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過去改変に消えたタイムリープ主人公の代わりに、この時間軸に取り残されたドン底不幸なヒロインを救う  作者: でい
第三章

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第26話 任せた

 生成りの薄いカーテンの向こうで、雨足が弱まっていく。

 掛け時計の秒針がいっそう大きく響いた。


 全員の視線が、二通目の遺言書へと向かう。

 唖然としたまま動かない叔母夫婦を見やり、川嶋が口を開いた。


「言葉を失ったようなので、代わりに私が読みましょう」


 紙がめくられる音だけが響き、沈黙はさらに深まった。

 川嶋は書状を持ち上げ、粛々と読み上げた。


「『澪の後見人として仲井戸弁護士を指定する。万一就任できない場合は、親族以外の第三者を後見人とすることを希望する』……ようするに、お祖母様はあなた方に汐見を託す気はなかったようですね」


 川嶋は肩をすくめた。

 実紀が逆上するように声を荒げる。


「はぁ? こっちは唯一の身内なのにそんな遺言が通るわけ!?」

「通りますよ。仲井戸弁護士もそのように説明していましたし、後見人は法律上、必ずしも親族である必要はないそうです」

「家庭裁判所が決めることだろ? それに、その弁護士が引き受けなければ結局施設行きは変わらない!」


 叔母夫婦は露骨な苛立ちを隠さない。

 一方、川嶋は二人に目もくれず、汐見さんだけを見つめた。

 リムレスメガネの奥の瞳に、真剣さと慈愛が宿っている。


「仲井戸弁護士と相談のうえ、汐見の担任である私が後見人になるつもりです」

「はあっ?」

「えっ?」


 叔母夫婦の驚きとほぼ同時に、僕と凪瀬も思わず声を上げた。

 汐見さんはすでに知っていたらしく、その言葉を冷静に受け止めている。

 そこで今朝、校門での一幕が脳裏をよぎった。そういえば、何か相談していたような。


「利益相反にも当たりませんし、立場も信頼関係も問題はないようです。おそらく家庭裁判所でも、支障なく承認されるでしょう」


 川嶋の口元が、シニカルに歪んだ。


「いくら親族でも、不適任者に無理やり任せるわけにはいかないみたいですから」

「なっ、こんな紙切れ一枚で親族の言い分が——」

「二通目の遺言なんて無効よ。そうだ、裁判でケリをつけましょ、裁判!」

「正式な遺言書であれば考慮されますよ。そもそも、あなた方は認められてじゃないですか」


 二人の言葉を、川嶋はあっさりと切る。

 そのとき、凪瀬がスマホを指でいじりながら、愉快そうに目を細めた。


「ちなみにぃ、ここまでの会話——録音してありますよ。『古い家はいらない』って言葉も、ぜーんぶ」

「こら、凪瀬。校内でスマホを使ったらダメだろう? まあでも、その音声データを提出すれば、審判の参考資料にはなるでしょうねぇ」


 凪瀬と川嶋は示し合わせたようにニヤリと笑う。

 実紀と孝也の顔色が、サーッと音を立てるように変わった。

 もはや二人の下心や卑しさは、隠しようもなく露わになっている。


 沈黙を割るように、汐見さんが口を開いた。


「……私は、おばあちゃんが残してくれた居場所と——その思いを受け取って、生きていくから」


 革張りの椅子がきしむ。

 叔母夫婦は立ち上がると、遺言書を奪うようにして握りしめた。


「もう勝手にすれば。あとで後悔しても知らないから」

「まあ、少なくとも金は手に入る。縁も切れた。せいぜい友達と仲良くやりなさい」


 実紀は吐き捨て、孝也は鼻で笑った。

 その顔は、余裕のない醜悪さに歪んでいる。


「円満に解決したようで、何よりです」


 川嶋は嫌味をひと振りして、淡々と告げた。


「今後の手続きは弁護士を通しましょう。直接やり合うのは時間の無駄なので。……あ、玄関まで見送りましょうか?」

「結構!」


 応接室のドアが乱暴に閉まる。

