第26話 任せた
生成りの薄いカーテンの向こうで、雨足が弱まっていく。
掛け時計の秒針がいっそう大きく響いた。
全員の視線が、二通目の遺言書へと向かう。
唖然としたまま動かない叔母夫婦を見やり、川嶋が口を開いた。
「言葉を失ったようなので、代わりに私が読みましょう」
紙がめくられる音だけが響き、沈黙はさらに深まった。
川嶋は書状を持ち上げ、粛々と読み上げた。
「『澪の後見人として仲井戸弁護士を指定する。万一就任できない場合は、親族以外の第三者を後見人とすることを希望する』……ようするに、お祖母様はあなた方に汐見を託す気はなかったようですね」
川嶋は肩をすくめた。
実紀が逆上するように声を荒げる。
「はぁ? こっちは唯一の身内なのにそんな遺言が通るわけ!?」
「通りますよ。仲井戸弁護士もそのように説明していましたし、後見人は法律上、必ずしも親族である必要はないそうです」
「家庭裁判所が決めることだろ? それに、その弁護士が引き受けなければ結局施設行きは変わらない!」
叔母夫婦は露骨な苛立ちを隠さない。
一方、川嶋は二人に目もくれず、汐見さんだけを見つめた。
リムレスメガネの奥の瞳に、真剣さと慈愛が宿っている。
「仲井戸弁護士と相談のうえ、汐見の担任である私が後見人になるつもりです」
「はあっ?」
「えっ?」
叔母夫婦の驚きとほぼ同時に、僕と凪瀬も思わず声を上げた。
汐見さんはすでに知っていたらしく、その言葉を冷静に受け止めている。
そこで今朝、校門での一幕が脳裏をよぎった。そういえば、何か相談していたような。
「利益相反にも当たりませんし、立場も信頼関係も問題はないようです。おそらく家庭裁判所でも、支障なく承認されるでしょう」
川嶋の口元が、シニカルに歪んだ。
「いくら親族でも、不適任者に無理やり任せるわけにはいかないみたいですから」
「なっ、こんな紙切れ一枚で親族の言い分が——」
「二通目の遺言なんて無効よ。そうだ、裁判でケリをつけましょ、裁判!」
「正式な遺言書であれば考慮されますよ。そもそも、あなた方は認められてじゃないですか」
二人の言葉を、川嶋はあっさりと切る。
そのとき、凪瀬がスマホを指でいじりながら、愉快そうに目を細めた。
「ちなみにぃ、ここまでの会話——録音してありますよ。『古い家はいらない』って言葉も、ぜーんぶ」
「こら、凪瀬。校内でスマホを使ったらダメだろう? まあでも、その音声データを提出すれば、審判の参考資料にはなるでしょうねぇ」
凪瀬と川嶋は示し合わせたようにニヤリと笑う。
実紀と孝也の顔色が、サーッと音を立てるように変わった。
もはや二人の下心や卑しさは、隠しようもなく露わになっている。
沈黙を割るように、汐見さんが口を開いた。
「……私は、おばあちゃんが残してくれた居場所と——その思いを受け取って、生きていくから」
革張りの椅子がきしむ。
叔母夫婦は立ち上がると、遺言書を奪うようにして握りしめた。
「もう勝手にすれば。あとで後悔しても知らないから」
「まあ、少なくとも金は手に入る。縁も切れた。せいぜい友達と仲良くやりなさい」
実紀は吐き捨て、孝也は鼻で笑った。
その顔は、余裕のない醜悪さに歪んでいる。
「円満に解決したようで、何よりです」
川嶋は嫌味をひと振りして、淡々と告げた。
「今後の手続きは弁護士を通しましょう。直接やり合うのは時間の無駄なので。……あ、玄関まで見送りましょうか?」
「結構!」
応接室のドアが乱暴に閉まる。
パタパタ、バタバタと、来客用スリッパを鳴らして、二人は忙しなく遠ざかっていった。
最後の最後まで、悪役らしい振る舞いだった。
静かな余韻が応接室に広がる。
