第38話 波留
「ハッ……ハッ……っ」
急勾配の斜面は、心臓破りの坂道と呼ばれている。……嘘。そんなふうに呼んだことはない。けれど、今はそう名付けるべきだと強く思っている。
後輩の跳ねるような背を追いながら、頂上まで一気に駆け上がる。やがて、開けた空間に出た。
展望台に着くと、波留は足を止めて太陽のような笑顔で振り向いた。
「気持ちのいいジョギングでしたね!」
「ゼェ……この坂道、キツすぎる……っ」
「でもさすが凛人先輩。しっかり登りきってますし、足は錆びついてません!」
「ハァ……ハァ……いや、この息でわかるでしょ」
「え、わたしを襲うつもりですか!?」
「ヘンタイの興奮じゃねえよ! ハァ……ハァ……っ」
重いリュックを下ろして、膝に手をつく。
すでにへとへとなのに、ツッコんだせいで余計に息が乱れた。足は動いても肺がもたない。
後輩は涼しい顔で背筋を伸ばしている。荷物があるとはいえ、二年のブランクでここまで差が出るなんて。あいつの本、持ち帰るんじゃなかった。
「波留は余裕そうだな……。今日は部活はなかったの?」
「ありましたよ。でも、日曜は追加自主トレって決めてるんです」
「へぇ、ストイック。まあ、大会も近いもんな」
「今回は目標達成のご褒美を設定したので。優勝したら、凛人先輩に叶えてもらおうかな」
「え、僕に?」
中身を聞いてみても、波留は「まだ内緒です」と人差し指を立てる。
ご褒美ってスイーツとかかな。これだけ頑張っているのだから、できる範囲で奢ってやりたい。たとえ優勝しなくても、とはわざわざ口にしなかった。
夕暮れの爽風が撫でたおかげで、そろそろ呼吸も整ってきた頃。様子を窺っていた波留が口を開いた。
「凛人先輩って、どうして陸上やめちゃったんですか。正直、寂しいですよ」
「うーん……しいて言うなら蒼一がやめたから、かな。もともと、あいつの誘いで入部しただけだし」
中二の途中まではサッカー部だったが、親友の頼みで陸上部に移った。こだわりもなかったから、とくに後悔もないけれど。
「……そうでしたね」
波留の表情に陰りが生まれる。
近所の腐れ縁から、この子はあいつによく懐いていた。燈里ちゃんより、よほど兄妹みたいな距離感で……むしろ兄弟に近かったか。
「蒼一先輩、チベットのお寺で修行してるんですよね」
「え……うん、そう。たしかラマ教だったかな?」
「信仰を変えたんですね。……パンクだなぁ」
何か転機があったのかな、と波留は心配そうに呟く。
信じるのかよ。しかも、おじさんの意図通り伝わっている。残念ながらウケてはいない。
「波留、男には必ず罹る病魔があるんだ」
「えっ、そんなものが?」
「中二病と高二病。とくに高二病をこじらすと大変なんだ。無性に自分探しをしたくなり、ポエムとかも読みだす」
「ポエムまで!?」
「うん。たとえば、『春のくせに、夏のまぼろし——波留充希』。……あいつの詠んだ詩だ。受け取ってくれ」
「え……なんかやだ……」
代わりに昇華してやる。黙って消えたお返しだ。
どのみち、おばさんも目を通したから、近所の波留にもいずれ漏れたはず。ポエムコーナーのページを破るなりしておかなかった蒼一が悪い。
波留は苦みと懐古の混ざった顔をしている。わかる。読んだこっちも赤面ものだ。
気を取り直して、ふと気になっていたことを尋ねてみる。
「そういえば、波留はなんで凪瀬と仲悪いの」
「彩伽先輩、ですか……?」
二人は顔を合わせるたび、険悪なムードになる。もはや、前世で令嬢と婚約破棄した公爵子息クラスの因縁でもないと納得できない。
波留は複雑そうに唇を曲げる。
「……あの人、昔うちの小学校に転校してきましたよね」
「え、波留も気づいてたの?」
「名字は違っても、顔を見れば普通にわかりますよ。気づかないなら、目が節穴か、地の底まで抜けてる人ですね」
「…………」
「ん? 凛人先輩?」
「だ、だよなー」
ごまかしたけど、視力を失った地底人がここにいる。
しかし、だとしたらさらに疑問は深まる。
「でも波留、たまに遊んでたよね」
「はい、凛人先輩や蒼一先輩といっしょに」
「そうそう、ここにもよく来たし」
あの頃の関係は決して悪くなかったはずだ。
それなら、どこで対立が生まれたんだ?
