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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第5章 静かなる誘惑
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本文への渡航

旧開発区の封鎖外縁は、風の通りが悪い。


テープが揺れる。人が揺れる。

揺れが重なると、そこだけ空気が薄くなる。


西野は自分の足元を見ないようにして歩いた。

見れば、線を探してしまう。探した瞬間、見える気がした。


古本は逆に、足元より「通るもの」を見ていた。

救護車。回収箱。書類封筒。

封鎖を出入りするものは、必ず何かを運ぶ。


「立会いはここまで」警備員が言う。「内側には入れません」


古本は頷いた。入れないのは分かっている。

入れない場所ほど、外側に漏れる。


実際、回収班が運ぶ箱の角から、紙が一枚だけはみ出していた。

古本の視線がそこに刺さる。


箱が揺れた瞬間、その紙が落ちた。


落ちた、というより——落とされたみたいに。


西野が反射で前に出そうとして、古本の腕がそれを止めた。


「走るな。私情になる」


古本はゆっくり歩いて、落ちた紙の横にしゃがむ。

手袋越しに拾う。


紙は古い。

押されたスタンプは剥げているのに、二文字だけ濃い。


魔 泉


古本は言葉にしない。

言葉にしたら足場になる。


代わりに、紙の端の注記を見た。

小さな手書きの文字が一つだけ残っている。


「本文」側へ


本文。


それだけで、背中が冷たくなる。

コウが言った言葉。志乃が引かれた言葉。


古本は紙を封筒に入れ、封をした。


「切れ端は取れた」

「……これで何が分かるんだよ」西野が歯を噛む。

古本は淡々と言った。


「“誰か”が、本文という言葉を現場で使っている。つまり、現象は偶然じゃない」


偶然じゃない、という宣言は、同時に危険でもある。

宣言すれば、相手がこちらを見返す。


封鎖外縁の霊気灯が、一拍だけ白くなった。

西野は息を呑み、古本は息を吐いた。吐いた息が少し震える。


「……見られてるな」西野が小声で言う。


古本は答えず、封筒を抱え直した。

封筒は盾にならない。

それでも、今は持つしかない。


医療区画・新病棟。


志乃は、手首の内側の脈だけを感じていた。

脈を数えない。数えると整えたくなる。


腰の軋みは消えない。

消えない軋みが、息を吸うたびに胸へ移る。


医療監督が低い声で言う。


「今日は共通面に行かせません。行けば戻りが遅れる。遅れは切り口になります」


遅れ。

それが一番嫌な単語だ。


志乃は「はい」と言った。声が薄い。

薄い声が、すぐ身体の内側へ戻ってくる。戻ってきたところで、胸がきしむ。


霊気灯が落ちた。


短い。

でも今日は“落ち方”が違う。白さが波ではなく、針みたいに一点に刺さる。


刺さった先は、志乃の胸の奥だった。


席が浮きかける。解除していないのに。

浮きかけた瞬間、紙の匂い。


「……戻して」


声は硬い。

お願いではなく、手順確認の声。


志乃は息を止めない。止めれば固定へ寄る。固定は削る。

吐く。震える。整えない。


その震えの端で、共通面が開いた。


医療監督が志乃の手首を押さえる。


「志乃さん、いまここ。足の裏——」


志乃は足の裏を感じようとした。

感じようとした努力が修正になって、腰が軋む。


それでも、引かれる。


共通面。


線の束がいつもより密だった。

都市の周期が近い。近いほど、現実が薄い。


コウは、立っていなかった。

立つというより、線の上に“留まっている”。


「来るなと言ったのに」


責める声じゃない。事実を置く声。


志乃は言った。


「勝手に開く。……街が波になってる」


コウは線の奥——暗点を見た。


「本文が、さらに擦れてる。俺が潜ったせいだ」


潜る。

コウが“本文へ潜航”している。


志乃は喉が硬くなる。


「潜航って、何をするの」


コウは線を一本、指で割いた。割いた線の向こうに、別の通路が見えた。


通路は二本あった。


