第37話 置き土産
懐かしい光景だった。
畳敷きの八畳間。建て付けの悪いすりガラス。星柄の青いカーテン。
和の意匠と対照的なシングルベッドと木製デスク。
入口近くの棚には、ずらりとマンガが並んでいる。よく見ると、どれも完結済みの名作だった。
「ここは変わらないでしょう。まだあの子が行った日のままにしてあるの」
「……相変わらず、子どもっぽい部屋ですね」
いまにも帰ってきそうですね、とは口にしなかった。その可能性は本人が否定している。
小学生の頃からほぼ変わらない景色。必要以上に手を入れる意思のなかった、蒼一の部屋だ。
「机の上もあえて片付けなかったのよ。それに、あの子の日記も」
「日記?」
蒼一の母親が指さした引き出しを開ける。
花の絵の表紙に『じゆうちょう』と書かれた使い古したノートが出てきた。
「中身……読みましたか?」
「いいえ、読んでないわ。暗号文みたいで意味不明だったの」
「なら読んでますね」
「でも理解できたのって、『花火師の仕事って、こんな感じなのかもな』くらいよ」
「そんなポエムみたいなやつ覚えないであげて」
聞いたこっちのほうが恥ずかしくなる。
おばさんは持ち帰り用の紙袋を手渡して、先に階下へ去っていった。
めちゃくちゃごまかしたな。まあ、読みたくなる気持ちはわかるけれど。
日記、か。
あいつがマメに日記をつけるわけがない。
宿題の作文すら、てきとうにお茶を濁して叱られるようなやつだ。
だからこれは——間違いなく、僕宛てに残したものだろう。
ほかにも何かないか、机の周りを見てみる。昔あげた土産のキーホルダーや、一緒に作ったプラモデル。そういう小物だけが残っていた。
じゃあ、ベッドの下の本も処分しておけよ。これも置き土産のつもりか?
「……あれ、こんなのなかったよな」
ふと、ベッド脇の壁に掛けられたコルクボードが目に止まる。
角の丸くなった写真がいくつも、真新しい画鋲で留められている。
そこには、切り取ったコラージュが一面を覆うように貼り付けられていた。
ジャングルジムに登ってピースする僕たち。
お遊戯会で主役のあいつと、脇役に徹する僕。
サッカーの試合に勝ったときのメンバー。
展望台でつまらなそうにベンチに座る転校生。
中学の陸上部で撮った集合写真。卒業式の記念写真。
家族で祝う誕生日。自転車にまたがる小さい頃の燈里ちゃん。成長した笑顔の燈里ちゃん。
防波堤から飛び込む地元のツレ。カラオケで熱唱する僕。公園の地べたでバテている後輩。
高校の体育祭。去年うちで催したクリスマスパーティ。不機嫌そうな凪瀬のワンショット。
最近撮ったらしい正装の家族写真。
肩を組んで、馬鹿笑いする僕と親友——。
「ふざけんなよ……絶対、泣かせにきてるだろ……」
わざわざ手間をかけやがって。これが、おまえのハイライトかよ。
まだまだ、一緒にやってないイベントが残っている。修学旅行で回る場所とか、文化祭で何かやらかそうとか、いろいろ話してたじゃねーか。
これっぽっちじゃ、全然足りないだろが……。
「……ん、これって」
目頭を拭っていると、見慣れない一枚が目についた。
凝った衣装に身を包み、舞台上でマイクを手にした黒髪眼鏡の美少女——アイドル姿に扮した汐見澪。
「……見ず知らずの他人を助けるわけがない、ってことだよな」
帰り道のない旅路。あいつは汐見さんを助けるために過去へ向かった。
たとえ別の世界線に移っただけだとしても、苦しい決断に至った理由が必ずある。
答え合わせが、このブロマイドなのだろう。
「ふぅ……よし、——読むか」
蒼一のデスクに腰を下ろし、気合を入れ直す。
目の前には、名前のない表紙。薄汚れており、手汗を吸ってわずかに反っている。
僕がこれを読むことは織り込み済みだろう。
あいつの残した日記。せめて、きれいな字で綴っていてくれよ。
暗号文だろうと、きっちり解いてやるから。
空気が冷えて、周辺からアマガエルやヒキガエルの鳴き声が響く。
すっかり夕方になっていた。
高台の玄関を出ると、海へと向かう斜陽が鋭い光を放っている。
「凛人くん、夕飯も食べて行っていいのよ」
「お気持ちは嬉しいけど、遠慮しておきます。友だちが待ってるので」
「そうなの、残念ねぇ。またいつでもうちの子になってちょうだい」
「ハードルの高い誘いですね……」
挨拶を済ませて、都筑家をあとにする。
蒼一の妹は自室に引きこもっていたらしいが、ノックすることはためらわれた。
いまは彼女を気にかけるタイミングじゃない。
いずれ、きっと会うことになる。
帰り道。
気づけば遠回りをしていて、足は自然とそこへ向いていた。
足元に影が差す。威圧するように構える色褪せた鳥居。その奥に荒れ果てた境内が広がり、古い蔵が取り残されている。
「……やっぱり、嫌な雰囲気だ」
潮風が梢を抜ける音だけが、ざわざわと響き渡る。
ここに来たことで、ある違和感の正体が明確に見えてきた。
あらかじめ両親に告げていた、僕への言伝。
わざわざ残した、日記やコルクボードのコラージュ。
そのほか、あらゆる置き土産が気づかせてくれる。
——自分のいない時間軸が残ることを、蒼一は知っていた。
認知できないはずの並行世界を、確実に認識している。
「この先に、おまえがいるのか……?」
白波神社——時渡りの社。
違う世界線の残像を映し出す神域。
もしかすると、蒼一のいる現在へ繋がっているのかもしれない。
もう一度、ここに踏み入れたらどうなるのだろう。
またしてもあの悪夢を見てしまうのだろうか。
それとも、親友に再会できる?
確かめようにも、凄惨な映像を思い出すと、どうしても足が動かない。
それに、もうひとつ、気づいたことがある。
蒼一の日記に書かれた、日付と印。
凪瀬彩伽——
あの映像で見た彼女は、ひとりではなかった。
背丈や雰囲気も異なる複数の彼女を、見ていた。
その顔は、親友の部屋で見つけた写真と一致している。
六年前、あのとき、救われなかった世界線の凪瀬……いや、遠国は——。
「あれ——凛人先輩?」
突然声をかけられる。振り返ると、そこにはボーイッシュな後輩が立っていた。
さらさらのショートカットに、褐色の健康的な肌。短パンと肩を出したランニング仕様の格好。
汗だくの顔を拭う女の子は、
「波留……」
「こんなところで、珍しいですね。……よかったら、一緒に走りませんか?」
地元の町にいまも住み続けている幼なじみ——波留充希だった。




