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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第4章 優しさの接点
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霊気灯が落ちるとき、音はしない。


音がしないぶんだけ、あとから来る。

人の声。足音。心拍の速さ。

遅れて、まとめて、街が揺れる。


医療区画の個室。


志乃はカーテンの隙間の暗さで、灯が「弱まった」ことを先に知った。

目が慣れているせいじゃない。胸の奥の席が、重くなる。


固定のはずなのに、身体が勝手に“戻し”の準備を始める。

指先が固くなる。肩が上がる。呼吸が一定に寄る。


一定は危険。

一定は固定へ寄る――と、頭が言う前に体が反応する。


「志乃さん、動かない。掴まない。いまは滑らせない」


医療監督の声は早い。

昨日の“滑走維持”が、ここでもう「手順」になっている。


志乃は頷きたいのに、頷くと首の奥がきしむ。

きしみを直したくなる衝動が湧き、湧いた瞬間に腰が軋んだ。


(直さない)


直さない、を選ぶのも修正だと分かっていて、それでも選ぶ。


廊下の向こうで誰かが小さく言った。


「……また、線」


線、という単語が、もう隠語じゃなくなり始めている。


モニターが表示を切り替える。


スカイ・ピラー:位相揺動 上昇

市内循環:局所落ち 複数

医療区画:自律維持 継続

注意:共通面兆候(視認報告)増加


注意、の一文が増えた。

“視認報告”という言い方が、都市の言葉で現象を認め始めた証拠だった。


三条の声が、通信越しに割り込む。


『病院だけじゃない。塔近傍で同時発生。地点、三つ――いや、五つに増えた』


五つ。

同時発生。


志乃の胸の奥の席が、一拍だけ浮きかける。解除していないのに。

浮きかけた瞬間に、耳の奥で紙の匂いが立つ。


「……戻して」


声は薄い。言葉としては届かない。

でも志乃の身体はそれを「意味」で受け取ってしまう。


医療監督が一歩寄り、志乃の手首にそっと触れた。


「聞かない。見ない。いまは足の裏」


志乃は足の裏を感じようとして、冷たさの輪郭にしがみつく。

しがみつく、という行為がまた修正になるのが分かる。分かるのに、手放せない。


塔近傍、環状道路の交差点。


信号が青に変わった。


変わったはずなのに、車の列が動かない。

一台だけ遅れて進み、止まる。止まったあと、後続が詰まる。


誰かがクラクションを鳴らした。鳴らした音が、途中で白くなる。

音が薄まる、という感覚。


歩行者が一斉に顔を上げた。


空に何かがあるわけじゃない。

それでも視線が同じ場所に吸い寄せられる。


線が見えた。


最初は電線かと思った。

でも電線は曲がらない。電線は増えない。


空中に、細い線が走る。

設計図みたいに正確な線が、交差点の上に一瞬で組み上がる。


誰かが言う。


「……紙の匂い、しない?」


別の誰かが笑いそうになって、笑えない顔になる。


「気のせいだろ……」


気のせい、と言った直後に、霊気灯が落ちた。


視界が白く跳ねた。

光が消えたのに、白い。

白さの中で、線が“人の輪郭”を作りかけて、すぐ崩れる。


歩行者の一人が、反射で後ずさった。足が縁石に引っかかり、転ぶ。

転んだ手が車道に伸び、車が急ブレーキを踏む。ブレーキ音が遅れて聞こえる。


周りが動く。

助け起こす人。スマホを構える人。怒鳴る人。


誰かが呟く。


「いま、誰か立ってなかった?」


誰かが答える。


「立ってない。……でも見えた」


見えた、という事実だけが残る。

意味は共有されない。共有できない。


白さが引く。

霊気灯が戻り、信号が再び動き出す。


取り残されたのは、紙の匂いだけだ。


中央局、暫定指揮室。


三条は扉を蹴るように入ったわけじゃない。

いつも通りの歩幅で、ただ、止まらない。


監査室の腕章が二つ、通路を塞いでいた。


「封鎖範囲は維持されている」片方が言う。「現場判断での介入は——」


