第41話 【展望台】
夕日が沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。
展望台の街灯が、足元をぼんやりと照らす。
坂を駆け上がった息を絡め取るように、ぬるい夜風がまとわりついた。
「ハァ……ハァ……やっぱり、いた……っ」
「えっ、ヘンタイ……ん、凛人?」
手すりにもたれていた遠国が、驚いて振り返る。
息づかいで変態と間違えるなよ。
「どうしたの、そんなに息切らせて」
「どうしたの、じゃないよ。心配しただろ。三日も家出しやが——」
言いかけて、その姿に首をかしげる。
薄明かりに浮かぶ彼女は、髪も整っていて服もきれい。汚れひとつないカチューシャも、普段と変わらない。
ただ、街灯に照らされた目のふちが、泣いたあとのように赤かった。
「家出? してないよ。しようとして、さっきここに来たばかり」
「……は?」
心臓がばくばくとうるさい。肩で息をしながら額の汗をぬぐう。
「だって、蒼一が……あ」
ちくしょう、だまされた。僕を走らせるための嘘だな。
どうしてわざわざそんな嘘を——と思う前に、遠国がぽつりと口を開いた。
「ここでね、終焉の魔王を待ってたの」
「魔王って……もう、来ないかもよ。休みのせいで忘れてたりして」
「うん、知ってる。だから祈ってた」
遠国から、乾いた笑いがこぼれる。
「ママの彼氏、覚えてる?」
「……ああ」
その人のことは、もう蒼一から聞いている。
あの日見かけた、冷たい目つきの男。
遠国の背中をじっと見つめていた。
まさか、あいつに何かひどい真似を——
「そいつ、ママに捨てられたの」
「え」
淡々とした声が、風に削られてかすれる。
「彩伽も出ていけー、だってさ。大人の男があんな泣き方するんだ、って思った。かわいそうってより、みじめ。あんなに尽くしてたのにね」
「へぇ……」
「でね、……わたしもママに捨てられた。置き手紙に、好きに生きてって。どういうつもりなんだろ」
——好きに生きてるのはママのほうじゃん。
無理に笑おうとしたのか、口元だけが震えた。
「最悪なママだよ。言葉は荒いし、天気で機嫌は変わるし、過呼吸はよく起こすし、急に甘えてくるし……日によって別人みたい。でもね、男を引きつけるのは上手。気の利くいい人が見つかったって。あははっ、わたしより役に立つらしいよ!」
言葉を吐き出すたび、肩がわずかに上下する。
目元には、涙の粒が浮き上がっていた。
「……ずっと、思い上がってた。わたしがいないとママは生きていけないって。……でも違った」
遠国は手すりに頭を押し当てる。
くぐもった声が、それでも強い調子で思いを吐き出す。
「生きる意味、わからなくなっちゃった。ダメな母親を支えるのが役目だって自分に言い聞かせてた。縛られてるほうが、楽だったから」
——だけど、ほんとはわたしのほうが、ママを必要としてたみたい。
言葉が出ない。
うなずくことさえ、僕はできなかった。
「ね、凛人——」
顔を上げる。潤んだ瞳がまっすぐ突き刺さった。
「もう、全部終わりにしたい」
「遠国……」
それ以上、続かない。
母親に捨てられた。この世界にひとりぼっちで、取り残されてしまった。
そんな彼女に、どう言葉をかけたらいいんだよ。
「あ、そうだ——この世界より先に、わたしが消えちゃえばいいんだ」
遠国の足先が柵にかかる。ぐっと浮き上がる体。
僕は、反射でその腕をつかんでいた。
「……離して」
「いやだ」
「離してって」
「離さない」
「離せってば!」
「離すわけないだろっ!」
細い手首にぎゅっと力を込める。痛そうに眉が寄る。でも緩めない。
「気の迷いでバカなことするな! 実はビビってるくせに!」
「ビビってない! だから、離せよ……っ!」
「消えたいって簡単に言うけど、ほんとは——」
「うるさい! あんたに何がわかるの!」
頭の奥がかっと熱くなる。
おまえ、ふざけんなよ。
「わかんねえよ! でも消えたいとか言うな! 遠国がいなくなったら嫌だ!」
「嘘っ! わたしなんて誰もいらない! 必要ない! 役立たずだからっ……」
くそっ、泣きたくなってくる。
どうしたら伝わるんだ。
「痛……ッ!」
もがく遠国を強く押しのけ、代わりに僕が手すりに身を乗り出す。
崖の下は真っ暗闇。その奥には静かな地元の町。
民家の窓灯り。街灯の丸い光。信号の点滅。
いつも通りだ。消え去る予兆なんて、ひとかけらも見当たらない。
でも——
呆然と膝をつく遠国に向けて、宣言する。
「見てろ! 世界のほうを先に消してやる!」
胸いっぱいに夜の空気を吸い込む。どこまでも吸い込む。
それをすべて、吐き出す勢いで、喉の奥から絞り出した。
「消えろぉぉおおおーっ!」
涙が勝手にこぼれる。
どうして遠国がこんな思いをしなくちゃいけない。
ずっと悩んでた?
ずっと苦しかった?
