第1話 全裸
12月6日 改稿
「クソッ!ふざけんなよ!!」
鬱蒼と茂る草を全裸で掻き分けながら、誰にともなく叫ぶ。
さきほどから、滑って転んだ拍子に傷を負った膝や薮を掻き分けたときに草で切った手の傷がジクジクと痛む。その痛みを感じる度にこれが現実だと告げられ、叫ばずにはいられなかった。
さっきまで…ほんの数時間前まで、俺は確かに自分の部屋のトイレにいたはずなのに『ここはどこだ?どうしてここにいる?』。何度も頭の中で同じ問いを繰り返す。
…答えは出ない。
だから、今はとにかく歩き続けるしかない。森を出るまで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時を遡ること数時間前。
所属している研究室の教授に懇願され遅れに遅れている研究発表の資料作りを三徹で手伝い終えた俺は意識朦朧とする中、帰宅していた。
汗と煙草とコーヒーのトリプルな臭いが染み付いた服を脱ぎ、シャワーを浴びる前に用を足そうとトイレの便座に座ったところまでは覚えている。
だが、そこで限界だった。
意識は途切れ、ガクッとするまで結構な時間をそのまま寝ていたらしい。
不自然なまま寝ていた所為か、すぐに立つ事もままならないほど足が痺れていた。ジンジンと波のように押し寄せてくる痛みに我慢することしばらく…少しマシになった足を引き摺って、ドアに手をかけトイレから出るとそこは森の中だった。
な…何を言ってるのかわからないと思うが、俺もそうだった。
茫然と全裸で立ち尽くす今の俺を他人が見れば「お巡りさん、こっちです!」ってなりそうなもんだが、問題ない。
だって、辺り一面には、木、木、薮、木、岩、木しかないのだから。
振り返るとトイレのドアはもうどこにもなく、同じような景色が永遠と続いているだけだった。
「まだ、俺は夢を見ているのだろうか?」
ぽつりとつぶやいた独り言に応えてくれる相手もいない。
混乱したまま頭でもこのまま突っ立ていても仕方ないという事だけはわかった。
とりあえず歩き出す。どっちに行けばいいとかわからないけど歩き出した。
こんな森々しい森は人生初であるのにもかかわらず、ハイキング装備どころか全裸・・・何の罰ゲームだよ。
そして、冒頭に戻る。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
キツイ。イタイ。アツイ。
全裸で森に放り出されること約数時間。
時間は、木々の合い間合い間に見える憎たらしい太陽の傾き具合から予想できた。
俺は、相変わらず目的も定まらないまま歩き続けている。身体には草や枝による切り傷が目立ち、この瞬間も増えていく一方だ。
「どんだけ深い森なんだよ、ここは。まったく人の入った形跡すらないって・・・クソッ!」
荒い息を吐きながら、木に寄りかかる。
運動といっていい運動をここ何年もしていない俺にとって、この全裸ハイキングはあまりにもレベルが高い。 さっきからわき腹のあたりが引きつる。それに、裸足で何度も石や枯れ枝を踏んでいるからそろそろ歩くのも難しくなりそうな状態だ。
「確かテレビで見た富士の樹海もこんな感じだったよな。・・・洒落になんねえー」
このままでは、この森で遭難死してしまうんじゃないのか?
でもって、後日、樹海で全裸男の死体(笑)が発見されるとか……笑えない。
またしばらく歩き続けていると、少し先に開けた空間が見えた。一息入れるには丁度いい。そこで休憩することを決め、足を速める。
進行方向に生茂る薮に身体を捻じ込むように抜け出ると開けた場所を囲むように泉が広がっていた。
「泉・・・み、水が飲める!!」
ここまで感じていた疲労を忘れ、泉へ全力疾走して頭から水に突っ込んだ。
「ぷっはー!生き返るぅぅぅ~!!」
泉の水は透明度が物凄く高く冷んやりした程度で消耗した体力と精神に一時の癒しを与えるのに十分なものだった。
俺は十分に喉を潤した後、泉に浸かりながら身体中の汚れやら汗、傷などを水で洗い流した。傷が沁みてズキズキするが、今はそれも心地よかった。
水浴びを満足するまで味わいつくしたところで、頭の方も幾分か冷静になってくる。
泉からあがり、近くの岩に腰かけながら今の状況を整理する。
まずは、夢でなく現実として俺はどこか知らない森の中で全裸遭難中である事。
次に、日が暮れるまでに救助されることが限りなくゼロに思える事。
そして、俺の記憶が正しければ日本に目も覚めるような青い葉っぱの木や赤と黄色のマーブル模様の草など生息していなかったはずであるという事。
これらのことから考えると認めたくない答えが浮かぶ。
い、いや、まだ結論を出すべき時ではない。
プラスの面を考えよう…そうだ、こんな絶望的状況の中でも好転した事があるじゃないか!
