アルゴリスの谷の不穏
——聖域近郊迷宮内、北西部。アルゴリスの谷にて。
周囲を山々に囲まれたその場所は、唐突に大地に裂け目が入り、底が見えないほど暗い奈落となっている。一歩足を踏み外せば、確定的な死を迎えるその谷はフロンティアの中でも屈指の自殺スポットとされている危険地域だ。
アルゴリスの谷に近づけば、底から不気味な声が聞こえて来るとか、けたたましい吠え声が響いてくるとか、血生臭い香りが漂ってくるとか、おぞましい逸話が語られている。
そんな場所に飛び込む男が一人いた。無精髭を生やし、自分の背丈ほどの杖を手に携えた彼は垂直落下で奈落の底に消えていく。
彼は決して自殺志願者でもなくては、誤って足を踏み外したわけではない。強固な意志の元、使命に従って飛び降りたのである。
「【集い来たれ、大気の精よ。風の調べを抱き、その身を衣と化せ。主の衣は慈愛に満ち、何者すらも、その身に包む。主よ、愚かなる我らに抱擁を願う】」
小さく呟く『詠唱』。底の見えない地面に薄暗くも緑の魔法陣の光が浮かぶ。
「【ルフト・クーナ】」
そして、『呪文』。魔法発動。落体の法則に従って重力に任せて落下していたものが反発する下からの風により、ふわりと地面に着地する。
「臭うな。予定通りではあるが、居心地が悪い」
男は呟く。持ってきていたランタンに魔法で火を灯し、周囲を見渡す。
谷の壁面には赤黒いシミがどこまでも飛び散っている。鉄のような香りが満ちていることを加味すれば、それが血であることは明らかである。
「……流石に惨たらしいが、主の導き通り、期待はできそうだ」
男は暗い谷底を、杖を打ちながら進む。ランタンの灯りが暗闇を照らす。赤黒い血に塗れた壁面と同じく、荒れ果てたガタガタの地面にも同じようなシミが見える。
さらに、地面には白骨化した何かの動物の骨や蝿が集った腐臭香る何かの死体など、気分を害するものがそこら中に転がっていた。そんな地面を見ても、蹴り飛ばし、踏みつけて、男は何も言わずに突き進む。
ガァァァァゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!
ランタンがなければ視界ゼロのアルゴリスの谷に凄まじい咆哮が鳴り渡る。人外のその轟音は爆発的な衝撃波を生み出して、体を、大地を、大気を鳴動させる。
「……時は来たか。我らの誇りのため、フロンティアのため、そして何よりも主のために、貴様には贄となってもらう。赦せ、アルゴリスのネメアよ」
暗闇からのしのしと重々しい歩行音。男がランタンの灯りをその音の元へ移動させると、暗闇に人外の魔獣がそこにはいた。
人の背丈を優に超す巨大な体躯、その体を覆う茶黒い皮膚、四足の足には鋭い爪が伸び、細く長い尾がぶらぶらと揺れ動く。鬣が顔面の周りを雄々しく囲い、口元には長く鋭い牙が生えている。
血赤の眼光の矛先は目の前に立つ男へと一心に向けられ、鋭い足の爪を地面に突き立てて、臨戦態勢は十分だ。舌なめずりを一度すると血生臭い香りが迸り、言葉にならないほどの重圧が駆け抜ける。
ネメアと呼ばれたその魔獣は容赦なく、襲い掛かる。魔獣にとってそれは、単なる食事。毎日のようにこなす、弱肉強食の自然の摂理。
ネメアは再び、けたたましい砲声を上げた。
——時間は少し過ぎ去った。時間にして数分と言ったところだろうか。
男の阿鼻叫喚の声は聞こえることなく、魔獣ネメアの細々とした呻き声のみが小さくこだましていた。
「……歯ごたえはあった。これは期待ができそうだ」
男は身の丈ほどの杖をネメアに突き立て、木端微塵に貫突し、破壊し尽くす。
獣臭漂う鮮血が飛び散り、腸がドロドロと踊り出る。腕にその血がへばり付いても、一切気にすることなく、手で体を引き千切る。
細かく分解していくと、赤黒い鮮血の中から、明らかに色の異なる塊が零れ落ちる。
男はそれを拾い上げ、ランタンの灯りでまじまじと見つめる。金のような煌めきを放つそれを確認した男は口の端を綻ばせた。
「主よ、我らに力を、与えしことを、心より感謝する。そして、ネメアよ。貴様の力、我らの一部として、使わせてもらう。悲願が達成するまで、我らと共に楽しもう」
男は不気味な笑みを浮かべ、そう言葉を残した。後に、永久に続きそうな静寂がその地を支配し、男は誰にも知られることなく、姿を消していた。