諸悪の根源が消え、ようやく呼吸しやすい空気が戻ってきた気がした。
「うううっ……」
汐見さんは肩を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼした。
張りつめていたものがほどけて、安堵した気持ちがあふれたのかもしれない。
立ち上がった川嶋に代わり、隣に回った凪瀬がその背中をそっと撫でる。
「よーく頑張りました」
「……うん……うんっ」
嗚咽混じりの返事が室内に響く。
しかし、これまでにない修羅場を越えたのに、僕の胸にはまだ砂を噛むような不安が残っている。
祖母の遺産。家は残ったけれど、お金はあいつらに根こそぎ持っていかれてしまう。
それで、汐見さんは困らないだろうか。
「そこは心配いらない。汐見の祖母は、かなりしたたかな人だ」
川嶋は普段の飄々とした口調に戻り、汐見さんをちらと一瞥する。
彼女は頷き、鼻をすすりながら答える。
「……通帳の中身を直接見たわけじゃないけど、ほとんど残していないって、おばあちゃんは言ってた。入院費もずいぶんかかったから」
ふと思い出す。
昨日の買い物のとき——汐見さんが見せてくれた通帳。
亡くなった両親の保険金は、引き出された履歴もなく、手つかずのまま残っていた。
——つまり、祖母の預金は、彼女をここまで育てるために注ぎ込まれてきた、ということだ。
「そのうえで、あえて残りの預金を差し出すことで妥協点をつくった形だな。不動産の価値に対する取り分も、それで帳尻を合わせる算段だ」
「……詳しいことはよくわかりませんけど、そこまで考えられていたんですね」
「可愛い孫娘のためなら、とことん手を抜かない人だったのさ」
川嶋が遠くを見つめる。その眼差しには、尊敬に似た感情が宿っているように見えた。
二通の遺言書——孫を守るため祖母が残した、入念な備え。
汐見さんへの愛情に満ちている。
不動産の相続も、彼女が受け継いだ保険金で滞りなく対処できるらしい。大した負担にもならないそう。
「あとで金額に気づいて、また言いがかりをつけてくるかもな。それに、未成年後見の審判もこれからだ。完全解決とまではいってないが——」
重い肩の荷を下ろすように、川嶋は「んおおっ」と大きく伸びをする。
「まあ、面倒なことは弁護士に任せよう。なかなか信頼できそうな好々爺だったぞ」
そう言って、いつもの覇気のない顔へ戻った。いや、教師のベースは普通反対だろ。
「川嶋先生、ありがとうございました。……いろいろ助けてくれて」
「なぁに、可愛い生徒のためだ」
汐見さんが深々と頭を下げると、川嶋はさも当然と肩をすくめた。
そこに凪瀬がニヤリと割り込む。
「流美ちゃん、『私にできることは私がやってる』って言ってたけど、これのことだったわけね」
「まあな。私は立派な担任教師だぞ?」
「わたしに『目を配れ』って丸投げしてきたときは、正直疑ってたけど」
実は僕も、職務怠慢じゃないかとこっそり思っていた。
しかし、実際には裏でよく動いていたのだろう。でなければ、この結果は生まれなかったはずだ。
ただ、気がかりなのは——。
「それより先生……本気で後見人——汐見さんの保護者になるんですか?」
「仕方ないだろ。そうしたほうが丸くおさまる。叔母のところにも施設にも、行かずに済むからな」
たしかに、あの面倒な親戚を言いくるめるには、このくらいの切り札が必要だった。
……川嶋先生。実は頼りがいのある、しっかりとした教師だったんだな。
普段とのギャップすらかっこいい。リスペクトしちゃう。
「鳴海くん、凪瀬さんも……本当にありがとう」
汐見さんが泣きはらした目をハンカチで拭い、こちらにも深く頭を下げて言った。
