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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第3章 混沌と狂気

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基点室

エレベータは、音を食べる箱だった。


扉が閉まると、外の機械音が一段遠のく。

代わりに、足元から低い振動だけが上がってくる。塔の鼓動。都市の中心の内臓音。


志乃は手首の抑制環を見た。表示は青。限界値が狭い。

“押し返し”は禁止。防御入力のみ。


三条が前に立っている。ヘルメットの影で表情は読めない。

だが声はいつも通り淡々としていた。


「最下層に着いたら、喋る量を減らす。呼吸を乱すな」


志乃は頷いた。


神代教官は少し離れて立つ。

視線は志乃ではなく、エレベータの壁の向こうにある“基点”を見ているようだった。


下降表示が、地下四階、五階と進む。

地下八階で、一度だけ光が揺れた。


誰も何も言わない。

揺れたのが照明か、こちらの感覚か、もう区別がつかない。


扉が開く。


空気が違った。冷たい。乾いている。

そして、古い匂いがする。新しい機材の匂いではなく、硬化した樹脂と金属粉の匂い。


通路は狭い。壁は厚い。

霊気導路の束が、血管みたいに天井を這っている。


「ここが……基点区画」


同行の技官が呟く。


三条が短く答える。


「“整備”の名目で入れるのは今日だけだ。手順は確認済み。迷うな」


志乃は胸の奥の波を確かめた。


塔の応答が、近い。近すぎる。

近いのに、整いすぎている。


掴まれた重さが、ここでは輪郭を持っている。


基点室。


扉が開いた瞬間、志乃は一歩遅れて息を飲んだ。


部屋の中央に、丸い制御輪がある。今の制御輪より小さい。古い型だ。

その周囲に、太い導線と、封止された箱。構造が“成立”の時代のまま残っている。


ここが、結び目。


志乃の視界の端が、薄く別色を帯びる。


白い照明。紙の擦れる音。

図面の上で止まる指先。線が集まる一点。


——定義するみたいに置かれる指。


志乃は目を瞬いて、その色を追い払った。


三条が言う。


「志乃、今は見るな。守れ」


守る。

押すのではなく、形を消す。


足場を作らない。縁を作らない。欠損を立てない。


志乃は小さく頷いた。


技官が端末を固定し、基点輪のカバーを外す。


「原点切り離し、開始します」


連絡回線の向こう、制御主任の声が返る。ノイズが混じる。


『同期率、99.3。固定、強化傾向。欠損なし。外部ノイズ、検出不能のまま』


検出不能。

見えないのに、掴まれている。


三条が言う。


「手順通り。遮断は溶かせ。黒塗りを作るな。縁にするな」


技官が頷く。


「基点輪、参照ラインの切り替えに入ります。——隔離楔、挿入」


“楔”と呼ばれた部材は、薄い金属の板に見えた。

だがそれはただの金属ではない。位相を通さない材。通してはいけないもの。


楔が基点輪の隙間に入った瞬間。


志乃の胸が、持ち上がった。


削られる痛みではない。

引かれる。持っていかれる。


波形が、勝手に基点へ寄る。


(私が足場になる)


その理解が、恐怖より先に来た。


志乃は反射で押し返しそうになり、歯を噛んで止めた。

押せば鍵になる。今ここで鍵を回したら、基点室が入口になる。


(三条の言葉。守れ)


志乃は“縁を消す”。


自分の波の輪郭を、できるだけ曖昧にする。

掴む手が掛かりを失うように。


同時に、塔整えを最小で維持する。

角を落とすだけ。揺れの立ち上がりを丸めるだけ。


押さない。

ただ、形を崩さない。


モニターが跳ねる。


基点輪:隔離楔 挿入

参照同期率:99.3 → 97.9

志乃波形:引力増(基点寄り)

欠損:未発生

備考:外部参照 固執挙動


制御主任の声が上ずる。


『下がった……! 同期率、落ちてます!』


三条が即座に言う。


「志乃、耐えろ。足場になるな。押すな」


志乃は息を短く整えた。

胸の奥が重い。塔の応答が、近いのに遠い。


遠い、というより——引っ張られる。


基点に。過去に。


視界がまた別色を帯びる。


紙の音。図面。

そして、女の声がすぐ近くに来る。


言葉は聞こえない。

でも“止めて”と“続けて”が同時に混じったような温度だけが残る。


志乃は唇を噛んだ。


(ここには、記録だけじゃない)


