移送
医療区画の朝は、歩く音が少ない。
封鎖のせいで、人の出入りが減っている。
志乃はベッドの縁に座り、床に足を下ろした。足裏が冷たい。冷たさに合わせて姿勢を整えたくなる。整えたい衝動が来て、腰の奥がきしんだ。
(直さない)
直さない、と決める。
決めた瞬間に、肩が勝手に下がり、胸が勝手に一定へ寄る。
一定は危険。固定へ寄る。
志乃は息を吐いて、わざと少しだけ乱した。
乱す努力が、また微修正になる。
そのとき、天井灯が一拍だけ弱まった。
霊気灯の落ち方だ。
病院の電気ではない、都市の呼吸が薄くなる瞬間。
カーテンの外で、看護師が小さく声を上げた。
「いま、灯が――」
次の瞬間、廊下の警告ランプが点いた。音は鳴らない。封鎖中の病棟は、無駄に人を揺らさない設計になっている。
だが、機器の表示が一斉に切り替わった。
霊気循環:微小揺動
交通管制:遅延予兆
医療区画:自律維持(節電)
志乃の胸の奥の席が、重くなる。
重くなった分だけ、身体が“戻し”の準備を始める。勝手に。
腰が軋む。胸の内側が引っかかる。指先が固まる。
(来る)
音も匂いもまだなのに、予感だけが先に走った。
解除の隙じゃない。都市の揺れが“合図”になる。
医療監督がカーテンを開けて入ってきた。顔は落ち着いているが、足が速い。
「志乃さん、立てますか。歩けるなら歩いて。無理ならストレッチャー」
「どこへ……」
「移します」医療監督は短く言った。「監査が、この区画を“運用区画”として再指定しようとしてる。医療主導が崩れる前に、こちらの病棟へ」
移す。
動く。
動けば、軋みが増える。
志乃は立とうとして、膝が一瞬だけ笑った。
笑ったのを直そうとして、太腿に力が入る。力が入ると呼吸が一定に寄る。
医療監督が即座に腕を貸した。
「整えない。乱れたままでいい。転ばないことだけ」
乱れたままでいい。
その言葉が、今の志乃には命令より難しい。
廊下。
封鎖の白い廊下を、志乃は歩いた。歩くたび、腰がきしむ。きしむたび、身体が戻そうとする。戻そうとする力を抑えるために、また力が要る。
(絶え間ない修正)
ここまで来ると、修正は位相操作じゃない。
歩くという動作そのものが修正になっている。
曲がり角で、黒いスーツの影が立ちはだかった。
監査の男ではない。部下。封鎖腕章。
目だけが仕事をしている。
「移送の許可は」
医療監督が書類を見せた。
「医療判断です。病棟移動。封鎖の範囲外。患者の安全確保」
部下が書類の端を指で押さえ、時間を稼ぐように言う。
「監査の指示が――」
そのとき、廊下の奥から三条が来た。歩幅が大きい。躊躇がない歩き方。
「指示なら俺が出す」三条が言った。「医療判断に口を出すなら、監査の越権として記録する」
部下の喉が鳴った。
「……責任者は」
「俺だ」三条は即答した。「通せ」
通す、という言葉が扉の鍵になる。
都市はいつも、言葉で扉を開ける。
部下が一歩退いた。
志乃はその隙に歩を進めた。進めた瞬間、胸の内側が引っかかる。息が止まりそうになる。
止めると固定に寄る。
寄った固定は、削る。
志乃は止めずに吸った。吸った息が、鋭く肺を刺した。
その痛みが、紙の匂いを呼ぶ。
(やめて)
言葉にすると、また修正になる。志乃は飲み込む。
エレベーター前。
扉が開くのを待つ間、霊気灯がもう一度だけ弱まった。今度はさっきより長い。二拍分。
志乃の背中が冷える。
耳の奥に、女の声が触れた。
「……戻して」
声は短い。短いのに、濃い。
濃いものほど、身体が勝手に反応する。
胸の奥の席が一拍だけ浮きかけた。
解除していないのに。
