ネムケとヌクモリとふたりの時間
会社勤めをしていると、年に何度か忙しくなる時期があって、それは分かっていても避けることができない。この期間を、羽根涼子は『修羅場』と呼んでいる。ちなみにこう呼んでも、誰も良い表情はしない。
ちょうどその日、春の修羅場が終わった涼子は、数日振りに定時で席を立つことができた。
疲れてはいたが、ここしばらくの懸案がきれいに片付いたことで、彼女はかなり気が楽になっていた。
(…トモさんちに行こうかな)
街路樹のつぼみが膨らんでいるのを見上げながらふらふら歩いていた涼子であったが、ふと思いついたことを実行に移すべく、足取りを早めた。
(連絡…メールでいいか)
右肩にかけたバッグから携帯電話を取り出すと、少しだけ迷ってから、メールを送信する。
『今から行くね。』
メール作成画面を立ち上げると、次々と色々と言いたいことが思い浮かんでくる。つらつらと書きかけて、結局それらは全て消して簡潔な要件のみを伝える。
言いたいことは、直接会ったときに伝えればよいのだ。
地下鉄に乗り込んで、自宅とは反対方向の線の5駅目で降りる。
地上に出ると、すっかり外は日が暮れていた。
ふと、携帯電話を確かめてみるが、メールの返信は着ていなかった。
(あれ、トモさんいないのかな?)
一瞬そう考えて、すぐにそれはないと否定する。
(家電にかけたわけじゃなし。ケータイじゃないか)
しかしそれはそれで不思議である。
彼女が先ほど送ったメールはトモさんこと那智知明のプライベート用の携帯電話宛であった。彼は2つ携帯電話を所有しているが、仕事用もプライベート用も、よほどのことがない限り電源も音も消されない。
(…仕事中だったかな?)
知明は今を時めく人気俳優である。
昨年夏の舞台での演技が高い評価を得た彼は、それまでのアイドルから、本格的に若手演技派俳優としての活動が忙しくなっている。
ここしばらく忙しかった涼子は、彼と連絡をとっていなかった。ニュースはかろうじてテレビやインターネットから得ていたが、あまり最新の芸能方面の情報は耳に入ってこなかった。
(うーん、いないかなあ?どうしよ…)
迷いつつも涼子は知明の家のあるマンションまで辿り着いていた。
(ま、いっか。とりあえず行こう。いなくっても…適当なところで帰ればいいや)
電子ロックを解除して知明の家の玄関を開けると、部屋には煌々と明かりが点っていた。
「トモさーん、いるのー?涼子です、入るよー?」
靴を脱ぎながら奥へ声をかけるが、返事はない。不審に思いながらそろそろと廊下を歩み、半開きのガラスのはめ込まれた扉の隙間から居間をのぞき込んで、涼子は思わず息を飲む。
部屋の真ん中の応接セットの脇で、床に倒れ込んでいる人影があった。
「トモさん!」
慌てて涼子が駆け寄り、彼の顔を覗き込む。そして――その口から規則正しい、健やかな寝息が漏れているのに気付いて、思い切り脱力する。
念のため額や頬に掌を当ててみるが、不自然に熱くも冷たくもなく、そっと顔を寄せてみても顔色は正常で、汗もかいていなかった。酒臭さもなかった。
「……寝てる、だけ…?ああ、もう!!」
涼子が大きく息を吐いて、床にぺたりと座り込む。フローリングの床の冷気がじわりと涼子の肌を冷やす。
知明は黒いレザーのソファの足下にごろりと横たわっていた。居間の入り口近くには知明のボディーバッグが転がり、ジャケットはそこから少し離れたところに無造作に脱ぎ捨てられていた。
(つまり、疲れ果てて帰ってきて、カバンを放り出し、ジャケットを脱ぎ捨てて、ソファにたどり着く前に力尽きた、と、そういうこと?)
まるで再現フィルムを見るようにそんな様子が目に浮かぶ。涼子は呆れながら、そっと身を屈めて知明の顔に顔を近付けた。
「トモさん」
そっと囁いてみるが、知明の様子に変化は見られない。
「ト、モ、さん」
今度はもう少し声を大きくして呼びかける。しかし知明は微かに眉を顰めたものの、やはり起きる気配はない。
(トモさんて、こんなに目覚め悪かったっけ?)
知明のあまりの前後不覚な様子に、涼子は呆れつつも少々の不安を覚える。一体、何をこんなに疲れ果てているのか。寝室までたかが十数歩、せめてソファに倒れ込むくらい、意識をもたせられなかったのか。
そっと涼子がわずかに身を起こした。それから、左腕を上に横向きに寝転がっている知明の体の両脇に腕を突き、改めてそおっと身を屈める。覆い被さるような格好で知明の横顔に顔を近付け、耳元に唇を寄せる。
「トモさーん、起きてー。風邪ひいちゃいますよー。起きてー、ベッド行きましょー」
繰り返される間延びした呼びかけに加えて耳元に息を吹きかけられて、さすがに知明が身じろぎした。
ぼんやりと目を開けた視界に影が射しているのに知明は気付き、それから床に接しているのと反対側の体に、じんわりとした温もりを感じた。
ゆっくりと首を巡らすと、そこでよく知った顔がのぞき込んでいるのに出会った。
「目、醒めた?」
そうして悪戯っぽい表情で笑う。
(あー、涼子サンだー)
知明の口許が無意識に弛む。まだほとんど眠ったままの思考は何の疑いもなくそこに涼子がいるのを受け入れ、更に無意識に体を動かした。
「……トモさん?」
いつの間にか知明に抱きすくめられて一緒に床に転がされてしまった涼子が、知明を呼ぶ。彼女の髪に顔を埋めていた知明が、声にならない声で返事をする。
「起きてんですか?」
「寝てるよ〜」
ほとんど喉の奥にこもった音で、辛うじて知明が答える。しかしそんな彼の様子に涼子は今日何度目かのため息を吐いた。
(ああ、だめだ。寝てるよ)
知明の腕の中は心地よく暖かかった。頬に当たる胸元から仄かなコロンの香りがする。この暖かさも香りも腕や胸の固さも、涼子の好きなものだった。
好きなものに包まれている状態はひどく居心地がよくて、ついうっとりしてしまいそうになる。よく考えてみれば、涼子とてここ数日ろくに睡眠時間もとれず、疲労が溜まっている状態なのである。
(しかしこのままでは二人とも風邪をひいてしまうと思うんだよ)
涼子が窮屈そうに腕を動かして、知明の体を揺する。
「ねえ、トモさん、起きてくださいな。ベッドに行って寝ましょう」
しかし返ってくるのは声にならない咽喉の奥のうなり声と規則正しい寝息だけだった。
さて、今宵この二人の寝床はどこになるやら。
(4/10 加筆修正しました)