第45話 日記
逃げるようにして自室の扉を強く閉める。鍵もかけたいところだけど、あいにくここにはなかった。
ラップで隔てたキスなのに、余韻がまったく冷めない。
彼女たちもそのはず。あの熱っぽい顔は序章に過ぎない。この勢いのままでは二回戦が始まる気配すらあった。
「先に、お風呂入って、と」
ふたり宛てにスマホでメッセージを送る。いったん時間をおけば、我に返って冷静になるかもしれない。
どん、と床に腰を下ろす。腰が砕けそうだ。リタイア条件は勝手に満たしていたらしい。
ラップ越しのキス。振り返るまでもなく、とんでもない競技だった。
「……冷静になろう」
リュックの中から蒼一の日記を取り出し、ポエムコーナーを開く。
「『神による指名、これが俺の使命』……ハァ、冷静になれる」
ちょうどいいポエムを読んで心を整える。
韻を踏むなんて、きっと熱に浮かされていたんだな。おかげで逆にこっちの頭が冷めてくる。
一日を通して、あまりに多くのことがありすぎた。
蒼一の実家に行き、タイムリープ能力について詳しく聞くことができた。
日記を見つけ、あいつが幾度も過去をやり直した裏付けも取れた。
展望台に立ち、過去とあらためて向き合った。
……そして、汐見さんがその後悔を受け入れてくれた。
対等な関係でいたい——彼女の一言で、ようやく僕は自分を赦せた気がする。
しかし、真実から目を逸らすわけにはいかない。
「蒼一、おまえが抱えていたもの、僕も引き受けるからな」
六年前の蒼一は、汐見さんの両親が事故に遭うと知っていた。
停電が起こる未来をすでに見ている。だとしたら、事前に通報したり事故の時刻をずらしたり、回避する方法はいくらでもあったはずだ。
……いや、回避した世界線もあったに違いない。
日記に残された断片的な記録から、それは読み取れる。
当時知り得ない彼女の名前が記されていた理由からも——。
「……助けられなかったわけじゃない」
あいつは、あえてしなかった。
汐見さんの両親の事故を、わざと防がなかった。
それは、すでに助けた世界線を経験し、その先に起こる別の悲劇を見てしまったから。
……間違いない。なにより、僕はそれを知っている。
白波神社で、別の世界線と思われる残酷な末路を見てしまった。
結果を変えることで、別の因果が生じる。
その結末が、以前より良くなるとは限らない。
目の前の悲劇を避けたせいで、より悪い未来へ導いてしまうことも。
『ちょうちょが羽ばたき、どこかで竜巻が起こる。俺は偶然と運命に身を任す』
胸が苦しくなり、蒼一のポエムを読んで少し落ち着く。
こういうの、ついメモりたくなるよな。運命ってワードとか、やたら使いがち。わかる。
有名な引用だが、この一説はまさにあいつの抱えた苦悩そのものだ。
バタフライ・エフェクト。行動をほんの少し変えただけで、異なる結末にたどり着く。思い通りにいかないこともたくさんあったはずだ。
この日記は、どの時点からつけ始めたのか。
少なくともいくつかの悲劇と遭遇したあとだろう。
ほとんどは殴り書き。怒りをぶつけているようにも感じる。
積み重なったおびただしい数の悲劇が、あいつの荒れた筆跡から伝わってくる。
それを示すのが、日記に書かれたシンプルなメモだ。
名前と日にちと場所、そしてバツマーク。知らない人が読めば、まるで暗号のように見える。
『アヤカ 8/29 展望台 ×』
背筋にぞくりとしたものが走る。
単なるイベントのチェックではない。この『×』は、救えなかった印だ。
神社で見た残像。凪瀬——あの夜、彼女を襲った孤独。突発的な行動。すべてがつながる。もし僕が腕をつかめていなかったら……。
ページをめくる。以降も同様のメモが連なっていた。
あらためて読み返すと、これを書くあいつの姿が目に浮かぶようだった。
かきむしるような筆跡。赤いインクで、かすれたバツ。ところどころ破れて、よれた紙面は……涙の跡だろう。
日記には、汐見さんと凪瀬以外の名前もあった。
波留の名前や、蒼一の妹——燈里ちゃんの名前も。知った名前もあれば、知らない名前もある。まだざっと目を通しただけだが、一人の人間が抱えられる数ではない。
「……おまえは、何人救おうとしたんだよ」
こうしてリストを眺めていると、ある共通点が浮かび上がってくる。
蒼一の体験したことなのに、そのほとんどの出来事に僕が深く関わっていた。
その理由は、あいつがこうしてヒントを残したこととつながる。
おそらく僕は、蒼一によって配置された。
凪瀬を助けたとき。あの場にいるように仕向けたのは蒼一だった。
「どうして、僕なんだ……?」
わざわざ他人を動かすくらいなら、あいつ自身がその役割を担えばいい。
タイムリープできる主人公なら、当然そうするはず——ああ、もちろんしたよな。
あいつは正義感が強いから、悲劇を避けようと邁進しただろう。
それこそ、汐見さんの両親のときと同じように。
「……だけど、うまくいかなかった」
アヤカと書かれたすぐ下のメモに、それが証明されていた。
『8/30 防波堤 ×』
六年前の夜の続きがそこにはあった。
僕の知る過去では、ありえない日付と場所だ。
記憶がたしかなら、凪瀬はあのあと僕の家に寄り、父親に連絡して迎えに来てもらっていた。そのまま市外へ向かったはず。
