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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第4章 優しさの接点
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切り口

封鎖の中でいちばん先に自由を失うのは、人ではなく「順番」だ。


何を先に報告するか。

どの行を上に載せるか。

誰の目を通してから、誰の目へ渡すか。


順番を握った側が、現象の意味を決める。


上層の会議室に、同じログが二種類置かれた。


ひとつは監査室がまとめた「要約」。

もうひとつは医療側が保全した「原形に近い抽出」。


監査室の男が淡々と説明する。


「運用手順に逸脱があり、被験者が意識低下。解除窓は目標を超過。歪み兆候は急増。よって間欠維持は危険。固定復帰が妥当です」


役員の一人が、要約の紙だけを見て言った。


「結論は簡単だな」


別の役員が医療側の抽出を手に取る。目が細くなる。


「……侵蝕指標が“微減”している? 混線頻度も下がっている。危険だけじゃない。利益がある」


監査の男が一拍置いて言う。


「利益は、被験者の主観に依存する不確実なものです」


医療監督が静かに返す。


「主観ではありません。ログです。解除窓と身体反応もログに落ちています。負荷が積んでいる。固定に戻せば、侵蝕が進みます」


役員が机を指で叩く。


「なら、固定と間欠の折衷案は?」


三条が出したのは「折衷案」ではなく、文書だった。


医療リハビリ措置:基準位相の短時間調整

解除窓:0.3秒以下

回数:医療監督判断(最大3/日)

目的:参照侵蝕の進行抑制/身体負荷の評価

注意:外部参照再侵入リスク(監査立会い)


監査の男が即座に言う。


「名目のすり替えです。実質は間欠維持の継続」


三条は一段低い声で言った。


「実質は治療だ。治療を止めるなら、その責任を議事録に載せる。個人の意思を剥奪するなら、その根拠も載せる」


「剥奪など――」と役員が言いかけて止まる。

止まった沈黙が、言葉の続きだった。


医療監督が、さらに一枚の紙を出す。


「学院から照会が来ています。統計研究の名目でログの提供依頼。外部の目が入る前提で、我々は記録を整合させる必要があります」


“外部の目”という言い方が、会議室の空気を変えた。


役員の一人が監査の男を見る。


「監査室、どうする」


監査の男は笑わずに答える。


「提供範囲を限定します。危険な文言は排除すべきです」


三条が言う。


「排除は改竄だ」


監査の男が返す。


「表現の適正化です」


適正化。

都市が一番得意な切り取り方。


医療区画。


志乃は、ベッドの上で膝を抱えないようにしていた。抱えれば楽になる。楽になる姿勢を探すほど、身体が“基準の座り方”を覚えてしまう。


呼吸は浅い。浅い呼吸が一定に寄りそうで、わざと吐く息を長くする。

長くした努力が、また微修正になって、胸の内側がきしむ。


医療監督が、床に小さなマットを敷いた。


「今日、試します。リハビリ措置としての短時間調整。回数は二回まで。解除窓は0.3秒以下。――監査立会いです」


カーテンの外に、あの足音がある。監査の男ではない。部下だ。目だけが仕事をしている。


志乃は喉の奥を動かして、頷いた。頷く動きで肩が引っかかる。引っかかりを直そうとした瞬間、腰が軋む。


(直さない)


直さない、と決めるだけで、体が修正を始める。

その矛盾が、もう日常になっている。


小型の抑制環が、ベッド脇に設置された。整流室ほど強くない。医療向けに出力が落ちた補助器だ。


モニターが灯る。


[医療リハビリ:短時間調整]

解除窓上限: 0.30s

回数上限: 2

トリガ: 筋電跳ね/握力上昇/呼吸一定化兆候

備考: 監査立会い

医療監督が言う。


「志乃さん。解除は“自分に戻る”ためじゃない。侵蝕を遅らせるための技術です。気持ちよさを追わない」


志乃は、小さく「はい」と言った。

言った瞬間に、喉が引っかかる。引っかかりが胸へ落ち、胸がきしむ。


カウント。


3。

2。

1。


緩む。


胸の奥の席が、ほんの針先ほど浮く。

その針先に空気が通る。久しぶりに、深呼吸の入口が見える。


――同時に、紙の匂い。


来るのが早い。

白い部屋の輪郭は出ない。ただ、「戻して」の声だけが先に触れる。


「……戻して」


志乃の指先が、反射で握り込む。握り込みを止めようとして、さらに力が入る。


トリガが作動する。


抑制環が先回りの再固定を掛ける。


席が沈む。匂いが薄れる。声が遠ざかる。


モニターが確定する。


解除: 0.18s

再固定: 0.20s

身体反応: 握力↑→トリガ作動

歪み兆候: 微(解除開始直後)

