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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第5章 静かなる誘惑
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遮断線(ログが消える日)

ログが消える日は、静かだ。


警報が鳴らない。

発表もない。

ただ、画面の“欄”がひとつずつ空白になる。


空白は、遅れになる。

遅れは、切り口になる。


中央局・監査主導指揮室。


制御主任が、いつもの画面を開いて固まった。


揺動の波形はある。

霊気灯の局所落ちも出ている。

視認報告の件数も増えている。


なのに――「秒」がない。


小数点以下が丸ごと消えていた。

備考欄は、最初から無かったみたいに白い。


「……秒以下、落としたんですか」


制御主任の声が掠れる。


監査室の男は、紙を見ながら言った。


「適正化だ。現場の混乱を招く情報は遮断する。必要なものだけ残す」


必要なものだけ。


その言葉が出た瞬間、床に矢印が走った気がして、制御主任は視線を落とさなかった。

見たら足場になる。


「必要なのは、遅れを測る情報です」制御主任は言う。

「遅れが増えると×が増える。×が増えると救護が止まる。止まると——」


「恐怖を煽るな」監査室の男が切った。

「現象は治安案件として処理する。次の対策は封鎖の拡大と、記録の回収だ」


回収。


その単語の直後、別の端末が短く鳴った。押収庫(封印庫)の稼働通知。


封印保管庫:運用開始

対象:映像/ログ/旧式資料/医療カルテ抜粋

権限:監査室


制御主任が喉を鳴らす。


「医療カルテまで……」


監査室の男は淡々と言う。


「運用に影響する以上、医療も例外ではない。志乃の主観報告は“症状”として整理する」


症状。


切り取りの最終形が、そこにあった。

現象ではなく、個人へ戻す。


制御主任は抵抗の言葉を飲み込んだ。飲み込むのも遅れになる。

代わりに一つだけ言う。


「遮断したら、現象の線が太くなります」


監査室の男は答えない。

答えないまま、次の命令を出す。


「交通管制。“線”“矢印”“×”の語を公報から除外。報道には“照明不具合”“集団転倒事故”で統一」


統一。


統一は、現象を止めない。

統一は、遅れを増やす。


街。


朝の波は、点滅ではなく“ため息”みたいに来た。


霊気灯が落ちる前に、人が止まる。

止まった人の足元に×が出て、後ろが詰まる。詰まった肩がぶつかり、誰かが短く叫ぶ。


今日は転倒より、停止が多い。


止まる。

動けない。

助けたい人も止まる。


救護班が叫ぶ。


「腕を貸して! 立てる人、後ろへ!」


後ろへ、という命令に矢印が反応して、逆方向へ向きが生まれた気がして、群衆が一瞬ざわつく。

そのざわつきが、白さを濃くする。


通報は上がる。

だが通報の言葉は変えられる。


「白くなった」

「急に止まった」

「みんな同じ方向見てた」


矢印と×という単語だけが、どこにも書けない。


書けないものほど、街で口伝えになる。


医療区画・新病棟。


志乃は椅子に座れなかった。

座ると腰が軋む。軋みを直したくなる。直した瞬間に呼吸が一定へ寄る。


一定は危険だ。


医療監督がベッドの縁に志乃を戻しながら、小さく言った。


「封印保管庫が動きました。監査がカルテを“抜粋回収”します」


志乃の胸の奥の席が重く沈む。

沈んだ瞬間に浮きかける癖が走り、喉が硬くなる。


「……声の話も?」


医療監督は一拍だけ黙ってから言った。


「“症状”として切られます。あなたの意思は切られます」


切られる。


切られるなら、言葉を残さないほうがいい。

でも言葉を残さないと、現場が遅れる。


遅れは切り口になる。


志乃は震える息を吐いた。整えない。

整えない努力が修正になって、胸の内側がきしむ。


