可愛くなりたい
「可愛い女の子になりたかったなぁ」
目の前でカリカリと動いていたシャープペンシルが止まり、トレードマークとも言える赤と黒のヘッドフォンを首に引っ掛けた男が顔を上げる。
澄んだ翡翠の瞳が私を映す。
「女だろう」
「可愛くはないけどね」
羨ましいくらいに長い睫毛を揺らし、瞬きをした男の言葉に項垂れた。
こう、何と言うべきか。
上手く話が伝わっておらず、会話のキャッチボールになっていない。
放課後の図書室、というものは、人気がなく非常に静かで、聞こえるものと言えば、男が参考書を捲る音だとか、シャープペンシルが文字を書きつける音だとか、そういうものだ。
ピッタリと閉じた窓からは、時折薄らとどこかの運動部の掛け声も聞こえる。
男はシャープペンシル片手に、小首を捻った。
サラリと流れる青っぽい黒髪は、今日も今日とて素晴らしいキューティクルで、艶やかに天使の輪を生み出している。
「ほら、隣の隣のクラス。C組のマドンナ、名前は確か……そう、原 小春さん」
「誰だそれ」
男の方へと右手人差し指を向けたが、当の本人は、はて、とますます首を捻る。
この男は、本当に人の顔と名前を覚えない。
僅かに痛んだ米神を一撫で。
「栗色の髪を、毎日毎日丁寧に巻いてる女の子だよ。薄化粧で、程良く乗せられた桃色のチークは化粧上手の証拠だね」
私の頭の中では簡単に思い浮かべられる顔。
しかし、目の前の男はそういうわけでもないらしく、シャープペンシルを持っていない方の手で、下唇をなぞる。
「控えめで、男の三歩後ろをついて行くようなタイプ。そういうの、好きじゃない?」
自分の耳に付けたピアスを撫でながら問い掛ければ、男の首の位置が戻る。
下唇を撫でる手は止まらないが、その薄い唇が開かれて、言葉を紡ぐ。
「興味無いな」
「でーすよねー」
ハッハッ、と笑う。
男の眉間に一本だけシワが生まれたが、特別気にすることでもないので頬杖をつく。
私は知っていた。
数日前に、丁寧に髪を巻いて、愛らしく頬を人工的に染めた他クラスのマドンナが、女の子らしいピンクの封筒にお花のシールを貼り付けて、この男を呼び出したことを。
男の態度からして、覚えているのかは不明だが。
さて、女が男を呼び出す理由は一つだろう。
もし他に予想外のことがあったとしても、それは本当に予想外なので知ったこっちゃない。
それはそれで、驚きに溢れているが。
逆に男が女を呼び出す理由だって、ほぼほぼ同じだと思っている。
「生憎、巻けるほどボリュームのある髪でもないし、薄くて可愛いピンクの似合う肌色でもないんだよねぇ」
頬杖をついたまま、態とらしく息を吐く。
癖のない黒髪をウルフカットにして、青みがかっていると呼ばれる血色の悪い肌の私。
生憎、可愛いとは対極にあった。
「髪は分かる」
「ハッキリ言われるとムカつくよね」
「でも、ピンク似合わないのか」
とうとうシャープペンシルが動き出す。
大学ノートに並ぶ文字は、逆方向から見ても美しく整っている。
まるで書写のお手本のようだ。
その文字を見ながら、私はそうだね、と頷く。
ウルフカットで伸ばす襟足同様に伸ばし気味の前髪が揺れ、視界を悪くした。
「基本だよ。肌色には大きく分けて二つ、イエローベースとブルーベースがある」
頬杖をついていない左手で、人差し指と中指を立て、二つを示す。
男は参考書を捲って、一瞬だけ私の指先を見た。
「イエローベースは言い方はアレだけど、色黒気味だけど健康的に見える。ブルーベースは色白気味だけど、逆に不健康に見えるんだ」
左手を男に伸ばす。
男のシャープペンシルがぽきり、と音を立て、数ミリの芯を飛ばした。