どれだけ我慢してきたんだ。
「消えろーっ!」
何度も。叫ぶたび、喉が焼ける。
息苦しさなんてどうでもいい。
「滅べーっ! 今すぐ、滅べーっ!」
「滅べーっ!」
ふたりの息が合う。隣で遠国も叫んでいた。
「消えろ! なくなれ!」
「滅んじまえーっ!」
そうだ、滅んでしまえ。
こんな理不尽な世界——さっさと終わってしまえばいいんだ。
「なくなれーっ!」
「なくなれーっ!」
「滅べーっ!」
「滅べーっ!」
静かな町に大声がこだまする。
民家の明かり、信号の点滅、街灯の白がちらつく。遠くで誰かがこちらを見ている。
それでも繰り返す。
喉がはち切れそうな声で、何度でも叫び続ける。
「ねえ、どうして世界は終わらないの? 終わってくれないの!?」
「終わるよ、こんな世界!」
終わって、変われ。
遠国が、心から生きたいと思える世界に——生まれ変われ。
「消えろぉぉおおおぉぉおおーっ!」
——そのとき。
遠くのほうで、ひとつ灯りがふっと消えた。
続いて、またひとつ。すぐにもうひとつ。
ろうそくの列に息を吹きかけたみたいに、奥から手前へと光が次々と落ちていく。
最後に、僕らの頭上の街灯がぱちんと落ちた。
町は、ひとつ残らず真っ暗になった。
空と海の境い目がなくなり、粉を散らしたみたいな星々の光だけが残る。
火が消えたあとに立ちのぼる煙のように——
黒い海に、天の川だけが濃く流れていた。
「あはっ……消えた。世界、終わった」
「ああ、滅びた……! きれいさっぱり消え去った!」
言いながら、手探りで遠国の手を握る。熱い指先がぎゅっと返ってきた。
地面に立っているのに、まるで宇宙に浮かんでいるみたいだった。
「終焉の魔王が、来たのかな」
「……いや、あいつは来てない」
「たぶん、忘れてるよね」
「うん。……だから代わりに、僕たちが終わらせてやったんだ」
ほどなく、遠くの信号がまた点滅しはじめ、街灯が順に戻る。
虫の声。木の葉を揺らす風。遠いサイレン。
生まれ変わった世界は、以前よりも澄んで感じられた。
ふたりでベンチに腰を下ろし、無言で空を見上げる。
はくちょう座、こと座、わし座。夏の大三角ははっきり見えるけど、さっきの天の川には及ばない。
あの瞬く大河は、たぶん一生忘れることはないだろう。
「……役目とか、考えるなよ」
「え?」
「さっき言ってたやつ。ママを支えるとか、僕たちが背負うことじゃないし、自由に生きちゃえ」
「自由って、どんなふうに」
「えーっと……タトゥーを入れるとか、ピアスを開けるとか?」
「ただの不良じゃん。それに、痛そう」
「ま、もちろん冗談だけど。でも、遠国がやろうとしたことに比べたら全然マシだろ」
たしかに、と遠国は膝を抱える。
反省のこもった視線をこちらへ向けた。
「思いっきり反抗してやろうよ。ママの人生じゃなくて、遠国の人生じゃん」
言ってから、耳が熱くなる。なんだか説教くさいことを言ってしまった。
でも、言わずに後悔するよりはずっといい。
「僕は、遠国が好きだよ」
息をのむ気配。
隣で遠国は口を開きかけ、照れ隠しみたいうずくまる。
しまった。言葉足らずだった。
「あ、いや、恋愛の好きじゃなくてね。友だちとして大切に思ってる、って言いたかった」
「……嘘」
「ほんとだって」
「嘘だよ。恋愛感情のくせに」
膝に載せた頭から、上目遣いの視線が刺さる。
「責任とってよ」
「えっ、責任って?」
「ありのままがいい、って凛人は言ったけど。本当のわたしはめちゃくちゃ重いから」
彼女はふっと笑って、立ち上がった。
町の灯りを見下ろし、頭につけていたカチューシャに手を添える。
するりと外すと、さらさらの黒髪が肩へ落ちた。
「思いっきり変わってやろ。ここはもう、生まれ変わった世界だもんね」
言いながら、大きく振りかぶってカチューシャを暗がりへ放る。
シュンと小さな音だけを残し、弧を描いて消える影。
「え、何してんの」
「……あれ、実はわたしの趣味じゃないの。だから捨てちゃった」
あはっ、と振り返った顔に小悪魔が宿る。
遠国らしい、いたずらっぽい笑顔だった。
「そうなんだ。……でもそのへんに投げちゃダメじゃん」
「……拾いに行く」
「うん、探すの手伝うよ」
野暮だとわかっていても、あえて言う。
まだ余韻が冷めていない。
だからもう少しだけ、この時間が長引いてほしかった。
***
あの日の停電は、送電線の断線が原因だと報道されていた。
インフラの老朽化や点検の遅れが重なったらしい。
専門的なことはよくわからなかったけど、ニュースはそう言っていた。
だけど、僕は違うと思ってる。
あの夜、奇跡を起こした。
世界を一度、終わらせた。
魔王にだってできないような、とんでもないことをやってのけたんだ。
夏休みが終わり、遠国はまた転校していった。
別居中の父親のもとへ身を寄せるらしい。
頼りない人だけど、昔からずっと優しい父だった。
だから、遠国が来ることを、心の底から喜んでくれた——という。
そういう内容の手紙が、郵便受けに入れられていた。
「お別れくらい、直接言えよ……」
玄関先で、しゃがんだまま紙をたたむ。
引っ越し先の住所さえ書かれていない。どこに返事を出せばいいんだよ。
たった二か月にも満たない時間だったのに、心にぽっかり穴が開いたような。
「でも、どこかで元気なら、それでいいか」
遠くに行ったわけじゃない。
地球上にいる限り、案外近いんじゃないかな。
「朝から泣かせやがって……あいつもズルいとこあるな」
鼻をすすって、ランドセルを背負い直す。
朝の光は、休み明けとは思えないくらいまぶしい。気温はまだ夏。走れば汗だくになるのは目に見えていた。
でも、始業のベルには間に合わせる。
時間は進み続ける。だから、ラブレターを読んでいた分の遅れは、この足で取り戻すしかない。
深く呼吸して、前を向く。
僕は、いつもの通学路へ踏み出した。




