第32話 ずっと前から
「おおー、絶景じゃーん!」
木目調の太い柵を両手でつかみ、凪瀬が身を乗り出す。
足元には芝生の名残が生い茂り、下から湿った風が吹き上げていた。
「ああ、日中の田舎町が端から端まで一望できるよな」
「……せっかく登ったんだからムードだけでも盛り立ててくれん?」
僕たちは展望台に立っていた。
丘全体が展望エリアとして整えられ、ぐるりと柵で囲われている。周囲には塗装の剥げたベンチが数脚、申し訳程度に置かれているだけ。
緑の丘陵が背後にそびえ、その山を越えた先に僕たちの暮らす街がある。
正面には、弓なりの砂浜と町並み。
海と空が溶け合うように広がっていた。
「こっちに来て、凛人も見なよ」
「ああ、そうだな……」
「なんかテンション低くない?」
「うん。鳴海くん、さっきから様子が変だよ」
「ごめん。少し、考えごとしてて……」
——あの映像は、一体なんだったのだろう。
ただの白昼夢とは思えない。あまりにも生々しく、体験したかのようにリアルだった。
「ふぅん、考えごとしてんだって」
「邪魔しないであげようよ」
凪瀬と汐見さんが視界の端でやり取りをしている。
しかし、僕の耳はそれを言葉として受け止める余裕すらなかった。
脳裏にはまだ、あの凄惨な残像がへばりついている。
「ばーか! むっつりすけべー!」
「彩伽、ダメだよ」
「……うん、全然聞こえてないわ。似合わない真剣な顔してる」
疲れのせいかもしれない。今週はイベント続きだったし、昨夜は久しぶりにゲームに熱中しすぎた。
それともまさか——あの古い鳥居をくぐってしまったからだろうか。
オカルトじみた話だけれど、あの場所には疑うに値する事実がある。
「澪もなんか言ってみて」
「えぇ……じゃあ——」
あの神社は、都筑蒼一ゆかりの土地だ。
時間の垣根を超える、得体の知れない力——タイムリープを扱える人間。
その一族が代々護ってきた神域に、僕は足を踏み入れてしまった。
「鳴海くん、大好きーっ!」
「え、ちょ、今のズルくない!?」
ずっと頭の片隅に引っかかっていたことがある。
蒼一はタイムリープで過去へ飛び、未来を変えるために行動したはずだ。
けれど、僕の知る過去は何ひとつ変わっていない。汐見さんも変わらず不幸のままだった。
「本当に聞こえてないか、確認してみようと思って」
「は? だったらなんでその言葉なのよ」
ということは——過去へ到達したその時点から未来が枝分かれし、新しい時間軸が生まれた。そう考えるのが自然だろう。
たしかアニメや映画で似た設定を見たことがある。
並行世界と呼ばれる、別の世界線。
フィクションの中で聞きかじった言葉が、今はもっとも現実的な説明に思える。
「……もしかしてマジで告るつもりだった?」
「べつに……今はズルい気がするから」
「ふぅん。今は、ねえ」
考えてみれば、それしか説明がつかない。
もし時間が一本の線しか存在しないなら、過去を変えた瞬間に未来全体が上書きされるはず。
だが、僕はあの日の教室で『蒼一がタイムリープした瞬間』を目撃している。
明らかに矛盾が生じる。《《過去を正した蒼一が、もう一度さかのぼる意味がない》》。
あの場に立ち会った事実そのものが、僕たちが分岐した世界線に取り残された証拠だ。
「澪さぁ、わたしと凛人がべったり仲良くしてるの教室で見てたでしょ?」
「見てないよ。視界に入れなかった」
「ほら、あえてそうしてたんじゃん。予約済みなの」
「……予約?」
蒼一は、汐見澪が不幸のどん底に落ちる前へと戻った。
——『過去に戻ってすべてをやり直す。汐見を必ず助けるから』
今は別の世界線で、彼女の危機を未然に防いでいる——少なくとも僕はそう信じてきた。
でも、今回の時間軸を諦めたように。
あいつはすでに何度も過去をやり直し、そのたびに新しい世界線を生み出してきたのだろう。
「つまり、わたしのほうが先に……す、好きだったわけ」
「……違う」
「違うくないし」
「違うよ。私のほうが……ずっと前から好きだった」
蒼一が気づけないのも無理はない。目の前の時間を生きるあいつには知りようのない事実だ。
ただ、やり直さざるを得なかったのは、どこかで失敗があったからに違いない。
——鳥居の内側で見た、あの焼きつくような映像。
目を背けたくなるほど最悪の光景だった。
「はぁ? 嘘じゃん」
「嘘じゃないよ。彩伽が転校してきたのは、去年の秋でしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、やっぱり間違いないよ」
「え……?」
もしかすると、あのドス黒い情景は、救えなかった『別の世界線の結末』なのかもしれない。
今回の世界線ではたまたま汐見さんを救えた。
でも、ほんの少し歯車が狂っていたら。
彼女の憔悴ぶりを思えば、最悪の未来が訪れていた可能性はじゅうぶんにある。
「だって、私が鳴海くんを気になったの、その年の春だから」
「……嘘」
「ほんと。入学式の日だもん」
待てよ。もし別の結末がいくつも存在するのだとしたら。
あの映像に現れたもうひとり——凪瀬にも、不幸な出来事が起こったんじゃないか?
