海と俺。がんばれ男の子
魚釣りはヘレのシャチVSヨクトのイルカが最大の獲物になっていた。これを超える大きさがなかなかヒットしない。
シャチとイルカ──比べるまでもないが、シャチの方が丸々っとカッコ大きい。このままではヘレの勝ちになる。
だが相手はヨクト。負けず嫌いのヨクトさんだ。彼は肩までスクリーンに突っ込んで獲物を探している。
あぁぁ。抱えたナユタが落ちそうになってる。
ヨクトが腕を振る毎に、胸にかかえたナユタが不安定になって……あぁぁ。ハラハラする。
こりゃだめだ、と。
強く言うことになってもナユタを受け取ろうと、俺は立ち上がって──
だが、その判断は遅かった。
ナユタはスクリーンに身を乗り出しているヨクトの胸に押されていた。
いつもなら大切に抱っこしているのに、釣りへの興奮で気が回っていないのだろう。ぐいぐい押されたナユタは、何かの冗談のようにあっけなく、その腕から転がり落ちたのだった。
「あぶない!」
とっさに手を伸ばすが距離がある。
スローモーションのようにゆっくりと、頭からスクリーンに落ちて行くナユタが見えた。
ばしゃんと水音がしたときには、ナユタはいなくなっていた。
「ナユタっ」
時間をおかず、ヨクトがその後を追う。
怖れもなく、突っ込んだままの腕から飛び込む度胸は流石である。
が、救助するのが二人に増えたぜちくしょう。
慌ててシャツと靴を脱ぐ。キャーと女の子達が騒いでいるけれど、今は一刻を争う時だ。
「ヘレ、メア。シロ。ちょっと行ってくるから、留守番を頼むな」
二人に追いかけてこないように言う。二人から「はい」と返事が帰ってきたのをするのを確認して、俺もスクリーンに飛び込んだ。
寒天的な抵抗はほとんどなかった。
まるで風呂か温水プールに入るみたいに、生暖かい水に全身がつつまれるのを感じただけだ。
しっかりと閉じていた目を恐る恐る開けていく。
海水の痛みを覚悟して開けた目だったが、痛みどころかとてもクリアに周囲を見る事ができている。まるでゴーグルを付けているかのようだった。
なんの障害物もない水の中を、ばた足で潜って行く。
潜水は嫌いじゃないが、この一呼吸でどこまで潜れるだろうか。ヨクト達に追い付けるのか?
そもそも、ヨクト達は真下にいるのだろうか?
左右を見ても生き物らしき影はない。
どこまでも透き通った水の中を一人で潜っていると、どんどんと不安が沸き上がってくる。
このまま潜って良いのだろうか──不安になった俺めがけて、下から気泡が上がってきた。
ぷく、と浮かんできたそれはヨクトのものに間違いなかった。
なぜって、ここは生きた魚なんて一匹もいないうえに、海藻の欠片もない水の中だ。そこで泡をだすといったら、俺達しかいない。
俺と、ヨクトとナユタだ。
まっすぐ下を目指して進む。ブクブクと定期的に上がってくる気泡を目印に、一心不乱に水をかき分けた。
気泡が上がってくるということは、もしかして溺れているんじゃないかと心配になる。早く追いつかないと、と気がはやり、手足をばたつかせる。
どんどんどんどん進んで。
ぐんぐんぐんぐん潜って、潜って。
ようやくヨクトを見つけたのは、うっすらと海底城が見えてきてのことだった。ぶきっちょな泳ぎ方で、でもまっすぐに下を目指している。
どうやら溺れてはいないようだった。
ほっとするとともに、まずいとも思う。ずいぶんと深く潜ってしまったようで、このままでは息が続かないかもしれない。
まずい。どうしてヨクトはまだ泳ぎ続けていられるのか。
息が──口を開けたら最後だというのに。閉じていられない。
必死で閉じていたはずの口が開く。
ごぼ、と大きな気泡が俺の口から溢れていった。
空気がなくなったぶんを埋めるように、海水が口に押し寄せてくる。
キツイ塩気は喉を焼き、海水に満たされた肺は呼吸ができない。
その苦しみに、俺は喉をかきむしって。意識が──
──意識がなくなるどころか、ぴんぴんしていました。ビックリもビックリ。なんだ、コレ。
まったく苦しくないうえに、塩辛っくもない。
これ塩水なんだろうか?
これじゃぁ息を止めていたときのほうが、よっぽど苦しかった。必死に息を止めて潜水してたっていうのに、どういうことだろうか。
イヤ、嬉しいよ。溺死がないっていうのは、本当に嬉しい。
でもなんか釈然としないっていうか、なんというか。
今までの焦燥感はなんだったのかっていう。
楽になった呼吸の下でヨクトに追い付く。強く声をかけると、ヨクトは肩をゆらして、泳ぎを止めた。
「ヨクト!」
「う……ぱ、パパ。ナユタが、ナユタが!」
おっと驚き、ヨクトが泣いていた。
泳ぎ方が変だったのは、泣いていたからだったのだ。
水の中で泣いているのが分かるとか、そもそも会話ができるのか、とか。考えない。深くは考えないでおこう。
ヨクトの横まで泳ぎ着くと、ヨクトの頭を撫でる。
ナユタを落としたのはヨクトだけれど。それでもヨクトは一人でここまで探しに来たのだ。
ためらうことなく、まっすぐにスクリーンに飛び込んだのだから。
怒るだけではなく、褒めてもやらないと。
「よくここまで泳げたな、スゴいぞ。ここからは一緒に探しにいこうな。なに、俺達ならすぐに見つけられるよ」
「うん。探して」
いつものツンツンはどこへやら。しょぼーんと効果音がつきそうなほどに項垂れて、ずいぶんと可愛い反応である。
素直なのは良いが、調子が狂う。
「ヨクト、ごめんな」
「なっんで、謝るんだよ」
俺が言うと、ヨクトはしゃくりを上げながら俺を見上げた。
「なんで?」
「お前を止めなかったから。
ナユタを落としてしまったのはお前が悪い。でもそれを防げなかったのは、俺が甘かった。俺の失敗だ」
ナユタを落とした──その言葉を聞いて、ヨクトがまた下を向いてしまう。
「でも、俺。俺が……」
「うん。ヨクトが子供だってことを忘れてた俺が悪い。
ヨクトがナユタを大切にしたいって、わかってるよ。分かってるけど、ヨクトはまだ子供なんだ。あっちもこっちも、二つのことを一緒にはできない」
「そっ……そんなこと、ねーもん」
すねるヨクトは珍しい。かわいいなぁ、ちくしょう。
でも複数のことを一緒に行うのは大変なんだ。遊びながら子守りだなんて、お子様には無理だったんだ。
「俺でもできないからなぁ。もっと、もっと大人になったら。そうしたらたくさんの事が一緒にできるかもしれないぞ」
「パパにもできないんだ?」
無理無理。会話しながら化粧をする女子とは違うんですよ。あ、でも歩きながら、会話しながらのスマホゲームはできるか。俺って思ったより器用なのかも。
あっと、歩きスマホは危険行為だ。なしなし。
「さあ。がんばってナユタを探そうな」
「ん……うん」
「お仕置きは、家に帰ってからだぞ」
「おしおき、すんの?」
「する。ナユタを見つけて、三人で家に帰ったらな」
さあ行くぞ、と元気よくヨクトを促すと、俺達は連れだって小さくゆらいで見える海底城を目指した。