成立は工学じゃない。

誰かの選択が刺さっている。


その選択の上に、いま自分が立っている。


「隔離楔、定着。次、参照ライン切断」


技官の声。


三条が頷く。


「やれ」


切断。


その単語が落ちた瞬間、基点室の空気が一段重くなった。

圧が増したのではない。時間が重くなる。


掴む側が、力を入れた。


志乃の胸が痛む。薄い欠けが深層の縁に走る。

“噛まれた”感覚。


(足場にさせない)


志乃はさらに縁を丸める。

自分の波形の「角」を削り、掴む指先が滑るようにする。


押し返さない。

守りだけ。


その瞬間、制御主任の声が鋭く入る。


『中央区、霊気灯、微弱低下! 交通管制、遅延予兆!』


都市が反応している。

基点に触れた揺れが、上へ波及している。


三条が短く命じた。


「続行。落とすな。——落とすなら、今落とす」


落とす。

停止。遮断。禁句。


でも今は、禁句を避けている時間がない。


技官が参照ラインを切る。


刹那。


志乃の胸の奥が、すっと静かになった。


塔の応答が、ほどける。


掴まれていた重さが、一拍だけ軽くなる。


モニターが跳ねる。


参照ライン:切断 完了

外部参照同期率:97.9 → 61.2

内部参照:成立期相当 → 不明(揺らぎ)

欠損:未発生

備考:位相固定 解除傾向


解除傾向。


誰もすぐには喜ばない。

喜べない。


解除は同時に、“支えを失う”ことでもある。


案の定、次の瞬間。


塔の波形が大きく揺れた。


整いすぎていたものが、戻り方を忘れた揺れ。


制御主任が叫ぶ。


『塔出力、乱れ! 逆位相、増大!——遮断待機が立つ!』


三条が志乃を見る。


「志乃」


志乃は頷く。

ここで押し返したら鍵になる。それでも——都市が落ちるよりは。


しかし三条は、先に言った。


「押すな。——防御で支えろ」


志乃は息を吸い、深層を最小で整える。


角を落とす。

揺れの立ち上がりを丸める。

縁を消す。


“押し返し”ではなく、“転ばせない”整え方。


塔の波形が、ほんの一拍、踏み留まる。


遮断待機表示が、待機のまま止まった。


遮断待機:解除

逆位相:減衰

出力:安定化(暫定)


暫定。


それで十分だった。

今は生き残ればいい。


基点室の照明が、一度だけ揺れた。


そして戻る。


上層から報告が入る。


『中央区、瞬間的な光量低下。0.6秒。非常系で復帰。混乱なし』


0.6秒。


暗転の三秒より短い。

それでも都市の皮膚が震えた証拠だ。


三条が息を吐いた。


「……やったな」


声は淡々としている。

だが言葉の中に、初めて“安堵”の形が混じった。


志乃は返事をしなかった。

胸の奥が、まだ痛い。


痛いのは削られたからではない。

ほどけた瞬間に、逆に“残った”ものがあるからだ。


別色の断片。

紙の音。指先。女の声。


成立点に触れた分だけ、触れ返された。


制御主任の声が、落ち着きを取り戻したトーンで言う。


『外部位相ノイズ、微弱検出に復帰。……ただし、形が変わっています』


三条の目が細くなる。


「……学んだか」


技官が言う。


「参照ラインを切られた。なら、別の参照を作るはずです」


志乃の胸が小さく波打つ。


別の参照。

別の足場。

別の結び目。


三条が短く言った。


「撤収する。基点室の記録は封印。——志乃、歩けるか」


「……はい」


志乃は立ち上がった。足が少し震える。だが立てる。

怖さより先に、ひとつの事実が胸に落ちている。


掴まれた塔は、ほどける。

ほどけるなら、もう一度掴まれ直すこともある。


そして次は、もっと厄介な形で来る。


エレベータに戻る途中、志乃は一度だけ振り返った。


基点室の扉は閉じている。

そこに空はない。音もない。


それでも志乃には、あの一点が見える気がした。


線が集まり、世界が定義される結び目。


都市の中心は、今日も立っている。

だが“立ち方”が変わった。


——勝ったのではない。


ただ、相手の手から一度だけ、中心を引き剥がした。

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