いや……あのリアルで凄惨な映像がすべてを物語っている。
今日ここで彼女が笑っている事実は、その可能性の否定にならない。
むしろ——
「えっ、聞いてないし!」
「うん、まだ言ってなかったから」
「あと出しはズルくない?」
「ズルくない。切り札だもん」
「何枚あんのよ。禁止よ禁止!」
最悪の事態を、蒼一が回避したと考えるべきだろう。
いつ、どこで、何が原因かもわからない。しかし、目を背けたい惨状があったのはたしかだ。
本来ならば取り返しのつかない結末。
でも、無事に生きている。
別の世界線で救われなかった彼女を、この時間軸では救っていた。だからこうして僕たちは一緒にいられる……。
もちろん、真実を知っているわけじゃない。
ただ、そうだったのかもと想像するしかない。
それでも、確かめたわけでもないのに「それが正しい」と告げている感覚がある。
「……まあ。それよりも、わたしのほうがずっとずっと前だけど」
「嘘だよ。転校生なのに」
蒼一。このバカ、ちゃんと言っとけよ。
人知れず苦しみ、人知れず助ける。
やっぱり……おまえは物語の主人公だ。
ありがとう親友。最高の置き土産だぞ。
「ほんと。きっと、今にわかるから」
「……信じない」
そういえばあの神社、たしか古い呼び名があった気がする。どこかに伝承が残っているかも。
調べるためにも、蒼一の実家に聞けるなら、それが一番早い。
「よし、やるべきことが決まった! ……ん? ふたりとも何かあった?」
「べっつにー?」
「……なんでもないよ」
考えごとがまとまって振り返ると、凪瀬と汐見さんの様子がおかしい。
なんだかギクシャクしてる。ついさっきまであんなに楽しそうにおしゃべりしてたじゃん。
僕が空気も読まずに黙りこくっていたからだろうか。申し訳ないことをした。
お出かけを盛り下げて終わるのも嫌だし、ここは気を取り直して。
「うわ、懐かしーっ」
僕は柵に身を乗り出し、眼下をじっと見つめる。
海辺に沿って、ひっそりとした低い屋根の町並みが見えた。
右手には、以前汐見さんと歩いた防波堤と岩場が連なっている。
左手に目を向ければ、小さな駅舎と商店が集まった中心地。
中央には碧い大海原がどこまでも広がっていた。
「ね、案外悪くないっしょ」
隣に寄ってきた凪瀬がしたり顔で言う。
僕を挟んで反対側には、黙ったまま汐見さんが立った。
「知ったように言うじゃん。ここ、僕の地元なんだけど」
「だって、よーく知ってるからね」
「え? 初めて来たんじゃないの?」
「……まだ、気づかない?」
凪瀬は探るように僕の顔を覗き込んだ。
小悪魔めいた顔つき。地雷系メイクの目元、その奥の瞳がかすかに揺れている。
その瞬間——風呂上がりに見せた、あの素顔が重なった。
「遠国……?」
口にした途端、胸の奥にざわめきが広がる。
この場所。この展望台。
連想が繋がり、かつての知り合いの名前が唐突に浮かび上がった。
「ふふ、そうだよ。……気づくの遅すぎん?」
そよ風がツインテールを揺らす。
凪瀬は挑むように僕を射抜く。同時にその視線は、汐見さんへも突き刺さっているように見えた。