「いやいや、べつに何もしてないし。むしろ、マンガみたいな吠え面が見られてスッキリ」
「僕も大して……。でも、それで汐見さんは大丈夫?」
「うん。手続きはいろいろ大変だと思うけど……勇気を出して、言いたいことはちゃんと言えた」
そこで、僕の目をじっと見つめる。
「鳴海くんが言ってくれたから。『傷つこうとしないで。諦めないで。心を閉ざさないで』って」
僕がもう曖昧にしか覚えていない言葉を、彼女は一言一句をなぞるように繰り返した。
昨晩に交わした、意味なんてない口約束——のはずだったけれど、
「それに……鳴海くんが立ち上がって、私の気持ちをすべて吐き出してくれたから」
その顔には、晴れ晴れとした笑顔が浮かんでいた。
とても魅力的な、前を向く女の子の表情だ。
その視線が向けられていると思うと、ちょっと照れくさい。
「……よかった。僕も、少しは役に立てたんだね」
汐見さんを取り巻く環境、苦しみの元凶。
こうして、ちゃんと潰すことができたらしい。
蒼一。おまえが救おうとしたクラスメイトは、
代わりに僕が救っておいたぞ。
端役だったけどな。
そっちも上手くやってるか。もし助言できるなら「叔母夫婦を潰せ!」と大声で届けたいぜ。
いつの間にか、雨は上がっていた。
窓越しに太陽の光が濡れた地面を包み、遠くに薄い虹がかかっている。
きっと、悪いことはずっと続かない。
感傷に浸っていると、ひと仕事終えた顔の川嶋が声をかけてきた。
「ところで、鳴海」
「はい、なんでしょう、先生?」
「貸しの百を、まとめて返してもらいたい」
「えっ、急に取り立てる」
いい話で締めたところだったじゃん。せっかく見直したところだったのに。
川嶋はやる気の見えない目で告げる。
「後見人にはなるつもりだ。だが、一緒に生活するほどの甲斐性はない。やる気もない。料理もヘタだ。見守り役より、むしろ介護される側だと自信を持って言える」
「ダメダメじゃん」
「これ以上目をかけすぎると、贔屓とか特別扱いとか、ほら面倒くさいだろ?」
「もっと言葉をオブラートに包んでよ」
そこで、川嶋に先ほどまで見せていた真剣さがふたたび宿る。
あ、これわざとつくってる顔だ。
「同じ目線のクラスメイトが支え役になったほうがいい」
「えっと……ようするに?」
「汐見のことは、あとはおまえに全部任せた」
そう言って、責任を丸ごとこちらへ投げっぱなした。尊敬の念を返してくれ。
というか、貸しの百ってどんな価値基準なんだよ。
「任せたって……」
汐見さんをちらりと見る。
彼女は素知らぬ顔で、
「言ったよね。『頼っていいから。助けようとするし、できなくても、できるだけ寄り添うから』って」
汐見さん、記憶力が良すぎるな。
まあでも、たしか「男に二言はない」って、言っちゃったし。
汐見さんはいつも通りの無表情に見えて、どこか不安そうに僕の返事を待っている。
凪瀬は複雑な表情をしながらも、答えを知っているかのようにため息をついて微笑んだ。
「……わかりました。その頼まれごと、引き受けますよ。やれるだけやってみます」
ちょうどいい口実ができたのかもしれない。
貸し借りの精算と同時に、その役目を引き受ける。
「……あ、そうだ。ところで今後の手続きの連絡役が」
「借りた百は別件で返済予定なので、ここからは貸付になりますけど」
「損得勘定がしっかりしてるな……」
当たり前だろ。そのくらいシビアにやらないと、渡りきれない吊り橋がある。
深い霧もそろそろ晴れて、先が見えてきた気がする。
汐見さんの状況は、まだ好転したばかり。
こんな中途半端なところで、手を離すつもりはない。
僕がこの先も、つつがない日常を送るために。




