてアル」
「いいところだったのに、酷いなぁ、君たち」
ヴァルの手を取って起こしてもらいながら、アルレッキーノは、しかめ面で文句を垂れた。
「お兄ちゃん、ナンパとか恥ずかしいでしょ、もう」
「あははは、アル君面白い! ごふっ!だって、あははは」
ロゼッタがプンプンと怒っている一方で、シアは腹を抱えて爆笑している。
「ねぇねぇ、アル、船の先頭でこの前、映画でやってたあれやりたい」
「映画? ああ、あの『私、鳥になってるわ』ってシーンのやつ?」
ヴァルが、アルレッキーノにねだったのは、ここ最近流行った映画のワンシーンで、船の先端で男性が女性の腰を掴み、女性が両手を広げ、海を走る船の上から鳥になった様な気分を味わうというものである。
ラブロマンスの心ときめくワンシーンに、ヴァルは憧れていた。
「わ、私もやりたい」
「面白そぉ、んじゃ私も」
ロゼッタとシアが、ぱっと手を挙げた。
「えぇ、3回もやるのぉ」
アルレッキーノは、辟易とした表情を見せながらも、しょうがないっといった具合に、女子3人に引っ張られて船の先まで歩いて行った。
「さぁ、レッツゴー!」
ヴァル達とキャッキャと盛り上がるシア。一見、平穏に見える光景であったが、彼女を狙う影はすぐそこまで迫っているのだった。