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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第4章 優しさの接点
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移送

医療区画の朝は、歩く音が少ない。

封鎖のせいで、人の出入りが減っている。


志乃はベッドの縁に座り、床に足を下ろした。足裏が冷たい。冷たさに合わせて姿勢を整えたくなる。整えたい衝動が来て、腰の奥がきしんだ。


(直さない)


直さない、と決める。

決めた瞬間に、肩が勝手に下がり、胸が勝手に一定へ寄る。


一定は危険。固定へ寄る。


志乃は息を吐いて、わざと少しだけ乱した。

乱す努力が、また微修正になる。


そのとき、天井灯が一拍だけ弱まった。


霊気灯の落ち方だ。

病院の電気ではない、都市の呼吸が薄くなる瞬間。


カーテンの外で、看護師が小さく声を上げた。


「いま、灯が――」


次の瞬間、廊下の警告ランプが点いた。音は鳴らない。封鎖中の病棟は、無駄に人を揺らさない設計になっている。


だが、機器の表示が一斉に切り替わった。


霊気循環:微小揺動

交通管制:遅延予兆

医療区画:自律維持(節電)


志乃の胸の奥の席が、重くなる。

重くなった分だけ、身体が“戻し”の準備を始める。勝手に。


腰が軋む。胸の内側が引っかかる。指先が固まる。


(来る)


音も匂いもまだなのに、予感だけが先に走った。

解除の隙じゃない。都市の揺れが“合図”になる。


医療監督がカーテンを開けて入ってきた。顔は落ち着いているが、足が速い。


「志乃さん、立てますか。歩けるなら歩いて。無理ならストレッチャー」


「どこへ……」


「移します」医療監督は短く言った。「監査が、この区画を“運用区画”として再指定しようとしてる。医療主導が崩れる前に、こちらの病棟へ」


移す。

動く。

動けば、軋みが増える。


志乃は立とうとして、膝が一瞬だけ笑った。

笑ったのを直そうとして、太腿に力が入る。力が入ると呼吸が一定に寄る。


医療監督が即座に腕を貸した。


「整えない。乱れたままでいい。転ばないことだけ」


乱れたままでいい。

その言葉が、今の志乃には命令より難しい。


廊下。


封鎖の白い廊下を、志乃は歩いた。歩くたび、腰がきしむ。きしむたび、身体が戻そうとする。戻そうとする力を抑えるために、また力が要る。


(絶え間ない修正)


ここまで来ると、修正は位相操作じゃない。

歩くという動作そのものが修正になっている。


曲がり角で、黒いスーツの影が立ちはだかった。


監査の男ではない。部下。封鎖腕章。

目だけが仕事をしている。


「移送の許可は」


医療監督が書類を見せた。


「医療判断です。病棟移動。封鎖の範囲外。患者の安全確保」


部下が書類の端を指で押さえ、時間を稼ぐように言う。


「監査の指示が――」


そのとき、廊下の奥から三条が来た。歩幅が大きい。躊躇がない歩き方。


「指示なら俺が出す」三条が言った。「医療判断に口を出すなら、監査の越権として記録する」


部下の喉が鳴った。


「……責任者は」


「俺だ」三条は即答した。「通せ」


通す、という言葉が扉の鍵になる。

都市はいつも、言葉で扉を開ける。


部下が一歩退いた。


志乃はその隙に歩を進めた。進めた瞬間、胸の内側が引っかかる。息が止まりそうになる。


止めると固定に寄る。

寄った固定は、削る。


志乃は止めずに吸った。吸った息が、鋭く肺を刺した。

その痛みが、紙の匂いを呼ぶ。


(やめて)


