弱虫勇者の日常1
春先の暖かな日勇は、ぼんやりと空を眺めていた。
こんなことは珍しいことだけれど、勇はなんだか全てへのやる気を失っていた。
家が所有する山中の開けた場所にある倒木に座って、ゆっくりしているのだが、些か考えるのが億劫になったというのが正しい気がする。
ラジオのニュース番組で、3年前の事件が報道されていたのだがどうやらもうひと悶着ありそうである。
主に勇を刑事責任があるか問えないかというものの様であった。
致し方ない気がするが、何故3年も経ったこの時期なのかという気もする。
どうせ捕まるのならばそれでいい気もするが、父母の事が気になった。
今でさえ、人は勇の家族を忌避するというのに、彼が有罪にでもなればどうなってしまうというのか。
そう考えていたけれど、もうすべてが嫌になってしまった。
漫然と修練と学校を行き来し、何も得ることもなく来たけれど一体なんだというのだろう?
いや、悪いのは勇なのだ。
彼こそがこの汚名を一身に集め、罵倒されなければならぬ責任を負っているのだ。
しかし、悲しいことに彼の恥は家の恥なのだ。
彼が尊敬する父母、勇敢な父と優しき母にさえこの汚名は掛かってしまっている。
それどころか、祖父や祖母、すでにこの世の人ではない曾祖父母などにも迷惑を掛けてしまっていた。
どうすればいい。それはこの三年間嫌なほど考えた。
考えて、思いつかなかった。いや、たった一つだけ思いついたことがあった。
しかし、それはとても突飛な考えで、とても正気の沙汰とは自分でも思えなかった。
それは国の外へ出て異種族たちの首を捕ってくることであった。
しかし、そのようなこと出来るはずもない。
国の外に出られるのは成人した超一流の戦士だけと法で定められているのだから。
そして、勇では絶対に戻ってこられないことも分かり切っていた。たった5匹の鬼にさえ勇は手も足も出なかったのだから。
それでも、勇は国外に闘いに行けるのならば、喜んで行っただろう。
闘えるかはさっぱり分からないけれど、たとえ、死んだとしても、汚名の一部は返上できるであろうから。
三年間反芻してきたことを、勇は今日の早朝、ラジオのニュースを聞いてからずうっと考えて、なんだか考えるのが嫌になってしまった。
倒木の近くに生えていた、細長い雑草に手を伸ばし、引き抜こうとした。
特に意味がある行為ではない。
手慰みにしようと、ただ触るための行為であった。
しかし、ぼんやりとした行為であったので雑草の葉で人差し指の中ほどを切ってしまった。
「いたい」
と驚いて手を見るも、さほどの傷でもなかった。
人差し指を口にくわえて血が止まるのを待つ。
なんだか、何をしているのか。
ぼんやりと空を眺める。高い高い空の上を鳶が一羽舞っていた。
何か獲物でも見つけたかなと思った。無念の中力尽きた獲物を捕るのだろうか。
ピーヒョロロロローーーーと空を飛ぶ彼だか彼女だか分からないが仮に彼としよう、彼から大きな声が発せられた。
羨ましい。率直にそう思った。人は台地に縛られ、様々なしがらみや慣習に縛られて窮屈に生きているのに、あの空の彼は余りにも自由で輝いて見えた。
勇にとって自由とは麻薬であり、毒である。
心の中に自由への渇望がある。しかし、その自由とは無責任という名の自由である。
人は責任を全うするからこそ社会的な生き物であり、それを成しえないものは即ち人ではないのだ。
無論、様々な形で人と同じように仕事をできず、また責任を負えない人もいるだろう。
先天的なものかもしれないし、後天的な怪我かもしれない。しかし、彼らにも仕事、責務が天より与えられているはずである。(それが唯生き続けるという場合もあるかもしれない。そうすることで、勇気付けられる人間も存在するのだから)無論、勇にも天より与えられた仕事が存在しそれを見つけねばならない。
しかし、勇は明確な責務から一度逃げてしまっていた。
それが勇の心を酷く重くさせる。
ぼんやりと鳶もいなくなった空を眺める。と、腹に激しい痛みが走った。
