第28話 ありがとう
同居生活で何より大切なのは、ルールだ。
最初に決めておかないと、あとで必ずトラブルになる。
ふたりきりですら危ういのに、三人になった今こそ、より健全で厳格な仕組みが求められる。
将来の予行練習なんてぬるいことを抜かしている場合じゃない。
僕は家主として、この家のルールをきっぱりと提示しなければ——。
「ふたりとも、何か食べたいものある?」
その前に、まずは食事。
昼休みをすっ飛ばしたせいで、空腹は限界。さっきから「くぅん」と迷子犬みたいな鳴き声を上げている。
「えっ、凛人がつくってくれんの?」
「鳴海くんのお料理、とても美味しいよ。もうコンビニ弁当には戻れない」
「すっかり胃袋つかまれてんじゃん」
凪瀬と汐見さんが「カオマンガイ」「帆立とポワローのガレット」と耳なじみのない要望を出したので、無難にナポリタンに決める。タイパ重視。
キッチンに立つ。
パスタを茹でながら、玉ねぎやピーマン、ウインナーを炒め、ケチャップで和える。
オリーブオイルは多めに、仕上げにバターを落として香りとコクを足す。
ついでに買い置きの惣菜を小皿に分け、三人で協力してダイニングへ運んだ。
テーブルを囲み、「いただきます」と合掌。
凪瀬も空きっ腹だったのか、躊躇なくナポリタンを口に運び、
「え、美味っ! これ喫茶店出せるじゃん!」
「えー? 褒めすぎだろ? ケチャップで炒めただけだし」
「いやいや、こういうレトロ感のある王道スタイルが意外とウケるのよ」
「……そ、そう?」
「でも、小規模飲食は利益率低いかぁ」
「なんでそこは現実的なんだよ」
まんざらでもない顔しちゃって恥ずいだろ。
その隣で、汐見さんは小皿から取って一口食べると、
「おばあちゃんの料理を思い出す……」
「……そうなんだ」
そこに凪瀬が、同情の色を帯びた視線を送る。祖母との絆を気遣う目。
「……懐かしい。おばあちゃんの生ちくわ」
「同じメーカーのやつだったんだね」
「手作りじゃないの?」
「さすがに練り物は買うでしょ」
料理が得意とはいえ、そこまでこだわりがあるわけじゃない。
日々食べるものを、当たり前につくっているだけ。節約と暇つぶしの実益重視だ。
ただ、こういうにぎやかな食卓は、やっぱりあたたかくていいなと思う。
食事を終えると、次はお風呂タイム。
今日はみんな疲れがたまっていると思うので、湯船はもう準備しておいた。
三人いて、うち二人は女の子。順序よく回していかないと夜が更けてしまう。
「じゃーんけーん——」
「あ、やった」
もっとも公平な決め方で、一番風呂の権利を得たのは凪瀬。
次に汐見さんで、トリが僕。
急なお泊まりで着替えがないので、僕のシャツとフリーサイズのジャージを渡す。汐見さんの私物だと、凪瀬には若干小さいらしい。
お風呂場まで案内し、使い終えたタオルの入れ場所やドライヤーの位置などを手短に説明する。
凪瀬は素直に頷いて、
「こっそり覗いてもいいからね」
「決して覗かないから、安心して」
「お爺さんですら欲望に抗えなくて覗くのに?」
「いや、鶴の恩返しってそういう話じゃないから」
古典の解釈が煩悩的すぎる。
洗面所の鍵が掛かったのを確認して、リビングへ戻る。
食後で満足そうな顔の汐見さんが、ソファに背中を預けてくつろいでいた。
三日も住めばだいぶリラックスできる環境になったらしい。
僕もその隣に、少し距離を置いて座る。
気づいた汐見さんは、なぜかスペースを詰めてきた。
「……鳴海くん、いろいろと……ありがとう」
テレビから流れるバラエティの笑い声が落ち着いたタイミングで、ぽつりと言う。
視線を向けると、彼女の瞳はこちらをじっと見つめていた。
「気にしないで。料理も好きだし、この家はやっぱり一人で住むには広すぎるから」
「……ううん、それも助かってるけど、それじゃなくて」
汐見さんは目を伏せ、唇を少し震わせる。
「私が、おかしな行動をとってしまったとき……止めてくれて、ありがとう」
「……ああ」
一昨日、昨日と。
彼女が見せてきた自暴自棄な言動。すべてを諦めたような、虚ろな態度。
祖母の死、事務所への失望、叔母夫婦との対立。
息のできない学校の空気や、さまざまな誤解。
事情が複雑に重なり、彼女の視界は闇にむしばまれていた。
それは、都筑蒼一がすでに手遅れと判断し、僕でさえ心が壊れてしまったと勘ぐるほどに。
「汐見さんが自分で頑張ったからだよ。僕はちょっと支えただけ。たぶん片手分くらい」
「……でも、その片手が大きかった」
汐見さんが僕の手をとる。
少ししっとりとして冷たい、細い指。
僕たちの手は男女の差が見て取れるほど違う。
「この手が、私を離さずにいてくれたから」
ぎゅっと握られる。
その手がじわりと熱を帯びていく。僕の熱か、彼女のものか。
「だから、ありがとう。鳴海くんのおかげで、私は救われたよ」
「……うん。どういたしまして」
その言葉に、僕の中に残っていた不安の影が消える。
その瞳には、確かな希望が宿っている。
汐見さんはもう、自分を見捨てるような真似は、きっとしないに違いない。
少し照れくさいながらも、明るい空気がリビングに戻る。
僕たちは繋いだ手を離さないまま、会話を続けた。
「にしても、川嶋先生が後見人になるって言い出したときは正直びっくりした」
「それは、私も……」
「言ったら悪いけど、そういう面倒なこと、やりたがらない人だと思ってたから」
実際こちらに丸投げしているので、その考えは間違ってもいない。
「でも、ずっと相談に乗ってくれてたよ。何も考えられないなかで、おばあちゃんの遺言についても聞いてくれたり」
「たしかに、茫然自失って感じだったもんね」
「もし先生が名乗り出てくれなかったら……本当に叔母のもとに行くか、知らない施設に引き取られるしかなかったと思う」
「どっちもつらいな」
最悪の事態は回避できたわけだ。
汐見さんが成年になるまでの猶予を、川嶋先生がつくり出した。
教師という立場を越えて、ひとりの女の子の未来を救う。誰にでもできることじゃない。
重大な決断と行動力——ただし、
「そもそもよくわからず聞いていたんだけど、つまり保護者でしょ? あの先生が保護者って、不安じゃない?」
「うん、そのことなんだけど」
汐見さんは目を小さく光らせる。
夢見る少女にも似た瞳だ。
「……実は、いいアイデアを思いついたの」
「え、すごい。なになに?」
「私が鳴海くんと結婚したら、解決だよね」
「ええっ!?」
「家庭があれば、べつに保護者もいらない……よね?」
繋いだ手に力がこもる。彼女は上目遣いで、僕を見つめた。
どうしてそんな目を向けるんだ。
勘違いする……してもいいって、言ってんのか。
汐見さんのその感情は、単に近くの存在に寄りかかっているだけなのか、それとも——
「ま、まだ未成年だし、法律とかも入念に調べないとね?」
「……意気地なし」
ごめん、膨れっ面させて。
返事はできない。
もう少しだけ、確かめる時間がほしいから。