三条は通り過ぎながら言った。


「介入しなければ市民が倒れる。いま、交差点で転倒事故が出た」


腕章が一瞬だけ言葉を失う。

失った隙に、三条は指揮卓へ手を伸ばした。


モニターには市内地図。塔を中心に点が灯る。

点が増えていく。塔近傍から、放射状に。


「……五点が八点に増えた。揺動は短いが同時だ」


制御主任が青い顔で言った。


「間欠じゃない。解除隙じゃないのに“線視認”が出てる。どう説明する」


三条は説明しない。手順を出す。


「滑走維持を、塔側の補助環にも適用できないか」


「未承認です」監査室の男が言う。「医療区画での暫定処置を、塔運用へ転用するのは越権——」


「越権なら俺の名でやる」三条が遮った。「いまは責任の順番より、事故の順番が先だ」


監査室が噛みつく。


「責任の押し付けは後で——」


「押し付けるな」三条の声が低くなる。「押し付け合っている間に、点が増える」


点滅するログが、指揮室の空気を冷たくした。


市内循環:局所落ち 同時発生

発生間隔:不規則

視認報告:線/白化/匂い 多数

外部位相ノイズ:検出不能

備考:——(監査適正化)

“備考”が空白のままなのが、露骨だった。

切り取った跡が、逆に切り口になる。


制御主任が別系統のログを呼び出した。交通管制側だ。

そこには、消しきれていない“古い形式”が混ざっていた。


交通管制:遅延予兆

注記:成立点参照 ※旧式

署名:M...(欠損)

三条の眉がわずかに動く。

「旧式」という言葉が、塔の建設史へ線を引く。


監査室の男がすぐに言う。


「その注記は無関係だ。古いテンプレートが——」


「無関係なら、なぜ残っている」三条が返す。「残っているものは足場になる。相手にとっても、こちらにとっても」


制御主任が乾いた声で言う。


「……滑走維持、塔側でやるなら、誰が席を持つ」


三条は一拍だけ黙った。


席の話は、志乃に戻る。

戻れば、また押し付けになる。


「補助環で滑らせる。人間の席に寄せない」三条は言った。「できるだけな」


“できるだけ”が、限界の言葉だった。


医療区画。


志乃の個室の霊気灯が、もう一度だけ落ちた。

短い。だが、さっきより鋭い。


白さが来る前に、線が来た。


線は天井ではなく、床を走った。

ベッドの脚から廊下へ、廊下から外へ、一本の線が引かれる。


引かれた線が、志乃の胸の奥に触れる。


(切り口)


耳の奥で、また声。


「……戻して」


志乃は反射で息を止めそうになって、止めなかった。

止めれば固定へ寄る。固定は削る。


吐く。

吐く息が震える。震えを整えない。


線が一瞬だけ、人の輪郭を作りかけた。

輪郭は立たない。立つ代わりに、“思考の形”だけが触れてくる。


必死さ。

焦り。

戻したいという一点の圧。


志乃は目を閉じないまま、喉の奥で言った。


「……誰に、戻してって言ってるの」


答えは言葉にならない。

ただ、遠く――塔の方角に向けて、線が少しだけ強くなる。


医療監督が小さく呟く。


「市民からの通報が入ってる。『塔の近くで線が見えた』って……」


志乃の背中が冷える。


共通面は、もう個人の中だけじゃない。

街が、見始めている。


そして見られる側も、見られることで形を持ち始める。


志乃の胸の内側が、息を吸うだけで軋んだ。

軋みの向こうで、紙の匂いが消えずに残る。


三条の通信が入った。


『志乃。いま市内で“線”が出てる。点が増えてる。——お前の身体はどうだ』


志乃は答えようとして、言葉を飲み込んだ。

答えは記録になる。記録は切り取られる。


だから、短く言った。


「……まだ、持ちます」


持つ、という言葉は本当じゃない。

でも、嘘でもない。


街が見始めた以上、もう“戻る”だけでは終われない。


霊気灯が戻る。

戻った光の下で、廊下の誰かが小さく言った。


「さっきの線……消えた?」


消えた。

消えたのに、残った。


残った匂いだけが、次の発生を予告していた。

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