手続きや引っ越しでまた町に戻ったにしても、それが翌日で、しかも防波堤に行ったとは考えにくい。
だからこれは、僕の知らない過去——別の世界線の出来事になる。
「失敗、したんだな……」
蒼一は何度も繰り返し、何度も失敗した——目の前の悲劇を塗り替えるために。
すべての不幸を避けようと思えば、行動のひとつひとつに細心の注意が必要になる。場所の羅列が書かれては赤いバツがつけられている。
考えたくもない結末を刻んだ証拠。その分、失敗の世界線が枝分かれしたことだろう。
たぶん、日記をつけ始める前から……想像もつかないほどの時を駆けていた。
だけど、その過程であいつは気づいた。
僕という変数を動かすことで、クリアできるルートを見つけた。
あの夜の展望台も、挫折していた波留を、あるいは教室に取り残された汐見さんを——。
あいつが直接救えない場所に、僕を立たせた。
それは単なる偶然ではない。
「全部、仕組まれていたわけだ」
蒼一がタイムリープし、汐見さんをあのまま教室に放っていたのは、この時間軸を救うための決断。
実際、今の彼女は救われたと言っていい境遇に戻ってこられた。不幸を乗り越え、高校生らしい日常を踏み出せている。
その役割を、僕が担った。たとえ端役だったとしてもだ。
僕を動かし、正解のルートを築き上げた。
凪瀬が無事で、波留が前を向き、汐見さんが救われた——誰もが幸せに暮らせる、理想の世界線を。
「だけど蒼一、おまえはここにいない。……その選択は、本当に正しかったのかよ」
おまえだけがいない。おまえだけが報われていない。
神による指名だって? こんな過酷な使命を背負わされて、おまえはどんな気持ちだったんだ。僕に相談してくれよ。不器用なおまえだけじゃなくて、僕が一緒なら——。
「……ははっ。あまり頼りにならなかったかな」
もうひとつ、疑問が残る。
この時間軸は、まるで集大成のように感じる。自分抜きの時間軸を作り上げて——あいつは、どの時点の過去に消えたんだ?
過去をさかのぼったところで、あいつはふたたび同じ時間を繰り返さなくてはならない。
同様の悲劇を見届けるのか、それともまた違う不幸を防ぐために苦悩を重ねているのか。
いずれにせよ、あいつがあいつである限り、地獄のような痛みからは逃れられない。
「おまえはどこへ消えたんだよ……」
悔しくてどうしようもない。親友にしてあげられることが僕にもあったはずだ。
メモとポエム以外に、日記には何も書かれていない。
なにかほかに、あいつの残したもの——。
記憶を整理しようとした、そのとき。
ガチャリ、と部屋のドアが開く。とっさに日記をパンツと腹の間に押し込んだ。
「凛人、お風呂開いたよー」
タオルを頭に巻き、ほかほかした状態の凪瀬と汐見さんが顔を出した。
えっ、メッセージしてからまだ一時間も経ってないぞ。
「ふ、ふたりともお風呂早くない!?」
「急かしたの凛人じゃん……って、んんー?」
「ふたりで一緒に入ったから。それよりも鳴海くん……それ」
お腹を抱えた僕を見て、ふたりが不審な顔をする。
まさか、日記の存在に気づかれた?
それだけはマズい。この内容を彼女たちに見せるわけには——。
「カバンの中に、怪しいものがあるよねぇ?」
「えっ……ああ!」
足元を確認すると、リュックの口から雑誌がのぞいていた。肌の露出の多い女性が艶めかしくポーズをとる表紙が丸見えになっている。
やべっ、しまった。蒼一の置き土産を持ち帰ったんだった。
ふたりは視線を交わすと、気を遣うような表情をこちらに向ける。
「……しばらく、ひとりにしてあげよっか?」
「いい! すぐにお風呂行くから!」
「え、お風呂に持っていくの?」
「いや、この本は読んでないから! これは蒼一のやつ!」
親友を売る。即売。保身のほうが大切だ。
「ふぅん。あいつもそういうの、読むんだね」
「そう。これ全部、あいつの宝物」
「で、なんでその宝物を凛人が持ってるわけ?」
「……険しい精神修行のためだ。煩悩を完全に捨て去るため、僕に処分を託したんだよ!」
必死に言い訳する。何もしてないから、くんくんと部屋の匂いを嗅がないで。
「その本、代わりに処分するの?」
「はい、すぐに捨てます!」
「えー、もったいないよ」
「どう答えるのが正解なの!?」
どのルートにも答えが見つからない。凪瀬も汐見さんもくせ者すぎる。
持ち帰った僕もどうかしていた。過去に戻れるなら、おじさんにこっそり預けておくルートを選びたい。蒼一、そういうのもメモっといてくれよ!
「てか、急かしたんだから、凛人も早く入ってきて」
「準備しておくから、すぐに出てきてね?」
「了解しました!」
着替えをとってそそくさと洗面所へ向かう。
言われなくても、さっさとお風呂に逃げ込むつもり。このままお腹の日記まで見つかるわけにはいかない。どこか、バレない場所に隠しておかないと。
にしても、お風呂を急かす理由はなんだ。ふたりで一緒に入ってまで時短する必要なんて——。
「え、さっき僕、先に入ってこいって……送った?」
スマホの履歴を確認する。送っていた。返信に照れたスタンプが並んでいる。
……準備?
あの、もしかして。何かとんでもない勘違いされてる……?




