第31話 海見日和
土曜の昼前、天ノ浦海岸。
灰色がかった雲が低く流れ、波はささやくように寄せては引いていく。
「おおー、絶好の海日和じゃーん!」
浜の手前で、凪瀬が両手をひろげて海風を吸い込んだ。
「ああ、見事に曇ってるな」
「……せっかく来たんだからムードだけでも合わせてくれん?」
凪瀬は腰に手を当て、不満げにこちらをにらんでくる。黒いワンピースの裾が潮風にあおられ、ひらひらと舞う。
そう言われても、梅雨時期の海はただ閑散としている。
砂浜には海の家の骨組みがぽつんと残り、ライフセーバーの旗も、人のざわめきもない。
「どっちにしろ泳がないんだし、涼しいくらいがいいやん」
「……まあ。それならたしかに、今日は絶好の海見日和だね」
「あ、水着回じゃなくて残念なんでしょ」
「それはもちろんそう。……え、顔に出てた?」
凪瀬と汐見さん。美少女と評判のふたりと一緒なのだから、できるなら拝みたかった光景だ。
けれど、海開きはまだ先。叶わぬ願いなのはわかっている。夏よ早く来い。
ふと視線を向けると、汐見さんは前と同じく、水平線を見つめていた。
ネイビーのキャップからこぼれるプラチナブロンドが風に揺れ、血色を取り戻した淡雪の肌にさらさらと触れている。
広がる大海原を前にして、今の彼女は何を感じているのか。
「……ん、どうしたの?」
視線に気づいた汐見さんが小さく首をかしげた。
その表情にかすかな笑みが浮かんでいる。
「いや、つい見惚れてた」
「えっ!?」
「え? あっ、ごめん! 凪瀬との悪ノリが出ちゃった」
驚いた彼女の顔を見て、ようやく自分の言葉を自覚する。
「ふぅん……見惚れてたんだ」
「……仕方ないだろ」
だって、前にここへ来たときの無表情な横顔とはまったく違う。
年相応の自然な、少女らしい素顔に見えたから。
「なぁに、いい雰囲気になっちゃってんの」
「凪瀬にも見惚れてたよ」
「ついでみたいに言うなし」
凪瀬は、つんと真紅のリップを尖らせる。彼女らしい小悪魔な仕草。
ほんとほんと。贅沢な状況だと理解してるって。
海岸線を並んで歩き、途中で防砂林の縁のコンクリブロックに荷物を下ろす。
「浜の中まで歩く?」
「えー、砂がつくじゃん」
「え、じゃあほんとに眺めるだけに来たの?」
「そうだけど」
凪瀬はあっさりと答えた。ドライすぎる。
元地元民の僕も今さら興奮はしないけど、せっかく海に来たのだから、もうちょいテンションを上げてもいいと思う。
浜を駆けて波打ち際できゃっきゃするとか。
「ねー、陽が照る前にピクニックしちゃおーよ」
「そうするかぁ。お腹も空いたし」
「私、飲みものを買ってくるね。どれがいい?」
持参した弁当を広げる。
サンドイッチと唐揚げ。担当を分けつつ、早朝から協力して準備した。すっかり三人暮らしも板についた感じ。
さざなみの生演奏をBGMに、なごやかなランチタイムを過ごす。
平穏そのものだ。こういう休日を過ごせるって、まさに青春だよなぁ。
「はい、凛人のお茶」
「ん? このペットボトル、さっき凪瀬が飲んでなかった?」
「間接キスしよ?」
「どんな誘いだよ」
「その次、私に回してね」
「どういう展開だよ!」
これが青春、なのだろうか。
高校生には少し複雑で、贅沢すぎる関係な気がする。
***
ランチも終えると手持ち無沙汰になり、今度は海から町のほうへと歩き出す。
今回は前回とは逆に、反対側の海岸線から展望台を目指した。
休日にも関わらず、人通りは少ないまま。