何事かと思って顔を正面に戻す間もなく、彼は吹き飛ばされた。
腹の中の物が逆流する。激しい吐き気。正面を向きながら勇はぶちまけた。
目の前には父が立っていた。冷たい目を勇に向けている。
勇は背筋に冷たいものが走った。
「勇。稽古はどうした?なにをサボっている?おまえは・・・」
父は言葉を途中で切って黙ってしまった。
勇はどうしたものかと思った。
ここで、何を言ってもいいわけだと捉えられさらに父から勇への呆れを大きくするだけであろう。
父は大きくため息を吐くと、背を向けた。
「しばらく顔を見せるな。山ごもりを命じる」
そう、短く冷たく言って歩き去って行く。
勇は吐き出したおう吐物を未だに顔にくっつけて去っていく父を見つめることしかできなかった。
足場の悪い道を、勇はぼんやり歩いていた。
何も考えては居なかった。ただ、奥山へ行こうと思っていた。
父にはもはや、呆れられてしまっただろう。会わせる顔は既にないと思った。
装備は刀が一本と短刀が一本。
本来なら弓矢が欲しいところであるが、家に取に帰る気にはならなかった。
火を起こすのには石でもぶつけ合って火花でも散らすか、木をこすり合わせて起こそうかと考えた。
今までも山籠もりは何度も行ってきていたがここまで準備なしで入るのは初めてだった。
いつもはマッチやライターを携帯していたし、テントも用意していた。
大変なことは分かり切っていたが、それでも家に取に戻りたくはなかった。
子供じみた見栄であり、また恥であることは分かっていた。
濡れた落ち葉はよく滑る。
昨年の秋より残っていた落ち葉に足を滑らせて転倒し何度も頭をぶつけた。
そうしているうちに春の弱い日差しが樹木に遮られて、地面に届かなくなってきた。
鳥たちの軽快な鳴き声が煩いほどに鳴き響く。求婚する彼らの声。
下草は今一生懸命背を伸ばし、僅かな光を吸収しようと我先に成長しようとしていた。
浅い森にはない生命の爆発だ。
森林浴と呼ばれる物がある。
人は森より生まれた。それ故に、木々の中に入ると落ち着くというものだ。
しかし、それは里山といわれるような人間文明の近くの森に入ることを指す。
本当の深山はそのような甘い場所ではない。
ここでは、リラックス効果などない。
体の感覚は研ぎ澄まされ、風を肌で感じ、匂いを感じる。
物音には過敏に反応し、心は常に弦を張った弓の如く張りつめている。
勇はようやく、はっきりとした意識であたりを見渡した。
高く太い木々が生え、山籠もりには十分な環境のようだ。
勇は短刀、これには鍔はなく長さは15センチほどを鞘から抜き放ち右手に構えた。
ゆっくり進む。以前、熊かなにかが掘った穴を見つけたことがある。
できれば、そのような物を見つけて、塒にしたいと思った。
無ければ簡易な小屋を作るか、何かしなければならない。
鬱蒼とした山の中を歩くのはひどく疲れた。
若木たちが僕の行く手を阻むので度々短刀で小枝を打ち払わねばならなかった。
視界が良くないこの深山では決して気を抜くことはできない。
毒蛇の大蝮やミヤマカガシが出てくるかもしれないのだから。
僕は常に視野を目一杯広げて足元や木の上を注意深く観察しながら歩く。
歩いていくと、若木や小さな下草が良く踏まれ道になっている所を見つけた。
獣道だ。
勇は獣道を辿って歩いた。
この先に何があるかは分からない。
しかし、この獣はずいぶん大きいようなので、住処もそれなりに大きいものになるはずだ。
できるなら、そこを奪ってしまいたいと思った。
獣が通った後を歩くので、今まで進んできたのよりずいぶん楽だった。
足が速く動く。
15分程歩いたものの、獣は居なかった。しかし、小さな小川を見つけることができた。行幸である。
その日、僕はその小川から少し離れた所にちいさな仮設のテントを張った。
それは、少し大きめの枝を柱にその上から比較的濡れていない落ち葉を敷いたものだった。日はまだ高かったがご飯は食べず、早めの就寝とした。