監査の部下がメモを取る音がした。紙の上を滑る音。

その音が、さっきの匂いと結びついて、志乃の背中が冷える。


医療監督がすぐ言う。


「今ので十分です。もう一回はやらない」


志乃は反射で言いかけた。


「でも――」


でも、と言った瞬間、胸の内側がきしんだ。

“続けたい”が、すでに負荷だと分かる。


医療監督は目だけで止めた。


「十分。今日の目的は“安全に切る”こと。戻る感覚を得ることじゃない」


志乃は唇を噛んだ。

噛む力も、修正になる。


監査の部下が淡々と言う。


「記録しました。危険兆候は微小。だが主観報告(声)については、運用に不必要。報告対象外とします」


医療監督が低い声で返す。


「主観報告は医療カルテに残します。運用は運用、医療は医療です」


そのやり取りを聞きながら、志乃は確信した。


声は「報告対象外」にされる。

報告対象外になったものは、存在しないことにされる。


存在しないことにされた声は、次に来たとき、誰も準備できない。


学院。


夜遅く、古本の端末に一通だけ返信が来た。


件名は事務的だ。


照会受理/提供範囲通知(限定)


添付のPDFは薄い。ページ数が少ない。


古本は開いて、スクロールし、途中で止まった。


「……切ってる」


西野が覗き込む。


「何を」


古本が指で示したのは、“備考”欄だった。丸ごと空白になっている。


備考:——


そして、もうひとつ。


タイムスタンプの微小な先行が、丸められている。秒以下が消されている。


西野の声が荒くなる。


「ふざけんな。そこが大事なんだろ」


古本は、怒らない。怒りを数字に落とす。


「提供範囲限定。適正化。……監査が手を入れた」


西野が言う。


「じゃあ意味ねえじゃん」


古本は、首を振る。


「意味はある。“どこを切ったか”が分かった。つまり、向こうが怖がってるのは備考と秒以下だ。――秒の端が、また入口になってる」


入口、という言葉が、西野の喉に刺さる。


「志乃は……大丈夫なのかよ」


古本は一拍置いて答える。


「大丈夫じゃない。だから、こちらも“切られない形”で取りに行く。医療カルテのほうだ。声の記録は、監査が手を出しにくい」


西野が目を見開く。


「医療カルテに手を出させない線を作るってことか」


古本は頷いた。


「名目が要る。研究じゃなく、医療連携だ。学院から医療へ。“身体の軋み”の評価支援。そこに、声の記録が付随する形にする」


西野は、息を吐いた。


「……名目で守るの、こんなに苦しいんだな」


古本は淡々と言う。


「苦しいが、これが都市の戦い方だ」


医療区画。


志乃は、抑制環が外されたあとも、しばらく胸の奥の席を感じ続けていた。沈んだ感覚が残る。残った沈みを、微修正で軽くしたくなる。


軽くしたくなる衝動を、飲み込む。


飲み込むと、肩がきしむ。


医療監督が言った。


「今日は成功です。解除を短く切れた。歪みは微小。あなたの身体反応も、止められた」


成功。

その言葉に、志乃はうまく頷けなかった。


短く切れたのは、機械が先回りしてくれたからだ。

志乃の身体は、相変わらず「戻したがって」いる。


そして、声は切れなかった。短かったぶん、濃く触れた。


「戻して」


あの必死さが、まだ指先に残っている。


志乃はまぶたを下ろさないまま、天井を見た。

白い天井に、何もないはずなのに、紙の匂いが微かにする。


(切り取られたものは、消えない)


都市が切っても、内側には残る。

残ったものが、また次の解除の端で顔を出す。


志乃の胸の内側が、息を吸うだけで軋んだ。

その軋みの向こうに、一瞬だけ青年の目の感触がよぎる。


見られている。

でも、こちらからは見えない。


封鎖は続く。

切り取りも続く。


だからこそ、次に開くのは――「隙」ではなく「切り口」だと、志乃は思った。


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