僻地には少子化の波が着実に侵食している。引越してった僕が言うのもなんだけど。
「——だからね。小数点以下の計算を強いるくらいなら、そもそもの基準点を見直すべきなんだって」
「いや、なんでベルマークをそんな熱く語れるわけ」
「おばあちゃんですらもう集めてなかったよ」
そんな会話を繰り広げていると、寂れた境内——白波神社の前に出た。
「おっ、蒼一の先祖の神社じゃん。荒れ放題になってんね」
「あれ、凪瀬知ってるんだ?」
「まあね。前に、聞いたことあったから」
意外とマニアックな情報をつかんでたんだな。
けれど、さすがに都筑蒼一の現在地までは知らないだろう。
あいつが時間旅行に出かけたことは秘密だし、凪瀬はチベット高原の僧院で修行中だと思っている。というか、こんな荒唐無稽な話を、よくもまあ皆すんなり信じられたな。
彼女には真実を伝えてやったほうがいいのだろうか。案外、マンガ好きだからすぐに受け入れるかもしれない。
「なんだか、不気味ー」
「昔はそんなふうに思わなかったけどな。よく遊びに来たし」
神社は、静まり返った寂しさを漂わせていた。
瓦礫と枯れ草の隙間から、雑草が伸び広がった荒れ地。奥に眠るおんぼろの蔵。
入口の色褪せた鳥居が、近づきがたい異様な存在感を放っている。
「でも、今は踏み入れたくないなぁ」
「虫いそうだし、罰ゲームでもイヤ」
「……彩伽、そんなこと言ってバチが当たらない?」
「平気っしょ。おばあちゃんっ子は信心深いねぇ」
——そのとき。
鋭い突風が境内を突き抜け、汐見さんのキャップが宙を舞った。
そのまま、敷地内へと飛んでいく。
「澪にバチが当たった」
「どうして私なの……」
「いいよ、僕が取りに行くから」
鳥居をくぐって、鬱蒼とした雑草の中を五歩、六歩と進む。
ストリート調のキャップを拾い上げて——
「あれっ?」
一瞬、手からすり抜けたように見えた。
しかし、手元にはしっかりと握られている。なんだ今の。
「大丈夫、汚れてはないよ」
キャップを掲げながら振り返った、
その瞬間——
「——え」
こちらを見る汐見さんの姿が、砂嵐にまぎれたようにぼやける。
そして、一瞬にして何かにすり替わった。
「うっ——」
思わず視線を逸らす。今度は凪瀬が視界に入った。
心配そうに見つめるその顔が——ぐにゃりと歪む。
反射的にぎゅっと目をつぶる。
だが、もう遅かった。
スプラッタを十倍速で再生するかのように、ドス黒い光景が濁流となって襲いかかる。画面が切り替わる間もなく、赤と黒のフィルムが連続して明滅し、まぶたの裏を灼き焦がした。耳鳴りと吐き気が同時にこみ上げ、呼吸すら奪われる。
——鉄くさい匂いが鼻腔を満たすほど、不快な幻影が脳内を駆け抜けた。
気づけば、境内の外に飛び出していた。
道路に倒れこみそうなところを、ふたりが慌てて引き止める。
心臓が飛び出そうなほど早鐘を打つ。
全身から嫌な汗が吹き出ていた。
「ハァ……ハァ……っ」
「ど、どしたん?」
「大丈夫……?」
凪瀬と汐見さんが、心配そうに覗き込む。
焦った表情は珍しいが、それ以外は何も変わらない——いつも通りの姿。
「鳴海くん……?」
「え……いや、なんでも……」
ないわけがない。
なんだよ今の映像——ふたりの、あの姿は。
白昼夢にしては、あまりにリアルすぎる。
握りしめたキャップを膝に当て、目の前の風化した朱の門を見上げる。
湿り気を帯びた木肌から、古い苔と腐葉土の匂いがかすかに漂う。
色褪せた鳥居は何も語らず——
ただ、威圧するようにそびえていた。