解除の指示も、機器の作動もないのに。
“席が浮く”感覚だけが来る。
志乃の指が、反射で手すりを掴んだ。掴む力が強い。強い力は、一定を作る。
医療監督が志乃の手首をそっと押さえた。
「掴まない。支えるのはこっち」
掴まない、と言われても、掴む癖はもう身体の側にある。
掴みたいのは手すりじゃない。胸の奥の席のほうだ。
志乃は唇を噛んだ。噛む力で、喉が軋む。
その瞬間、エレベーターの鏡面に自分の顔が映った。
青白い顔の横――ほんの一瞬だけ、別の輪郭が映った気がした。
青年の影。
こちらを見ていないのに、見られている感触。
目の部分だけが、ひどく鮮明に感じられる。
志乃の背筋が凍った。
(……いる)
鏡を見続けると、混ざる。混ざると戻れない。
志乃は視線を落とした。落としただけで、腰がきしんだ。
扉が開いた。
同時刻、学院。
西野は息を切らして走っていた。
走るな、と言われても走る。走らないと間に合わない、という感覚が身体を動かす。
古本が横で書類の封筒を抱えている。走りながらでも折れないように。
「門、抜ける」古本が短く言う。
「病院に入れんのかよ」西野。
「入れない」古本。「だから“病院に入る書類”を先に入れる」
二人は研究都市の連絡通路を抜け、中央局の受付へ滑り込んだ。
受付の警備員が手を上げる。
「用件は」
古本が封筒を出した。
「医療連携照会。学院統計研究室――じゃない。学院医療工学から、医療区画へ。身体負荷評価支援の協力申請」
警備員が目を細める。
「宛先が医療監督……封鎖中だが」
「封鎖は運用区画です」古本は言った。「医療は別。記録保全は別。これは“外に出すため”ではなく、“中で守るため”の連携です」
西野が横で喉を鳴らす。言いそうになるのを堪えた。言えば私情になる。私情の札を貼られる。
警備員が内線を取る。時間が伸びる。
その間にも、塔の微小揺動は続いている。
都市の呼吸が薄いまま、戻り切らない。
エレベーターの中。
志乃は壁に背をつけた。背をつけると楽になる。楽になる姿勢を探すと固定に寄る。寄るのが怖くて、少しだけ背を離す。
その動きで、肩が軋んだ。
三条が低い声で言う。
「志乃、いまは何もするな。基準は固定のまま。揺れは俺たちが吸う」
吸う、という言葉が妙に現実的だった。
都市の揺れを、誰が吸うのか。
医療監督が操作盤を見た。
「到着まで二十秒。揺動が大きくなったら止まります。――止まったら、歩けません。ストレッチャーに切り替えます」
志乃は「はい」と言って、言葉の端が薄くなるのを感じた。
自分の声が、自分のものじゃないみたいだ。
そのとき、エレベーターが一瞬だけ揺れた。
縦揺れではない。
“位相の揺れ”に似た、空気の薄いズレ。
志乃の胸の奥の席が、勝手に微修正を始める。
やめろ、と言う前に、身体がやる。
絶え間ない修正が、勝手に走る。
腰が、きし、と大きく軋んだ。
志乃は息を呑んだ。
息を呑んだ瞬間、女の声がはっきりする。
「戻して」
そして、青年の目の感触が、すぐそこまで近づく。
医療監督がすぐに言った。
「志乃さん、見ない。聞かない。――ここは“いま”です。足の裏」
志乃は足の裏を感じようとした。
感じようとする努力が、また修正になる。
それでも、足の裏は冷たい。
冷たさだけが現実だった。
エレベーターが、また小さく揺れた。
扉が開く直前。
白い廊下の向こうに、新しい病棟の青い表示灯が見えた。
そこへ移れれば、線が変わる。
線が変われば、切り取り方も変わる。
――変わる前に、もう一度“戻して”が来る気がした。
志乃の胸の内側が、息を吸うだけで軋んだ。




