工場長は安眠の為に
無性に煙が吸いたくなって、でもそんな時に限って葉煙草すら切らしている。
「…グラン博士に油煙草借りるか」
工場長はむくりと起き上がると、つかつかと扉に向かって歩く。
たまには故郷シララ特産の高級水煙草を吸いたいなと思いながら扉を開けると、通路の角に作業機械らしき後姿が消えて行った。
見覚えの無い型式だったが、工場長の把握していない所でグラン博士が作業機械を私的改造するのは日常的な事だった。
工場長はそれを幽霊でも見た様な顔で見送った後、慌ててその後ろ姿を追い駆けた。
実験区画からも作業区域からも遠い管理区画の通路に作業機械が居る筈は無い。
どたどたと角を曲がった工場長は、そこに見通しの良い通路を見た。
作業機械はどこにも居ない。
小型の清掃機械が通路の床を清掃していた。
それを見て工場長は更に慌てた。
管理区画の定期清掃予定はもっと先の筈だったからだ。
「上位制御系統の異常か?」
余裕の無い声で呟くと、工場長はどたどたと自室へと駆け戻る。
作業服を身体に引っ掛ける様にして着て保安証を手にすると、部屋から飛び出した。
部屋を出て右に、最初の角を左に、突き当りの扉を保安証で開け、階段を下り次の扉も同様に開ける。
中央管理制御室への順路は身体に染み着いている。
壁面の表示に視線を大雑把に巡らせ、致命的な異常が無い事を確認する。
工場長は自身の腰から接栓を引き出すと制御盤の接栓座に接続する。
その意識が制御盤へと拡張されるやいなや、工場内の監視機構の映像情報が引き出される。
自室周辺の映像情報を巻き戻し、そこに作業機械が写っていない事を何度も何度も確認した工場長は、釈然としない表情であれは白昼夢かと呟く。
労六繊維社が持つ技術の結晶とも言うべきこの工場で問題が起きる事は、工場長の雇用を揺さぶる事でもある。
自分の見たものが白昼夢だったとしても、保安上の問題が無いなら構わないかと、工場長は安堵の溜息を吐いた。
とは言え、一度起動させた管理機構を面倒な手順を踏んで閉じる事も億劫ではある。
念の為に、或いはついでにと、工場全体の映像記録に軽く目を通した工場長は。
「…」
工場長は、悪夢を目の当たりにした。
勝手に開閉する扉と、定期清掃の順路を外れて稼働する清掃機械。
眩暈を感じながら制御系を走査して、心臓が止まりそうになった。
「…防衛機構が作動していない」
これ以上無い程明らかな異常である。
防衛機構が異常停止した時間を記録から特定し、その直後からの全映像記録を確認しつつ、防衛機構の再設定を行う。
どの映像記録にも侵入者が写っていない事を確認して安堵し、防衛機構の再設定が途中で中止された事に顔を青くした。
正規の制御を受け付けない。
どこからどうみても上位制御系統異常の類だ。
「くっそ、今日俺はゆっくり寝る予定だったのに」
工場長は焦りを表現するかの様に、壁面の表示に別の表示を次から次へと重ねた。
それら全ての表示が異常を示す中、工場長の眠れない時間が人知れずに始まった。