波留は露骨に顔をしかめながら、
「……ずっと、男だと勘違いされてたんですよ」
「えっ」
「失礼ですよね?」
「あ、ああ。女の子相手にそれはよくないな……」
いや、僕もほぼ男と思って接していた。なんなら弟みたいな認識だった。
中学に入ってもしばらくはそんな感じで、敬語も先輩呼びもされなかった。
波留が女の子っぽくなってきたあたりで、いろいろと変わっていった気がする。
——たしか、あれも蒼一がきっかけだったか。
「当時……彩伽ちゃんに、少し憧れていたんです」
「そんな素振りは見えなかったけど」
「きれいな黒髪だったでしょ。カチューシャで留めて……。自分と正反対で、別世界のお嬢さまに見えました」
景色を眺める波留の横顔を、そっと見やる。
あの頃は男の子と見間違うようなざんぎり頭で、気にしてないと思っていたけど。
意外だ。やっぱり、女の子の気持ちはわからないものだな。
「……もうひとつ、意識する理由はありますよ」
「あ、そうなの?」
「凛人先輩」
「えっ」
ふいに、風が止んだように感じた。
波留のまっすぐな視線がぶつかる。
「あの人が、先輩……凛人くんのことを好きだから」
急に昔の呼ばれ方に戻る。
波留は踏ん切りをつけたような笑みを浮かべ、
「ライバルにいい顔したって、あとでしんどいじゃないですか」
彼女の背後で、夕陽が水平線に差しかかる。
突然の告白に言葉を返すことができない。
黙る僕を見て、波留は短い髪をがしがしかき回すと、
「復路を走りますけど、凛人先輩はどうします?」
「僕は、そろそろ帰らないと。遠回りしすぎたよ」
「……それは残念。でも、いつでも誘いますから」
またね、凛人くん。
そう言い残して、幼なじみは往路よりペースを上げて去っていった。あれでも手加減してくれてたんだな。
「……モテ期なのかな」
つい独りごちる。僕を取り巻く関係に変化が起きている。そのくらいの自覚はあった。
汐見さんのアプローチが入り、凪瀬も以前に増してぐいぐい来るようになった。
波留に関しても、とっくに察していたことではある。あの子の態度が大きく変わったのは二年前で——そうさせたのは、ほかでもない僕だ。
そして、凪瀬がいまのように変わった理由も。
展望台の風に当たる。
茜色が、少しずつ群青に傾き始めていた。彼方で星々が瞬き、夜のとばりもそう遠くない。
凪瀬彩伽——当時、遠国彩伽だった頃の彼女を思い出す。
愛想はいいのにどこか素っ気なく、やけに大人びていた。
それは、作った仮面の裏でつらい境遇を隠していたから。
ひとつ間違えれば、彼女と再会できなかった。
そんな実感が、この場所に立つと鮮明に浮かび上がる。
でも、生きている。
そうなるように敷かれたレールの上で、物事が動いていた。
蒼一、おまえの手引きだったんだな。
日記につけられた日付と印。
六年前の夏。あの夜に、僕が彼女の手をつかんだことで——。
この世界線は、別の道に進んだ。




