第一話 「赤いシミ」《一稀》
その話を聞いてから、僕は何も言うことができなかった。
「そうか……」
やっとのことでその一言が口から漏れた。
「……すまなかったな。お前にそんな話をして」
そういって隣の医者は立ち上がった。そして何も言わずに屋上を去っていった。僕はその寂しそうな背中をただただ……見ることしかできなかった。
「はぁ……」
深いため息をつく。そしてゆっくりと空を見上げた。この世界は広い。人間一人が本当に小さく思える。
僕も立ち上がって屋上をあとにした。ちゃんと施錠はしておいた。
美咲さんの話、川本の話。
どちらも僕にとってはとても重いものだった。なんどため息をついたことか……。僕はぼーっとしながら病院を歩き回っていた。ここが何階なのかもうよくわからないが、僕の部屋がある8階ではない。
「しっかりして下さい!」
「ん?」
近くの病室で看護婦の大きな声が聞こえた。この声は蒼井さんだろう。僕は通りがかるとき中の様子をちらっと見た。
「……!」
思わず絶句してしまった。
カーテンに大きな赤いシミがあったからだ。血……だろう。
「――さん! しっかり!」
必死の蒼井さんのかけ声が病室に響き渡っている。同室の人も起き上がって様子を見守っていた。
僕は入り口でただただ眺めているだけだった。僕には、何もできない。
「そこをどけ! 夏野!」
僕は反射的に身体を横に反らした。そこに白衣を着た男が通る。僕の担当医の谷川だ。僕をさっと一瞥すると病室の中に入っていった。
「谷川さん! 患者の容態が急変しました」
「落ち着いて、蒼井さん」
カッカッカッカッ……病院の床に誰かの走る音が聞こえる。僕はその方向を見た。汗をびっしょりかいた少女がこちらに向かって走ってきたのだ。
「どいて!」
「ごご、ごめん」
僕はまたもやさっと横によけた。少女は中に入っていく。そして数秒間があってから「おばあちゃん!」という叫び声が聞こえた。その悲痛な声は僕の胸を苦しくさせた。同室の患者も同じようで目を背ける人もいた。
「しっかりしてよ! ねえ!」
それに呼応するのは彼女の祖母ではなく、蒼井さんと谷川の必死のかけ声だった。そこにもう一人の名前の知らない看護師が入ってくる。
「テラゾシン塩酸塩水和物、持ってきました!」
少女はだんだん元気を無くしてしまった。そして蒼井さんにちょっと外に出てと言われ、病室から出てきた。
「あっ……」
思わず目が合ってしまった。一瞬、気まずくなる。
「……」
彼女は俯いて、休憩所の方へと向かっていった。
「一稀くん……?」
「あれ?」
背後から美咲さんの声がした。僕が振り返るとパジャマ姿の彼女は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いや……ちょっとね」
「やすちゃんと知り合い?」
「へ?」
やすちゃんて誰よ。
「堤泰子ちゃん。私の友達」
「えーっと……さっきここから出て行った子?」
「そう」
「知り合いじゃないけど」
「そっか」
そういってから彼女は病室の中を見た。
「もしかしておばあちゃんが……?」
「そう……みたいだね」
僕は苦しかったけど、なんとか言葉を吐いた。すると彼女の顔が一変して先ほどの少女が向かった休憩所の方へ駆け出した。
「おい……」
「一稀くんはここで待ってて」
「うん……」
僕はそこに立ち尽くしていた。しばらく経ってから事が収まったのか谷川と蒼井さん、看護師が出てきた。
「大丈夫だったんですか?」
「……お前には関係のないことだ」
谷川は冷たく言い放った。病院関係者はこういうことに関して口が硬い。
「美咲さんの友人なんです」
「お前はそいつと面識があるのか?」
「さっき目が合いました」
「あほか!」
怒鳴られて一瞬肩がすくんだ。……まぁ、我ながらあほな言い訳だったけど。
「……まぁいい。これから言うのは独り言だ。……治療を施した結果、安静になった。少しの間は様子見だが、どうなるかはわからない。……彼女が知るべきかどうかはお前には判断できない。彼女が決めることだ。絶対、ぺらぺらしゃべんなよ」
「独り言じゃないのか?」
「う、うるせえ」
奴はそういって立ち去っていった。奴も、結構良い奴なのかもしれないな。
そう思い、僕は休憩所の方に足を運んだ。