異世界の物理と俺。…実は文系だったんだよ
『本はなかったわ』
翌朝、使えないトカゲが壁にへばりついていた。
「とかげさんー」
「いもりさんー」
「やもちさんー」
「にゃうん」
揺れる尻尾を幼児達が追っている。人間がトカゲにねこじゃらされてどうするんだか。
トカゲの尻尾にじゃらされる幼児達の動きは、まだまだ拙い。
『いやぁ、エエのがあった気がしたんだが。よくよく見ると、人が書いた本でな。娯楽には良いんだろうが、勉強には不向きでなぁ。
んじゃ、ちゃんと伝えたから──』
「まった!」
俺の言葉に、トカゲはくるりと首をもたげた。
『なんじゃ?』
「その、人間の世界の常識ってのも、教えてくれないか?」
トカゲからの返事はない。なにか考えているようだった。
『しかしな。真面目に勉強する前に、娯楽に走ったのではいかん。勉強しなくなってしまうだろう』
「俺は小学生か!」
なんだ、その勉強しなくなるから漫画は買いません、的な発言は。
俺はメリハリ付ける性格なの!
大丈夫だから。
『本当かのぅ。不安じゃのぅ』
うっさい。
トカゲが語ってくれたのは、人の世界の"神話"。人が作った、人のためのお約束を集めた話だった。
『かくして、豊穣と月の女神は現世へと帰りきた。しかし、その心の半分は不変なる太陽の神のもとにある。そのため、女神の姿は恋に揺さぶられ、人の世には試練の季節である"冬"が存在するのだ──と言われておる』
トカゲが話してくれたのは、ある神様の話だった。月が豊穣で、太陽が不変──なんだか、ピンとこないけれど、まあそんな事もあるのだろう。
美しい月の女神達が、"恋心"ゆえに太陽の神のところへ押しかけ女房をしてしまったそうだ。
けれど、月の光は太陽と一緒ではかき消されてしまう。
夜の闇から守ってくれていた月の女神達に「帰ってきてー」と、人間達は必死で祈りをささげた。結果、一人の月の女神が地上を振り返り、愛しい太陽の神との別れを決めた。そして、心を欠けさせたまま人の生活を見守り続けているそうだ。
ただ、心が欠けているから不安定にもなる。そんな揺れる心の印が月の満ち欠けであり、季節であると。
今なら"へーボタン"押してもいいぜ。
「月の女神が複数なのには意味があるのか?」
「おつきさま、たくさん」
「きらきらー」
「ぱぱ、みえないの?」
「ぷにゃぅん」
幼児とシロが空を見上げる。
よく晴れた青空には雲ひとつない。こういうのを晴天というのだろう。
『……見えんのか? 魔族のくせに、なんでだ』
「いや、こっちが知りたい」
空を見上げて、目を細めても何も見えない。
鳥も飛んでいないし、もちろん飛行機だっていない。
『魔力があるんじゃ、月だって見えるはずなんじゃがなぁ……ともかく、今の人族には"夜の月"しか見えんのだ。ワシらには、今も空に輝く月が見えるというのに』
「今の、ということは昔は見えてたんだな。見えない人が増えていって、最終的に月は一つしか残らなかったということか?」
「ひーふーみーよー」
「よっつあるの」
ヘレがあれ──と指差す方向を見ても、何も見えないんだよ。なんでだよ。
一人、仲間はずれにされた状況に涙が出そうになる。
『他にも、大地の神と冥府の神が勢力争いをしていて、冥府の神が優勢の間が"冬"なのだとか言われておるな』
「へぇー。ま、よくありそうな神話だな」
『で。なぜ冬がくるのか? 知っておろうな?』
「地軸が傾いてるんだろ?」
地球と同じなら、な。
地球はくるくると自転を繰り返しながら、太陽の周りを一年かけて回っている。その軌道は真円ではなく、自転の軸はまっすぐではない。
北極は太陽に向かって垂直にあるのではなく、何度かズレている。そのズレが季節を作るのだ。
ホワイトボードに書きながら説明をすると、ふむふむと幼児達まで頷いていた。
『正解じゃ。……そなたは常識はないが、知識はあるようだな』
褒められたのだろうか?
『この絵でいうところの、ここ。ここにそなたらは住んでおる』
トカゲが指し示したのは、棒が貫通したように見える地球の、その棒がささった一番上──つまり、北極点だった。
「は?」
いやいやいやいや。北極点って冗談きついわ。
アレ一年中氷の世界じゃないの。北海道より寒いんですよ? シロクマいるよ?
あわてて周囲を見るが、草原である。氷など、影も形もない。
「どういうことだ? 北極?」
『フム。"磁気"はぞんじておるかの? 南極から北極にむかう流れの事じゃな。では、これは北極についたらどこへゆく?』
「は? え、それは……えーっと。地面にもぐる、とか?」
地球の磁気がどうなってるかなんて考えた事もなかった。
どんな教科書にだって、南極から北極にむかって矢印が出ている。じゃあ北極はどうなってるのか、なんて──地球はでっかい磁石です?
『そうじゃ。地表を流れた磁気は、北極から地裏の世界へ入る。そして地裏を抜けて、地表の南極から外へでるのじゃ』
「なにそのトンデモ科学……」
また出たチリ。もうやだ。
『その地裏へ抜ける穴が、ほれ。あれじゃ』
幼児達はホワイトボードに落書きを始めている。
もうやめて。早口言葉にしかならないナゾ式を作るのは止めてください。
にゅん、とほっぺたすりすりしてくるシロだけが俺の癒しだ。
「あな、ですかー」
『穴じゃ。本来物理的に見えるものではないのだが、そなたの固定概念ゆえかの』
トカゲが示す先には、確かに小さな穴が──って、あれは昨日トカゲが潜り込んでいた、"巣穴"ではないか。
「あれが電波のゴールですか」
『ウム。大切にするように』
厳粛にトカゲは宣言した。
大切に、大切にねぇ。……今度ブルーベリーでも植えてやる。