水が手に入った。これは、大きい。
人間は食料がなくとも水だけで十日は生存できると聞いた事がある。少なくとも十日間の猶予を得たと言える。
状況を好転させる大きな一歩があったじゃないか。
まだ、俺は運に見放されていない。いや、むしろ運が良いんだ。
考えてみろよ、俺。森の中で遭難して水を確保できるなんてどれほどの確立だ?
な。やっぱり、俺は運が良いじゃないか。
その内、助けも―――――
冷静な状況把握をしていたはずが途中から現実逃避気味になっている気がしないでもない。…ダメだ! 気にしたらダメだ!! 気にしたら心が折れる!!!
そんな感じで虚勢と虚栄に揺れている俺の繊細な心を現実は簡単に無視してくる。心の葛藤すら許してはくれないらしい。
「ブギィィィィッ!」
腹の底に響くような雄叫びに顔を上げると木々をへし折りながら2メートル以上はあるだろう豚が此方に向かって突進してきていた。完全な二足歩行である。
に、日本にこんな動物がいると聞いたことはない。……だけど、か、海外にいる珍しい動物かもしれないし、ほら最近外来生物の問題とか話題になっていたし!
「二、ニンゲン ゴロスッテ クウ ブフブフ」
いや、分かってる。
もうかなり前から感じていたさ、ここが異世界なんじゃないかって。どんなに否定しようとこんな生物、地球にはいない。だって、この豚…片手に持った斧を振り上げながら喋ってんだぜ。どう考えてもゲームや小説、映画に出てくるオークそのものだよ!
「う、うわあああああ!!」
反射的に身体を横に投げ出し、転がるようにして斧を回避する。そのまま転がった態勢ながらもあわてて後退さる。
あと少し避けるのが遅れていたらやばかった。
今まで腰を下ろしていた岩には振り下ろされた斧が深々と突き刺さっていた。ツーッと背筋に冷たい汗が流れる。
一方、オークは岩から斧を引き抜こうとして手間取っていた。
に、逃げるんだ! …なら、今しかない。
躓きながらも立ち上がり、オークと反対方向の森へと走り出そうとするが…
ガサガサッ ガサガサッ
走り込もうとした茂みから別のオークが顔を出し、俺の前に立ちふさがった。
踵を返して振り返ると斧を引き抜くのに手間取っていたオークも準備万端の態で後ろからにじり寄ってくる。
前方のオークに後背のオーク、死が近づいてくる。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえ、一秒が何十分何時間にも感じた。
唐突に、そんな緊迫した時間は唐突に終わりを告げる。
ドゴォォン!
前方に立ちふさがっていたオークの頭が吹き飛んだ。
突然の轟音に耳を塞ぐ。その一方で、しゃがみ込みながら音の発っした元を探す。
「勝手に人の敷地に入るなんて躾がなってないわね~これだから野生のメス豚は嫌だわ~」
唄うような涼やかな声と共に現れた美しい女性。
黒に限りなく近い紫の髪をツインテールに結び、黒一色のゴシックドレスと魔女帽子に身を包んでいる。人形のように整った顔に妖艶な雰囲気を纏っていて、若いのか妙齢の女性なのか判断がつかない。
だが、もしお近づきの機会があれば、全力突攻かますだろう魅力的ではあった。ただし、華奢な身体つきに不釣り合いな重量級の銃を傍らに携えてさえなければの話だ。
「あら? 貴方、オスだったの。でも…」
彼女は、もう一匹のオークに銃口を向けながら微笑む。
ドゴォォン!
「プギャァァァァァ!!」
再び轟く銃声と後に続くオークの悲痛な鳴き声が辺り一杯に響いた。
「う~ん、一緒に足まで吹っ飛んじゃったけど。まあ、去勢してあげたから貴方は今日からメス豚よ! …って、聞いてるのかしら?」
ドヤ顔で決めたのに反応を返さない『メス豚』に不機嫌に問うている。
決して文句があるわけではないのですが・・・あなたに去勢された哀れな豚はもう死んでますよ。さすがに足というか……下腹部のほとんどを吹き飛ばされて生きている生物はいないのではないかと…。
「ふぅ、つまらないわね。結界を抜けて来るくらいだからどんな大物が侵入してきたのか、楽しみだったのに。・・・で、貴方は……変態さんは、私の退屈を紛らわしてくれるのかしら?」
くるりっとこちらに銃口を向けながら彼女は微笑みかけてきた。
貴方から変態に言い換えられた事に反論もしくは意見を申したいが、森を全裸で徘徊していたら俺でも変態だと思うので反論できない。あと、純粋に怖い。
それに、今はもっと重要な案件が目の前にある。俺の本能が警報を鳴らしているんだ! 答えによっては去勢オークの運命を辿ってしまうと!!
チラッと血生臭いオークの死体を見た。
あんな死に方、絶対に嫌だ。
だから、俺は考えた。
この危機を乗り越える最良の一手を…。
「す、すいませんでしたぁぁ!!」
もうこれ以上ないって程の完璧な土下座で、人生最高の土下座だ。あとは、ひたすら方向性のない許しを請い続けるしかなかった。
何事も初めては難しいですね。