手の平で触れた男の頬は、男の癖にキメ細かく、スルリと良く滑る。
何の手入れもせず、よくそんな素晴らしい肌を保てるものだ。
実に羨ましい、と目が細くなる。
無遠慮に頬を撫で回されている男の方は、眉間のシワを二本刻み、カチカチ、シャープペンシルの芯を出していた。
「私も君も同じブルーベースだ。不健康仲間」
「俺は元々の体質」
「私だって気を付けているだけで、別段、病弱系の不健康じゃないよ」
頬から手を離し、肩を竦めた。
男は、キメ細かい肌を持ち、色も白い。
美容に興味の無い女の子でも、それは非常に羨ましく、どう手入れしているのか聞きたくなるだろう。
実際のところ、手入れなんてこれっぽちもしていないのだから羨ましいを通り越し、小憎たらしい。
因みに私は、日焼けをしたくないので、春夏秋冬、季節を問わずに日焼け止めを愛用する。
ジェルタイプの、肌馴染みがいいやつだ。
なんなら、長袖長ズボンも多く、休日には日傘を愛用している。
「まぁ、私や君が不健康か否かは、今のところ重要じゃないんだけど……。イエローベースには、ピーチ、コーラル、サーモン、シェル。肌馴染みしやすい、同じ黄み寄りのピンクだ」
オレンジピンクでもいいよ、とは言ってみても、そこまで色に詳しくはないだろう。
ピンクはピンクだ。
薄いか濃いか、くらいの違いはあれど、目の前の男からすれば、どれも同じに思える。
「ブルーベースには、深めの色だね。ローズ、ベビー、フェーシャ、チェリー。……こっちの方がピンクっ!って感じるんじゃないかな」
カーディガンのポケットに入れていた端末を取り出し、テーブルの上に滑らせる。
ギャラリーからカラーパレットを引っ張り出し、ほら、と指差した。
翡翠の瞳がそれを見て、ふぅん、とぼんやりとした返事をする。
しかし、同じタイプの肌色を持つ、ということは、この男にもチークを塗っていいのか。
似合う、のだろうか。
首を僅かに捻っていると「似合わないのか」と、疑問符の付いていない問い掛け。
「いや、試したことはないな。化粧をしない訳じゃないけど……」
自身の持つ化粧ポーチを思い浮かべる。
大きめの持ち手の付いた、黒字の布ポーチ。
中身は、小さな手鏡からアイライナーやら口紅――チークと付け睫毛は入っていなかった。
肌馴染みを気にした結果に手を出さなかったのがチークであり、付け睫毛に関しては元々睫毛の量が多い方だったので過去に盛り過ぎ、と言われたから。
数珠繋ぎで余計なことを思い出してしまった。
そんな私を知ってか知らずか――いや、分かるわけがない――男は私の頬を指先で掴む。
手の平で優しく包むのではなく、人差し指と親指を使い掴む。
「試せばいい」
「え……。あ、はぁ」
かくん、首を縦に動かす。
指はそのままなので、頬が掴まれたまま動いて、ぐり、と肉が抉られるような痛み。
目尻に生理的な涙が浮かぶ。
「可愛くなりたいんだろう」
「……まぁ、なってもそれを好んでくれなきゃ、何の意味もないけど」
コロコロと、大学ノートの上で転がるシャープペンシルを見る。
未だに男の手は離れない。
それどころか徐々に力を込めている。
痛い、頬肉削げる、取れる、捥げる。
「ああ、悪くない」
ピッ、やっと手が離れた。
横に引っ張るように離れたので、一番痛かったのは言うまでもない。
それにしても言ってることが理解出来ず、目が白黒して、涙が睫毛に絡んで飛び散る。
「え、えぇぇぇ……」
物理的ダメージで赤くなった頬のまま、テーブルに額を擦り付ける。
こんな場面で、理解出来ずに桃色に染める頬が欲しい。
そんな可愛い女の子になってみたいものだ。