うずぐぬ
今はもう遣われていない「うずぐぬ」という言葉があります。
およそ大人の腰の高さ以下くらいの背の幼年者、つまりお子様が、大人の斜め後ろに張り付き当の大人の服の裾なぞを掴んで己が半身を隠す仕草を示す言葉です。
人見知りで恥ずかしがったり、気性の荒い雄鶏を怖がったり、したり顔で覗き込んで来る人を警戒したり、大人の作業を邪魔せずくっ付いて居られるよう健気に模索したりして、大人の斜め後ろに張り付き服の裾を掴み半身を隠す幼年者を指し、「おや、うずぐぬして」と言う風に遣います。
言う人は幼年者に張り付かれている大人当人でも、他の人でも構いません。
張り付く幼年者を認識し、幼年者が張り付いていると了解して、張り付いている幼年者に一切の余念を持たず「うずぐぬして」と発します。
これにより大人の斜め後ろに張り付いているのが「幼年者」と、発話者当人や聴取者や幼年者当人へ表明され、強固に梃入れされます。
梃入れを要する状態と受け止められていた証左です。
世の中の当たり前、物理法則や概念等が身に付く前の幼年者が、自身でも目の届かない背面を晒して、更に大人の死角へ入り、自らの進行方向たる正面の実に半分を大人の体へ隠す時、誰の目にも触れない、前途をほぼ断たれた其の状態で張り付いているのが幼年者と、強固な梃入れを要すると捉えられていたようです。
幼年者には、世の中の当たり前の未収得ゆえの無限の可能性があり、なにものにでも成り得ると、暗黙知、生活の知恵として、良く知られていた所為でしょう。
特に背中には、背骨、脊髄が通っているので、無闇に背を晒したまま幼年者と梃入れされずに居ると、只でさえなにものにでも成り得るところ、益々成り得ていたようです。
大人の斜め後ろへ背を晒して張り付いた時、幼年者は取り分けなにものにでも成り得やすく、大人や他の人から一切の余念を持たず幼年者と表明される必要があると見做され遣われていたのが「うずぐぬ」です。
「居る」「うずくまる」の意や音から派生したものとされています。
「くずれる」「つく」「去る」の意や音が含まれるとする説もありますが、幼少期、祖父母等高齢者から「うずぐぬ」を聞いた覚えがあると言う少数の高齢者らの推測なので、参考程度に留められています。
時代が下るに連れ、様々な物事が専ら学術の視座から解き明かされ、多くの人の認識において、抑々幼年者が成り得る「なにもの」の範疇が狭まりました。
すると大人の斜め後ろに張り付いた幼年者がなにものにせよ、その全てが概ね許容される世の中の当たり前になった為、徐々に「うずぐぬ」が遣われなくなって今日へ至ります。
「○○~」「お□さん」「お△ちゃーん」と斜め後ろへ来た声や、服越しに密着した体の反発や温度、跳ね返って対流した空気から漂うにおいや、迎え受けてぽんと手を置いた頭の高さや形や髪の感触に、ふと未知や違和、筆舌し得ない拒否の感覚を覚えた時なぞに、
「うずぐぬ」が遣われていた頃は、張り付いているのが幼年者と、一切の余念を持たず梃入れされていました。
「うずぐぬ」が遣われなくなってからは、さっと斜め後ろへ腰を捻り、見下ろし、認識されたありのままが強固に梃入れされています。
絵画や数値や文章等、多様な表現方法が発展、普及した結果、梃入れされる「ありのまま」は一昔前よりぐっと入り組んで奥行きがあり具体的です。
世の中の当たり前の範疇が、専ら学術の視座から整然と解き明かされ、狭まっているので、この当たり前を踏まえた上で認識される未知や違和や拒否の「ありのまま」は、整然たる解明の穴を突いて、間隙を掻い潜って立ち現れ、当たり前では片付かない複雑な根深さを帯びています。
過去*0年に亘り、私達が知る限りにおいて、最も強固に梃入れされたのが此方の親御様のお子様です。
親御様は極当たり前の理性と想像力を有しており、お子様が梃入れされてから、私達へご相談くださるまで、当たり前に取り得る全ての手を真摯に尽くされてきました。
この間、自然な流れとして、あらゆる分野で多くの人に「こんな事はあり得ない」と繰り返し結論を出されたので、遣る瀬無くもそれらの分があり得ないようになっています。
ここまで開会式で申し上げたご説明の振り返りになりましたが、併せて申し上げました通り、そこで、今会期中、集められるだけ集めた梃入れされる前のお子様の記録を皆様にご視聴いただいた事が重要となってまいります。
改めてお近くのスクリーンへご注目ください。
スピーカーからの音声に耳を澄ませてください。
以降、瞬きは構いませんが目を逸らさぬようお願いします。
此方の親御様の梃入れされる前のお子様です。
此方のお子様が今から後方より皆様のお名前を呼び掛けて駆け寄り斜め後ろへ張り付きます。
一切の余念を持たず「うずぐぬして」と梃入れしてください。
終.