一本は、志乃が知る塔の参照。

都市を維持するための線。揺れを抑え、循環を回す線。


もう一本は、色が違う。

白いのに白くない。匂いがないのに紙の気配がする。


コウが言った。


「本文は二重だ。上の本文と、下の本文」


「下の本文?」


「保存の本文」コウ。「参照保存。意識保全。——その道が最初からある」


“最初から”。


志乃の背中が冷える。後からの侵入ではなく、設計の問題。


志乃は言った。


「学院が、意識保全って注記を見つけた。欠けた式名と……魔泉って二文字」


魔泉、と言いかけた瞬間、共通面の線が一拍だけ硬くなった。

名前未満でも、音は足場になる。


コウの目が一瞬だけ鋭くなる。


「言うな」


「ごめん」志乃はすぐ言った。謝罪も修正だと知りながら。


コウは続ける。


「下の本文は、都市の運用とは別だ。運用が止まっても残る。——残るために作られてる」


残る。

その言葉は、戸塚の複製思考とも繋がる。


志乃は問う。


「戸塚は、その“下”にいるの?」


コウは首を振らない。頷きもしない。

代わりに、短く言う。


「滲んでる。保存は、漏れる」


志乃の胸の奥の席が軋んだ。

軋みが“摩擦”に似ている。


「滑走が摩耗すると、履歴が出る」コウが言った。「履歴が出ると、声が濃くなる。輪郭が動く。——今、それが起きてる」


志乃は息を吐く。吐いた重さが落ちる。


「じゃあ、どうしたらいい」


コウは線を二本、ほんの少しだけ離した。離し方が巧い。

擦れない距離。摩擦が散る距離。


「摩擦を散らせ」


志乃は眉を寄せる。


「散らす?」


コウが言う。


「滑走を一点に集めるな。束ね地点だけで吸うと、そこが臨界になる。臨界は輪郭を固める。——分散させろ」


分散。

束ねていたのに、分散。


矛盾ではない。目的が違う。

“事故”を減らす束ねと、“摩擦”を減らす分散。


コウは続けた。


「束ねるのは“見える現象”のため。分散するのは“本文”のためだ。本文に摩擦が集まると、下が開く」


「下が開いたら」


コウは即答した。


「街が共通面になる」


志乃の背中が凍る。

見える、では済まない。住む世界が変わる。


志乃は言った。


「あなたは、そこまで潜って何を確かめたいの」


コウは少しだけ黙った。

目的の核はまだ出さない沈黙。


その代わり、線の束の端にある“筆圧”みたいな形を指した。


誰かの書き込み。誰かの癖。

黒塗りの縁に残る、あの残り方。


コウが言う。


「人の意志が混ざってる。保存の道に。——偶然じゃない」


志乃は、学院の紙の切れ端を思い出した。

「本文」側へ。

その手書き。


「……誰が」


コウは短く言う。


「名前はまだ要らない。要るのは、止め方だ」


止め方。


志乃の胸の奥の席が重くなる。重いのに浮きかける。

現実の遅れが、ここにもある。


コウが線の奥を見て言った。


「潜航の代償が来る」


その瞬間、共通面の周期が跳ねた。

現実側の揺れが、ここへ突き上げる。


線が白く裂け、白さが“波”としてではなく“刃”として走る。


現実。


病室の霊気灯が一拍落ちた。

落ちる前に、医療監督が叫ぶ。


「志乃さん、戻って! いまここ——!」


志乃は戻る。戻るのが遅い。

遅れに合わせて腰がきしみ、胸の内側が引っかかる。


引っかかった瞬間、廊下の向こうで誰かが小さく叫んだ。


「……いま、矢印——!」


病院の床に、薄い線が走った。

塔の影ではない。旧開発区でもない。


“ここ”にも出る。


医療監督が息を呑む。


「波が……医療区画まで」


志乃は震える息を吐いた。震えを整えない。


共通面は閉じたのに、コウの最後の言葉が残る。


(摩擦を散らせ)

(下を開くな)


遠くで救急車のサイレン。

さらに遠くで、誰かが紙を束ねる音。


そして志乃は分かった。


コウが潜れば潜るほど、本文は揺れる。

本文が揺れれば、街が白くなる。


守るために確かめる行為が、守るものを傷つける。

その矛盾の中で、次の手が必要になった。

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