盗まれて、世界一になった微笑み——《モナ・リザ》を有名にした、四つの鉄のフック
いまルーヴル美術館で《モナリザ》と目を合わせる多くの人は、彼女がかつて盗まれていたことさえ知らないかもしれない。けれど、その静かな微笑みの奥には、間違いなく“歴史の影”が宿っている。
一枚の絵画が、国家の威信と美術史、犯罪と愛国心、そして真贋をめぐる謎を抱えて歩んだ数奇な運命──。それこそが、《モナリザ》が世界で最も知られる芸術作品となった理由なのである。
1911年のパリで、ルーヴル美術館のもっとも奇妙な人気展示は、絵ではなかった。
壁だった。
正確に言えば、そこにあるはずの絵が消え、四つの鉄製フックだけが残った壁の一角である。
美術館が一週間ぶりに再開すると、何千人もの人がSalon Carré(サロン・カレ)に押し寄せた。目的は《モナ・リザ》を見ることではない。《モナ・リザ》がないことを見るためだった。
その中には、Franz Kafkaもいた。
作品はない。
観客だけが増えた。
スマートフォンもSNSもない時代なのに、その光景はひどく現代的だ。話題になった場所へ行き、自分の目で確かめ、帰ってから誰かに話す。
百年以上前のパリで、人々はすでに「不在」を見物していた。
白い作業着を着た男
1911年8月21日、月曜日。
その日はルーヴル美術館の休館日だった。
かつて館内でガラス工として働いたことのあるVincenzo Peruggiaは、白い作業着姿で建物に入った。館内の通路も、職員の動きも、絵を保護する仕組みも知っていた。
彼は人のいないサロン・カレで《モナ・リザ》を壁から外し、近くの階段で額と保護装置を取り除き、木板の絵を運び出したとされる。
警報は鳴らなかった。
呼び止める人もいなかった。
作業着は、その朝だけ、立派な通行証になった。
ただし、Peruggiaが抱えていたのは、まだ「世界でもっとも有名な絵」ではなかった。当時のルーヴルで彼女の前だけに人だかりができることはなかった。ほかの名品に比べ、一般客の関心はまだ限られていた。スターではなかった。
翌日、壁だけが残っていた
8月22日、画家Louis BéroudがSalon Carréを訪れた。
いつもの場所に《モナ・リザ》がない。
最初、守衛たちは特に慌てなかった。作品は撮影や作業のため、一時的に外されることがあったからだ。
「写真部門に運ばれたのだろう」
そう考えられた。
ところが、そこにもない。
館内を確認しても、ない。
額と保護ガラスの一部は見つかった。
絵だけが消えていた。
《モナ・リザ》はすでに二十時間以上、ルーヴルの外にあった。ようやくその事実を、ルーヴル自身が知ったのである。
翌23日、新聞は事件を大きく報じた。
どうやって盗んだのか。
いつ盗んだのか。
犯人は一人なのか。
絵はまだパリにあるのか。
海を渡ったのか。
裕福な収集家が注文したのか。
ドイツの陰謀なのか。
政府を困らせるための犯行なのか。
答えがないことは、新聞にとって困ったことではない。むしろ、毎日続きを書けるということだった。
事件は、一夜で巨大な連載物語になった。
絵は消え、顔は増えた
新聞は《モナ・リザ》の顔を何度も掲載した。
街には手配書が貼られた。
風刺画が描かれ、絵はがきが作られ、歌や舞台の題材になった。
Pablo PicassoとGuillaume Apollinaireまで捜査に巻き込まれた。二人は《モナ・リザ》を盗んではいなかったが、過去にルーヴルから持ち出された別の彫像をめぐる事件と接点があったためである。
高級美術の話だったはずが、いつの間にか、街角の話題になっていた。
絵はルーヴルから消えた。
その代わり、彼女の顔は世界中の紙面に現れた。
ここに、この事件の最大の逆説がある。
人は、目の前にあるものをいつでも見ようとはしない。
だが、「もう見られない」と聞いた瞬間、それを見たくなる。
何もない場所へ行く理由
ルーヴルが再開したとき、人々は四つのフックが残る空白の前に立った。
壁そのものを鑑賞したかったわけではない。
彼らが見たかったのは、事件が本当に起きた場所だった。
「あの絵は、たしかにここから消えた」
それを自分の目で確認したかった。
いまの言葉でいえば、これは「聖地巡礼」や「話題の場所への訪問」に近い。
打ち明ければ、私たちは作品を見るためだけに美術館へ行くとは限らない。
物語の中に、自分も一度立ってみたいのだ。
《モナ・リザ》の空白は、絵の代わりに物語を展示していた。
世界中が探し、本人はパリにいた
そのころVincenzo Peruggiaは、絵をパリの自室に隠していた。
警察は彼にも事情を聞いたが、重要な容疑者とは考えなかった。
世界中の新聞が推理を続けている間、《モナ・リザ》は、事件現場からそれほど遠くない部屋で二十八か月を過ごした。
1913年12月、Peruggiaは絵をイタリアへ運び、フィレンツェの美術商Alfredo Geriに連絡した。
Geriはウフィツィ美術館のGiovanni Poggiとともに作品を確認し、当局へ知らせた。
二年以上消えていた微笑みは、ホテルの一室から出てきた。
Peruggiaは、絵を祖国イタリアへ取り戻したかったのだと主張した。
しかし、《モナ・リザ》はナポレオンがイタリアから略奪した作品ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチ自身がフランスへ持参し、のちにフランソワ1世の所有となったものだった。
壮大な愛国物語としては、肝心の美術史が間違っていたのである。
戻ってきたのは、同じ絵ではなかった
1914年1月、《モナ・リザ》はルーヴルへ戻った。
木板も、絵具も、微笑みも、盗まれる前と同じだった。
しかし、社会の側が変わっていた。
帰還後、最初の二日間だけで十万人以上が作品を見たとされる。人々はレオナルド・ダ・ヴィンチの絵を見に来た。同時に、二年以上続いた物語の結末を見に来た。
盗難が変えたのは、世界がその絵に向ける視線の量だった。
名作は長い時間をかけて生まれる。
名声は、ときに一夜で生まれる。
盗難事件が、その絵に世界規模の物語を与えた。
新聞が、その物語を遠くまで運んだ。
次に《モナ・リザ》の前に立つときは、写真を撮る前に、ほんの数秒だけ画面を下げてみたい。
折り重なった薄い絵具。
輪郭の消えかかった口元。
静かに重ねられた両手。
人の時間とは違う速度で続いている、遠い風景。
空白が人を集めた日から、一世紀以上が過ぎた。
私たちは今度こそ、戻ってきた一枚の絵を、本当に見ることができるだろうか。