言葉にすると、また修正になる。志乃は飲み込む。


エレベーター前。


扉が開くのを待つ間、霊気灯がもう一度だけ弱まった。今度はさっきより長い。二拍分。


志乃の背中が冷える。


耳の奥に、女の声が触れた。


「……戻して」


声は短い。短いのに、濃い。

濃いものほど、身体が勝手に反応する。


胸の奥の席が一拍だけ浮きかけた。


解除していないのに。

解除の指示も、機器の作動もないのに。


“席が浮く”感覚だけが来る。


志乃の指が、反射で手すりを掴んだ。掴む力が強い。強い力は、一定を作る。


医療監督が志乃の手首をそっと押さえた。


「掴まない。支えるのはこっち」


掴まない、と言われても、掴む癖はもう身体の側にある。

掴みたいのは手すりじゃない。胸の奥の席のほうだ。


志乃は唇を噛んだ。噛む力で、喉が軋む。


その瞬間、エレベーターの鏡面に自分の顔が映った。

青白い顔の横――ほんの一瞬だけ、別の輪郭が映った気がした。


青年の影。


こちらを見ていないのに、見られている感触。

目の部分だけが、ひどく鮮明に感じられる。


志乃の背筋が凍った。


(……いる)


鏡を見続けると、混ざる。混ざると戻れない。

志乃は視線を落とした。落としただけで、腰がきしんだ。


扉が開いた。


同時刻、学院。


西野は息を切らして走っていた。

走るな、と言われても走る。走らないと間に合わない、という感覚が身体を動かす。


古本が横で書類の封筒を抱えている。走りながらでも折れないように。


「門、抜ける」古本が短く言う。


「病院に入れんのかよ」西野。


「入れない」古本。「だから“病院に入る書類”を先に入れる」


二人は研究都市の連絡通路を抜け、中央局の受付へ滑り込んだ。

受付の警備員が手を上げる。


「用件は」


古本が封筒を出した。


「医療連携照会。学院統計研究室――じゃない。学院医療工学から、医療区画へ。身体負荷評価支援の協力申請」


警備員が目を細める。


「宛先が医療監督……封鎖中だが」


「封鎖は運用区画です」古本は言った。「医療は別。記録保全は別。これは“外に出すため”ではなく、“中で守るため”の連携です」


西野が横で喉を鳴らす。言いそうになるのを堪えた。言えば私情になる。私情の札を貼られる。


警備員が内線を取る。時間が伸びる。


その間にも、塔の微小揺動は続いている。

都市の呼吸が薄いまま、戻り切らない。


エレベーターの中。


志乃は壁に背をつけた。背をつけると楽になる。楽になる姿勢を探すと固定に寄る。寄るのが怖くて、少しだけ背を離す。


その動きで、肩が軋んだ。


三条が低い声で言う。


「志乃、いまは何もするな。基準は固定のまま。揺れは俺たちが吸う」


吸う、という言葉が妙に現実的だった。

都市の揺れを、誰が吸うのか。


医療監督が操作盤を見た。


「到着まで二十秒。揺動が大きくなったら止まります。――止まったら、歩けません。ストレッチャーに切り替えます」


志乃は「はい」と言って、言葉の端が薄くなるのを感じた。

自分の声が、自分のものじゃないみたいだ。


そのとき、エレベーターが一瞬だけ揺れた。


縦揺れではない。

“位相の揺れ”に似た、空気の薄いズレ。


志乃の胸の奥の席が、勝手に微修正を始める。


やめろ、と言う前に、身体がやる。

絶え間ない修正が、勝手に走る。


腰が、きし、と大きく軋んだ。


志乃は息を呑んだ。

息を呑んだ瞬間、女の声がはっきりする。


「戻して」


そして、青年の目の感触が、すぐそこまで近づく。


医療監督がすぐに言った。


「志乃さん、見ない。聞かない。――ここは“いま”です。足の裏」


志乃は足の裏を感じようとした。

感じようとする努力が、また修正になる。


それでも、足の裏は冷たい。

冷たさだけが現実だった。


エレベーターが、また小さく揺れた。


扉が開く直前。

白い廊下の向こうに、新しい病棟の青い表示灯が見えた。


そこへ移れれば、線が変わる。

線が変われば、切り取り方も変わる。


――変わる前に、もう一度“戻して”が来る気がした。


志乃の胸の内側が、息を吸うだけで軋んだ。

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