そのとき、床に薄い線が走った。


病室の床ではない。

廊下の、ナースステーションの前。出入りの線の上。


×が一つ、浮かぶ。


看護師が止まり、ストレッチャーが遅れ、患者の呼吸が乱れる。

小さな遅れが、連鎖する。


医療監督が唇を噛んだ。


「……止まらない」


志乃は答えなかった。

答える代わりに、胸の奥で“分散”を微細にかける。


滑走ほど動かさない。

摩擦を一点に集めない。


肩が引っかかる。腰が鳴る。胸が擦れる。

それでも席は浮かない。


×が薄くなる。

看護師の足が戻る。


志乃の視界の端が白くなりかけて、医療監督がすぐ手首に触れた。


「志乃さん、戻って。足の裏」


志乃は足の裏の冷たさを拾う。冷たさは現実だ。

現実の冷たさにしがみつくのも修正だと分かっている。それでもやる。


耳の奥に、硬い声。


「……戻して」


今日は近い。

近いというより、向きがはっきりしている。


塔の直下。本文側。


志乃は喉の奥で言った。


(そっちに器がある)


言葉にはしない。足場になるから。


共通面。


意識して入ったわけじゃない。

現実の白さが濃くて、押し出されるように開いた。


線の束。壁のない白。

都市の周期が、鼓動みたいに近い。


コウが、すぐそこにいた。


「遮断したな」


責める声じゃない。事実だ。


志乃は言う。


「ログを消してる。医療も回収される」


コウの目が、線の奥――暗点へ落ちる。


「隠すと、下が太る」


下の本文。参照保存。意識保全。


志乃の胸の奥がきしむ。


「器は……塔の直下にあるんだよね」


コウは一拍だけ黙った。黙り方が、肯定に近い。


「置かれている」コウが言う。

「保存の道が、そこに寄る。寄るほど“戻す”が現実になる」


志乃は息を止めない。止めれば固定へ寄る。

吐く。震える。整えない。


「俵屋が近づいてる」志乃。


コウの視線が一瞬だけ鋭くなる。

履歴が動いた感触。


「近づくほど、殺される」コウが低く言った。


「魔泉道に?」


コウは名を繰り返さない。

代わりに言う。


「手がある。端末がある。保存の道を“操作”する手がある。——それに触れれば、返り討ちだ」


返り討ち。


その言葉が現実側のどこかで鳴った気がして、共通面がざわつく。


コウが続ける。


「志乃、分散を続けろ。束ね地点だけで吸うな。下が開く」


「でも束ねないと事故が散る」


「散らすのは摩擦だ。事故は束ねろ。——矛盾だが、両方やれ」


両方。

その言葉が重い。体が先に折れる。


志乃は言った。


「私の身体が」


コウは即答する。


「折れる前に、切る」


切る。

何を切るのか、言わない。言えば足場になる。


共通面が一拍だけ白く裂けた。

裂け目の向こうで、塔の直下が“近い”。


近いのに、見えない。

見えないのに、器の気配だけがある。


そして、あの声がはっきりする。


「……戻して」


現実。


志乃はベッドの上に戻っていた。喉が焼け、肺が痛い。

医療監督が必死に呼びかけている。


「志乃さん! いまここ、日付、名前!」


綾崎志乃。

綾崎志乃。


言葉は崩れない。

手触りが薄い。


廊下の向こうで、監査の足音。紙を束ねる音。

封印庫へ運ぶ音。


医療監督が低い声で言った。


「監査が来ます。カルテの“抜粋”を取られる前に、あなたの身体負荷のログだけは医療側で保全します。——言葉は残さない。数字だけ残す」


志乃は震える息を吐いた。整えない。

その震えの端で、床の×がまた一つ浮かんだ。


街が止まる。

病院が止まる。

止まるほど、下が太る。


監査の扉が開く直前、志乃は思った。


(隠されるなら、向こうは準備してる)


器が塔の直下にある。

俵屋はそこへ行く。

魔泉道は、そこで待てる。


そして都市は、ログが消えた分だけ、崩れ方が速くなる。

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