 パタパタ、バタバタと、来客用スリッパを鳴らして、二人は忙しなく遠ざかっていった。

 最後の最後まで、悪役らしい振る舞いだった。




 静かな余韻が応接室に広がる。

 諸悪の根源が消え、ようやく呼吸しやすい空気が戻ってきた気がした。


「うううっ……」


 汐見さんは肩を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼした。

 張りつめていたものがほどけて、安堵した気持ちがあふれたのかもしれない。

 立ち上がった川嶋に代わり、隣に回った凪瀬がその背中をそっと撫でる。


「よーく頑張りました」

「……うん……うんっ」


 嗚咽混じりの返事が室内に響く。

 しかし、これまでにない修羅場を越えたのに、僕の胸にはまだ砂を噛むような不安が残っている。

 祖母の遺産。家は残ったけれど、お金はあいつらに根こそぎ持っていかれてしまう。

 それで、汐見さんは困らないだろうか。


「そこは心配いらない。汐見の祖母は、かなりしたたかな人だ」


 川嶋は普段の飄々とした口調に戻り、汐見さんをちらと一瞥する。

 彼女は頷き、鼻をすすりながら答える。


「……通帳の中身を直接見たわけじゃないけど、ほとんど残していないって、おばあちゃんは言ってた。入院費もずいぶんかかったから」


 ふと思い出す。

 昨日の買い物のとき——汐見さんが見せてくれた通帳。

 亡くなった両親の保険金は、引き出された履歴もなく、手つかずのまま残っていた。

 ——つまり、祖母の預金は、彼女をここまで育てるために注ぎ込まれてきた、ということだ。


「そのうえで、あえて残りの預金を差し出すことで妥協点をつくった形だな。不動産の価値に対する取り分も、それで帳尻を合わせる算段だ」

「……詳しいことはよくわかりませんけど、そこまで考えられていたんですね」

「可愛い孫娘のためなら、とことん手を抜かない人だったのさ」


 川嶋が遠くを見つめる。その眼差しには、尊敬に似た感情が宿っているように見えた。

 二通の遺言書——孫を守るため祖母が残した、入念な備え。

 汐見さんへの愛情に満ちている。

 不動産の相続も、彼女が受け継いだ保険金で滞りなく対処できるらしい。大した負担にもならないそう。


「あとで金額に気づいて、また言いがかりをつけてくるかもな。それに、未成年後見の審判もこれからだ。完全解決とまではいってないが——」


 重い肩の荷を下ろすように、川嶋は「んおおっ」と大きく伸びをする。


「まあ、面倒なことは弁護士に任せよう。なかなか信頼できそうな好々こうこうやだったぞ」


 そう言って、いつもの覇気のない顔へ戻った。いや、教師のベースは普通反対だろ。


「川嶋先生、ありがとうございました。……いろいろ助けてくれて」

「なぁに、可愛い生徒のためだ」


 汐見さんが深々と頭を下げると、川嶋はさも当然と肩をすくめた。

 そこに凪瀬がニヤリと割り込む。


「流美ちゃん、『私にできることは私がやってる』って言ってたけど、これのことだったわけね」

「まあな。私は立派な担任教師だぞ?」

「わたしに『目を配れ』って丸投げしてきたときは、正直疑ってたけど」


 実は僕も、職務怠慢じゃないかとこっそり思っていた。

 しかし、実際には裏でよく動いていたのだろう。でなければ、この結果は生まれなかったはずだ。

 ただ、気がかりなのは——。


「それより先生……本気で後見人——汐見さんの保護者になるんですか?」

「仕方ないだろ。そうしたほうが丸くおさまる。叔母のところにも施設にも、行かずに済むからな」


 たしかに、あの面倒な親戚を言いくるめるには、このくらいの切り札が必要だった。

 ……川嶋先生。実は頼りがいのある、しっかりとした教師だったんだな。

 普段とのギャップすらかっこいい。リスペクトしちゃう。


「鳴海くん、凪瀬さんも……本当にありがとう」


 汐見さんが泣きはらした目をハンカチで拭い、こちらにも深く頭を下げて言った。


「いやいや、べつに何もしてないし。むしろ、マンガみたいな吠え面が見られてスッキリ」

「僕も大して……。でも、それで汐見さんは大丈夫?」

「うん。手続きはいろいろ大変だと思うけど……勇気を出して、言いたいことはちゃんと言えた」


 そこで、僕の目をじっと見つめる。


「鳴海くんが言ってくれたから。『傷つこうとしないで。諦めないで。心を閉ざさないで』って」


 僕がもう曖昧にしか覚えていない言葉を、彼女は一言一句をなぞるように繰り返した。

 昨晩に交わした、意味なんてない口約束——のはずだったけれど、


「それに……鳴海くんが立ち上がって、私の気持ちをすべて吐き出してくれたから」


 その顔には、晴れ晴れとした笑顔が浮かんでいた。

 とても魅力的な、前を向く女の子の表情だ。

 その視線が向けられていると思うと、ちょっと照れくさい。


「……よかった。僕も、少しは役に立てたんだね」


 汐見さんを取り巻く環境、苦しみの元凶。

 こうして、ちゃんと潰すことができたらしい。


 蒼一。おまえが救おうとしたクラスメイトは、

 代わりに僕が救っておいたぞ。

 端役だったけどな。

 そっちも上手くやってるか。もし助言できるなら「叔母夫婦を潰せ!」と大声で届けたいぜ。


 いつの間にか、雨は上がっていた。

 窓越しに太陽の光が濡れた地面を包み、遠くに薄い虹がかかっている。

 きっと、悪いことはずっと続かない。


 感傷に浸っていると、ひと仕事終えた顔の川嶋が声をかけてきた。


「ところで、鳴海」

「はい、なんでしょう、先生?」

「貸しの百を、まとめて返してもらいたい」

「えっ、急に取り立てる」


 いい話で締めたところだったじゃん。せっかく見直したところだったのに。

 川嶋はやる気の見えない目で告げる。


「後見人にはなるつもりだ。だが、一緒に生活するほどの甲斐性はない。やる気もない。料理もヘタだ。見守り役より、むしろ介護される側だと自信を持って言える」

「ダメダメじゃん」

「これ以上目をかけすぎると、贔屓とか特別扱いとか、ほら面倒くさいだろ?」

「もっと言葉をオブラートに包んでよ」


 そこで、川嶋に先ほどまで見せていた真剣さがふたたび宿る。

 あ、これわざとつくってる顔だ。


「同じ目線のクラスメイトが支え役になったほうがいい」

「えっと……ようするに?」

「汐見のことは、あとはおまえに全部任せた」


 そう言って、責任を丸ごとこちらへ投げっぱなした。尊敬の念を返してくれ。

 というか、貸しの百ってどんな価値基準なんだよ。


「任せたって……」


 汐見さんをちらりと見る。

 彼女は素知らぬ顔で、


「言ったよね。『頼っていいから。助けようとするし、できなくても、できるだけ寄り添うから』って」


 汐見さん、記憶力が良すぎるな。

 まあでも、たしか「男に二言はない」って、言っちゃったし。


 汐見さんはいつも通りの無表情に見えて、どこか不安そうに僕の返事を待っている。

 凪瀬は複雑な表情をしながらも、答えを知っているかのようにため息をついて微笑んだ。


「……わかりました。その頼まれごと、引き受けますよ。やれるだけやってみます」


 ちょうどいい口実ができたのかもしれない。

 貸し借りの精算と同時に、その役目を引き受ける。


「……あ、そうだ。ところで今後の手続きの連絡役が」

「借りた百は別件で返済予定なので、ここからは貸付になりますけど」

「損得勘定がしっかりしてるな……」


 当たり前だろ。そのくらいシビアにやらないと、渡りきれない吊り橋がある。

 深い霧もそろそろ晴れて、先が見えてきた気がする。

 汐見さんの状況は、まだ好転したばかり。

 こんな中途半端なところで、手を離すつもりはない。


 僕がこの先も、つつがない日常を送るために。

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